表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
71/78

第71話:夜凪 湊は、保留にされる

◇◆◇◆◇


「夜凪さん。ここのケーキ、すごく美味しいですよ。……はい、あーん」

「えっ、いや、さすがにそれは……」


 駅前のこぢんまりとしたお洒落なカフェ。

 対面ではなく、なぜか横並びのカップルシートに座った宵野 詠が、フォークに刺したショートケーキを俺の口元へと運んできているこの状況は、男の理性を揺さぶるには十分すぎるほどの破壊力を持っていた。


「ダメですか?私、夜凪さんのこと甘やかすって決めましたから。遠慮しないでください」


 詠は少しだけ首を傾げ、上目遣いで俺を見つめている。ターコイズブルーのインナーカラーが、カフェの暖色の照明に照らされて艶やかに光っていた。


「……あ、ありがとな」

 俺が観念してそのケーキを口に含むと、詠は花がほころぶような、年相応の無邪気な笑顔を見せた。


「ふふっ。どうですか?」

「……うん、すごく美味い」

「よかったです。……じゃあ、私も夜凪さんの頼んだそのキャラメルマキアート、一口もらっていいですか?」

「えっ?いや、それ俺が口つけたやつ……」

「いいんですよ。私からお願いしてるんですから」


 俺が止める間もなく、詠は俺のマグカップに両手を添え、ふう、と息を吹きかけてから、ゆっくりと口をつけた。

 その一連の所作があまりにも自然で、かつ生々しくて、俺は完全に動揺して目を逸らしてしまった。


『ギギギギギギギギギギギッ…………!!!!』


 その時、カフェの窓ガラスの向こう側から、ガラスを爪で引っ掻くような、おぞましい怨念の音が聞こえた。


 チラリと視線を向けると、窓の外には誰もいない。


「夜凪さん。聞いてます?」

「…お、おう」

「さっきのプロットの相談の続きなんですけど」

「ヒロインの行動原理についてだったな」

「はい。……主人公を鎖で縛り付けて、周囲から孤立させて自分だけのものにしようとする『聖女』。その愛は確かに深いですけど……主人公は、本当にそれで幸せなんでしょうか?」


 詠の言葉が、鋭く俺の胸を突いた。

 それは単なる小説のプロットへの意見ではない。俺と陽葵の、いびつな関係性そのものへの問いかけだった。


「私なら……」

 詠は、テーブルの下で、俺の手にそっと自分の手を重ねた。

 彼女の指先は少し冷たくて、けれどひどく優しかった。


「主人公を縛る鎖を断ち切って、広い世界を見せてあげます。そして、疲れたらいつでも帰ってこられる『居場所』になります。……夜凪さん。あなたを本当に幸せにできるのは、一体どちらのヒロインだと思いますか?」


 陽葵とは違う、健やかで、優しくて、どこまでも自由な愛。

 それは間違いなく、普通の男なら誰もが憧れる『理想のヒロイン』の姿だった。俺の心は確かに、その心地よさに一瞬だけ、グラリと揺れた。


 でも。

 ――俺の脳裏に浮かんだのは、いつも俺の膝の上で、全てをかなぐり捨てて「好きすぎて死にそうですわ!」と泣きじゃくる、あのひどく不器用で、我儘で、愛おしい顔だった。


「……宵野」


 俺は、重ねられた詠の手を、テーブルの上に出し、優しく外そうとした。

 このまま流されてはいけない。俺は彼女に、明確な意思を伝えようとしたのだ。


 だが。

 詠はそれを許さず、逆に俺の指に、自分の細い指をスルリと絡ませてきた。


「ダメですよ、夜凪さん。……今、答えを出そうとしないでください」

「えっ……」


 詠は少しだけ目を細め、俺の顔をじっと見つめた。


「夜凪さんの優しくて、どこか諦めているような瞳を見ればわかります。……今ここで急かしたら、夜凪さんは義理立てして、きっと『あの聖女』の鎖ごと愛するって言うんでしょう?」

「っ……」

「図星ですね」


 詠はふわりと微笑み、俺の指からスッと、名残惜しそうに手を離して立ち上がった。

 そして、首元のマフラーを巻き直す。


「だから、今日のところは『保留』にしておきます。……無理に今すぐ鎖を解かなくてもいいです。ただ、私の甘やかしが、夜凪さんの心の中に少しでも残ってくれたら、それで十分ですから」

