第71話:夜凪 湊は、保留にされる
◇◆◇◆◇
「夜凪さん。ここのケーキ、すごく美味しいですよ。……はい、あーん」
「えっ、いや、さすがにそれは……」
駅前のこぢんまりとしたお洒落なカフェ。
対面ではなく、なぜか横並びのカップルシートに座った宵野 詠が、フォークに刺したショートケーキを俺の口元へと運んできているこの状況は、男の理性を揺さぶるには十分すぎるほどの破壊力を持っていた。
「ダメですか?私、夜凪さんのこと甘やかすって決めましたから。遠慮しないでください」
詠は少しだけ首を傾げ、上目遣いで俺を見つめている。ターコイズブルーのインナーカラーが、カフェの暖色の照明に照らされて艶やかに光っていた。
「……あ、ありがとな」
俺が観念してそのケーキを口に含むと、詠は花がほころぶような、年相応の無邪気な笑顔を見せた。
「ふふっ。どうですか?」
「……うん、すごく美味い」
「よかったです。……じゃあ、私も夜凪さんの頼んだそのキャラメルマキアート、一口もらっていいですか?」
「えっ?いや、それ俺が口つけたやつ……」
「いいんですよ。私からお願いしてるんですから」
俺が止める間もなく、詠は俺のマグカップに両手を添え、ふう、と息を吹きかけてから、ゆっくりと口をつけた。
その一連の所作があまりにも自然で、かつ生々しくて、俺は完全に動揺して目を逸らしてしまった。
『ギギギギギギギギギギギッ…………!!!!』
その時、カフェの窓ガラスの向こう側から、ガラスを爪で引っ掻くような、おぞましい怨念の音が聞こえた。
チラリと視線を向けると、窓の外には誰もいない。
「夜凪さん。聞いてます?」
「…お、おう」
「さっきのプロットの相談の続きなんですけど」
「ヒロインの行動原理についてだったな」
「はい。……主人公を鎖で縛り付けて、周囲から孤立させて自分だけのものにしようとする『聖女』。その愛は確かに深いですけど……主人公は、本当にそれで幸せなんでしょうか?」
詠の言葉が、鋭く俺の胸を突いた。
それは単なる小説のプロットへの意見ではない。俺と陽葵の、いびつな関係性そのものへの問いかけだった。
「私なら……」
詠は、テーブルの下で、俺の手にそっと自分の手を重ねた。
彼女の指先は少し冷たくて、けれどひどく優しかった。
「主人公を縛る鎖を断ち切って、広い世界を見せてあげます。そして、疲れたらいつでも帰ってこられる『居場所』になります。……夜凪さん。あなたを本当に幸せにできるのは、一体どちらのヒロインだと思いますか?」
陽葵とは違う、健やかで、優しくて、どこまでも自由な愛。
それは間違いなく、普通の男なら誰もが憧れる『理想のヒロイン』の姿だった。俺の心は確かに、その心地よさに一瞬だけ、グラリと揺れた。
でも。
――俺の脳裏に浮かんだのは、いつも俺の膝の上で、全てをかなぐり捨てて「好きすぎて死にそうですわ!」と泣きじゃくる、あのひどく不器用で、我儘で、愛おしい顔だった。
「……宵野」
俺は、重ねられた詠の手を、テーブルの上に出し、優しく外そうとした。
このまま流されてはいけない。俺は彼女に、明確な意思を伝えようとしたのだ。
だが。
詠はそれを許さず、逆に俺の指に、自分の細い指をスルリと絡ませてきた。
「ダメですよ、夜凪さん。……今、答えを出そうとしないでください」
「えっ……」
詠は少しだけ目を細め、俺の顔をじっと見つめた。
「夜凪さんの優しくて、どこか諦めているような瞳を見ればわかります。……今ここで急かしたら、夜凪さんは義理立てして、きっと『あの聖女』の鎖ごと愛するって言うんでしょう?」
「っ……」
「図星ですね」
詠はふわりと微笑み、俺の指からスッと、名残惜しそうに手を離して立ち上がった。
そして、首元のマフラーを巻き直す。
「だから、今日のところは『保留』にしておきます。……無理に今すぐ鎖を解かなくてもいいです。ただ、私の甘やかしが、夜凪さんの心の中に少しでも残ってくれたら、それで十分ですから」
「宵野……」
「今日はありがとうございました、夜凪さん。すごく楽しかったです」
詠は最後に、小悪魔のような、それでいて全く諦めていない、むしろ狩りを楽しむハンターのような強い瞳で俺を見た。
「私、主人公の気持ちをゆっくりと変えさせるNTR展開も……大好物ですから。また部室で、続きをしましょうね」
詠はそう言い残して、軽やかな足取りでカフェを出て行った。
嵐のような後輩の猛攻が去り、俺はどっと疲労を感じてテーブルに突っ伏した。
テーブルの上には、詠のリップの跡が微かに残ったマグカップが一つ。
それをぼんやりと見つめながら、俺は深く、重いため息を吐き出した。
小説のプロット相談という名目だったが、結果的に俺は、宵野からの極めてストレートな好意と誘惑を浴び、しかも明確な拒絶を封じられてしまったことになる。
「……自由な愛、か」
詠の言う通りだ。
陽葵の愛は異常だ。重くて、痛くて、キャンパスでは俺を「産業廃棄物」と呼び、隔離の結界を張っている。そんな窮屈な鎖を断ち切ってくれる女の子が目の前に現れたなら、そちらの手を取るのが、人間として正しい選択なのだろう。
――ブブッ。
その時、テーブルに置いていたスマホが短く震えた。
画面を見ると、美月からの短いメッセージだった。
『……湊。至急、駅裏の公園まで。……大型の猛獣が泣き崩れて、手がつけられない』
「……ははっ、やっぱり逃げられるわけないよな」
俺は乾いた笑いを漏らし、すっかり冷めきったキャラメルマキアートを一気に飲み干して、席を立った。
◇◆◇◆◇
カフェを出ると、すっかり日は落ちていた。
冬の夜空の下、駅前のイルミネーションが、まるで星屑を散りばめたようにチカチカと輝いている。
大通りの喧騒から少し離れた、駅裏の小さな公園。
街灯の薄暗い光の下に、見慣れた三人の姿があった。
「うわぁぁぁんっ!!見ましたわ!?見ましたわよね美月さん!あの泥棒猫、私の湊くんが口をつけたカップで間接キスをしましたのよ!?しかも湊くん、指まで絡ませられて……っ!!」
そこには、ベンチに突っ伏して、子どもみたいに声を上げて大号泣している天ヶ瀬 陽葵の姿があった。
変装用の巨大なサングラスは額の上にズレ、スカーフはほどけて地に落ちている。
キャンパスで見せる『絶対零度の聖女』の威厳など、そこには微塵もない。完全にプライドがへし折れた、ただの不器用で嫉妬深い女の子だった。
「……よしよし。陽葵、落ち着いて。……独占企業の胡座は、いつか新規参入のベンチャー(ライバル)に脅かされる。それが資本主義の真理。しらんけど」
「慰めになっていませんわ!!私はどうすればいいんですの!?あの女みたいに、湊くんに自由を与えて優しく甘やかすなんて、私の性格じゃ絶対にできませんわ!だって湊くんが他の女のところに行くなんて……嫌!嫌ですわああぁぁぁ!!」
美月が淡々と背中を撫でているが、陽葵の号泣は止まらない。
その横では、春香が「あーあ。最強のプロデューサーが、ただのメンヘラ彼女になっちゃった」と呆れながら、それでも心配そうに陽葵の肩を叩いていた。
「……お前ら、こんな寒いところで何やってんだよ」
俺がため息をつきながら近づくと、三人が一斉にこちらを振り返った。
「っ!み、湊くん……っ!」
陽葵はビクッと体を震わせると、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を慌ててコートの袖で隠し、プイッとそっぽを向いた。
「な、なんの用ですの……。どうせ、あのチョコミントのような小娘の甘い言葉に絆されて、私のような窮屈な女など捨てに来たのでしょう……?ええ、分かっていますわ。私なんて、裏で湊くんを縛り付けることしかできない、可愛げのない性悪女ですから……っ」