「宵野……」


「今日はありがとうございました、夜凪さん。すごく楽しかったです」


 詠は最後に、小悪魔のような、それでいて全く諦めていない、むしろ狩りを楽しむハンターのような強い瞳で俺を見た。


「私、主人公の気持ちをゆっくりと変えさせるNTR展開も……大好物ですから。また部室で、続きをしましょうね」


 詠はそう言い残して、軽やかな足取りでカフェを出て行った。

 嵐のような後輩の猛攻が去り、俺はどっと疲労を感じてテーブルに突っ伏した。


 テーブルの上には、詠のリップの跡が微かに残ったマグカップが一つ。

 それをぼんやりと見つめながら、俺は深く、重いため息を吐き出した。

 小説のプロット相談という名目だったが、結果的に俺は、宵野からの極めてストレートな好意と誘惑を浴び、しかも明確な拒絶を封じられてしまったことになる。


「……自由な愛、か」


 詠の言う通りだ。

 陽葵の愛は異常だ。重くて、痛くて、キャンパスでは俺を「産業廃棄物」と呼び、隔離の結界を張っている。そんな窮屈な鎖を断ち切ってくれる女の子が目の前に現れたなら、そちらの手を取るのが、人間として正しい選択なのだろう。


 ――ブブッ。

 その時、テーブルに置いていたスマホが短く震えた。

 画面を見ると、美月からの短いメッセージだった。


『……湊。至急、駅裏の公園まで。……大型の猛獣が泣き崩れて、手がつけられない』


「……ははっ、やっぱり逃げられるわけないよな」


 俺は乾いた笑いを漏らし、すっかり冷めきったキャラメルマキアートを一気に飲み干して、席を立った。


◇◆◇◆◇


 カフェを出ると、すっかり日は落ちていた。

 冬の夜空の下、駅前のイルミネーションが、まるで星屑を散りばめたようにチカチカと輝いている。


 大通りの喧騒から少し離れた、駅裏の小さな公園。

 街灯の薄暗い光の下に、見慣れた三人の姿があった。


「うわぁぁぁんっ!!見ましたわ!?見ましたわよね美月さん!あの泥棒猫、私の湊くんが口をつけたカップで間接キスをしましたのよ!?しかも湊くん、指まで絡ませられて……っ!!」


 そこには、ベンチに突っ伏して、子どもみたいに声を上げて大号泣している天ヶ瀬 陽葵の姿があった。

 変装用の巨大なサングラスは額の上にズレ、スカーフはほどけて地に落ちている。

 キャンパスで見せる『絶対零度の聖女』の威厳など、そこには微塵もない。完全にプライドがへし折れた、ただの不器用で嫉妬深い女の子だった。


「……よしよし。陽葵、落ち着いて。……独占企業の胡座は、いつか新規参入のベンチャー(ライバル)に脅かされる。それが資本主義の真理。しらんけど」

「慰めになっていませんわ!!私はどうすればいいんですの!?あの女みたいに、湊くんに自由を与えて優しく甘やかすなんて、私の性格じゃ絶対にできませんわ!だって湊くんが他の女のところに行くなんて……嫌!嫌ですわああぁぁぁ!!」


 美月が淡々と背中を撫でているが、陽葵の号泣は止まらない。

 その横では、春香が「あーあ。最強のプロデューサーが、ただのメンヘラ彼女になっちゃった」と呆れながら、それでも心配そうに陽葵の肩を叩いていた。


「……お前ら、こんな寒いところで何やってんだよ」

 俺がため息をつきながら近づくと、三人が一斉にこちらを振り返った。


「っ!み、湊くん……っ!」

 陽葵はビクッと体を震わせると、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を慌ててコートの袖で隠し、プイッとそっぽを向いた。


「な、なんの用ですの……。どうせ、あのチョコミントのような小娘の甘い言葉に絆されて、私のような窮屈な女など捨てに来たのでしょう……?ええ、分かっていますわ。私なんて、裏で湊くんを縛り付けることしかできない、可愛げのない性悪女ですから……っ」

 いじけきった背中を向けて、陽葵が震える声で吐き捨てる。


 俺は頭を掻きながら、泣きじゃくる陽葵の隣、ベンチの空いているスペースに、どっこいしょと腰を下ろした。


「……お前ら、窓の外からずっと見てただろ」

「見、見てませんわ!」

「見てた。ハンカチ三枚くらい噛みちぎってた」

 美月の即答に、陽葵が「裏切り者ぉっ!」と叫ぶ。


「じゃあ、俺たちの最後の会話も……」

「ガラス越しだから聞こえるわけないじゃん。なんか湊くんが困った顔してて、詠ちゃんが余裕たっぷりに微笑んで立ち去ったのは見えたけど」

 春香がカメラをぶら下げたまま答える。


「……そっか」

 俺は、冬の冷たい夜空を見上げながら、照れ隠しに白い息を大きく吐き出した。


「確かに、あいつにはハッキリ断らせてもらえなかった。……保留にされちまったよ」

「ほ、保留!?じゃあ湊くんは、やっぱりあの女のところへ……!」


「行かねえよ」

 俺は、陽葵の言葉を遮るように、少しだけ強い声で言った。


「そりゃ、自由な愛は他の人からしたら魅力的かもしれないけどさ。俺は『他の人』じゃない夜凪 湊だから」


 ピタリ、と。

 陽葵の泣き声が止まった。


「……え」

 陽葵が、信じられないものを見るように、コートの袖の隙間からゆっくりと顔を上げた。

 涙で濡れた大きな瞳が、すがるように俺を見つめている。


「夜凪 湊にとって一番居心地がいいのは、誰でも入れるような広くて自由な世界じゃない。……お前が俺のためだけにつくってくれた、この窮屈で、異常で、どうしようもなく温かいここだけだと思う」


 冬の冷たい夜空の下、俺の口から出た白い息が、夜風に溶けて消えていく。


 数秒の、完全な静寂。

 そして。


「……ちょっと待って夜凪くん」

 春香が、持っていたカメラを下ろし、真顔で俺を見た。

「それ、ラノベのセリフじゃなくて、リアルで言ってるの?詠ちゃんに保留された後で、陽葵ちゃんにその激重なセリフをガチでぶつけてるの?」

「……湊。……息をするように口説く男。……引くわ。しらんけど」

 美月でさえ、ドン引きしたように数歩後ずさった。


「うるさいな!お前らが聞いてないと思ったから教えたんだろ!絶対に誰にも言うなよ!」

 俺が顔を真っ赤にして怒鳴り散らしていると。


「……み、湊くん……っ」


 陽葵が、震える両手を口元に当てていた。

 その瞳から、今度は恐怖や嫉妬の涙ではなく、圧倒的な安堵と、狂おしいほどの愛情の涙が決壊したように溢れ出す。


「……あぁっ、湊くんっ!好きです!好きですわ……!死ぬほど愛しています……っ!!」


 陽葵は俺の首に腕を巻き付け、そのまま泣きながら、公園のベンチで俺の胸に顔をグリグリと押し付けてきた。

 キャンパスの『聖女』が、人目も憚らずに俺にすり寄り、完全に限界を迎えたヤンデレの顔を見せている。


「おい、陽葵、苦しいって!鼻水がコートにつく!それに春香と美月が見てるだろ!」

「構いませんわ!今すぐここでお二人の前で、湊くんの首筋に私が噛み付いて、絶対的な所有の証を刻み込んでやりますわ!!」

「やめろ!お前はすぐそうやって極端な方向に……っ痛っ、やめっ……!」


 ジタバタと暴れる俺の首元に、陽葵が泣き笑いの顔で本気で噛みつこうとしがみつく。

 その横では、春香が「はい、公開羞恥プレイいただき!カシャカシャカシャッ!」と容赦なく連写し、美月が「……春香。それ、後で頂戴」とニヤニヤしながら言っていた。


 外の世界では忌み嫌われる『特級呪物』と周りから崇拝される『聖女』。

 けれど、この四人が集まれば、そこはいつだって騒がしくて、どうしようもない俺たちの日常だ。


 幸せというものの定義は人それぞれで、他人が他人の物差しで推し量ろうとするものではないし、できるものでもない。


 とはいえ、俺だって完璧な人間じゃない。自由で優しい詠の猛攻は、きっとこれからも続くだろう。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