いじけきった背中を向けて、陽葵が震える声で吐き捨てる。
俺は頭を掻きながら、泣きじゃくる陽葵の隣、ベンチの空いているスペースに、どっこいしょと腰を下ろした。
「……お前ら、窓の外からずっと見てただろ」
「見、見てませんわ!」
「見てた。ハンカチ三枚くらい噛みちぎってた」
美月の即答に、陽葵が「裏切り者ぉっ!」と叫ぶ。
「じゃあ、俺たちの最後の会話も……」
「ガラス越しだから聞こえるわけないじゃん。なんか湊くんが困った顔してて、詠ちゃんが余裕たっぷりに微笑んで立ち去ったのは見えたけど」
春香がカメラをぶら下げたまま答える。
「……そっか」
俺は、冬の冷たい夜空を見上げながら、照れ隠しに白い息を大きく吐き出した。
「確かに、あいつにはハッキリ断らせてもらえなかった。……保留にされちまったよ」
「ほ、保留!?じゃあ湊くんは、やっぱりあの女のところへ……!」
「行かねえよ」
俺は、陽葵の言葉を遮るように、少しだけ強い声で言った。
「そりゃ、自由な愛は他の人からしたら魅力的かもしれないけどさ。俺は『他の人』じゃない夜凪 湊だから」
ピタリ、と。
陽葵の泣き声が止まった。
「……え」
陽葵が、信じられないものを見るように、コートの袖の隙間からゆっくりと顔を上げた。
涙で濡れた大きな瞳が、すがるように俺を見つめている。
「夜凪 湊にとって一番居心地がいいのは、誰でも入れるような広くて自由な世界じゃない。……お前が俺のためだけにつくってくれた、この窮屈で、異常で、どうしようもなく温かいここだけだと思う」
冬の冷たい夜空の下、俺の口から出た白い息が、夜風に溶けて消えていく。
数秒の、完全な静寂。
そして。
「……ちょっと待って夜凪くん」
春香が、持っていたカメラを下ろし、真顔で俺を見た。
「それ、ラノベのセリフじゃなくて、リアルで言ってるの?詠ちゃんに保留された後で、陽葵ちゃんにその激重なセリフをガチでぶつけてるの?」
「……湊。……息をするように口説く男。……引くわ。しらんけど」
美月でさえ、ドン引きしたように数歩後ずさった。
「うるさいな!お前らが聞いてないと思ったから教えたんだろ!絶対に誰にも言うなよ!」
俺が顔を真っ赤にして怒鳴り散らしていると。
「……み、湊くん……っ」
陽葵が、震える両手を口元に当てていた。
その瞳から、今度は恐怖や嫉妬の涙ではなく、圧倒的な安堵と、狂おしいほどの愛情の涙が決壊したように溢れ出す。
「……あぁっ、湊くんっ!好きです!好きですわ……!死ぬほど愛しています……っ!!」
陽葵は俺の首に腕を巻き付け、そのまま泣きながら、公園のベンチで俺の胸に顔をグリグリと押し付けてきた。
キャンパスの『聖女』が、人目も憚らずに俺にすり寄り、完全に限界を迎えたヤンデレの顔を見せている。
「おい、陽葵、苦しいって!鼻水がコートにつく!それに春香と美月が見てるだろ!」
「構いませんわ!今すぐここでお二人の前で、湊くんの首筋に私が噛み付いて、絶対的な所有の証を刻み込んでやりますわ!!」
「やめろ!お前はすぐそうやって極端な方向に……っ痛っ、やめっ……!」
ジタバタと暴れる俺の首元に、陽葵が泣き笑いの顔で本気で噛みつこうとしがみつく。
その横では、春香が「はい、公開羞恥プレイいただき!カシャカシャカシャッ!」と容赦なく連写し、美月が「……春香。それ、後で頂戴」とニヤニヤしながら言っていた。
外の世界では忌み嫌われる『特級呪物』と周りから崇拝される『聖女』。
けれど、この四人が集まれば、そこはいつだって騒がしくて、どうしようもない俺たちの日常だ。
幸せというものの定義は人それぞれで、他人が他人の物差しで推し量ろうとするものではないし、できるものでもない。
とはいえ、俺だって完璧な人間じゃない。自由で優しい詠の猛攻は、きっとこれからも続くだろう。




