第70話:宵野 詠は、奪いたい
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12月2週目の週末。
吐く息が白く形を成すほどに冷え込んだ空の下、街はすっかりクリスマス一色に染まり上がっていた。
駅前の広場には、見上げるほど巨大なモミの木のツリーが飾られ、色とりどりのオーナメントとイルミネーションが、冬のどんよりとした空気を華やかに彩っている。
どこからともなく流れてくる定番のクリスマスソングに合わせて、恋人たちや家族連れが、誰も彼も幸せそうな顔をして行き交っていた。
そんな浮かれた空気のど真ん中。
俺は待ち合わせのシンボルである時計塔の下で、一人寒さに震えながら白い息を吐き、スマホの時計を眺めていた。
「(……それにしても、まさか本当に宵野と休日に出かけることになるとはな)」
ポケットの中で悴む手を温めながら、俺は数日前の部室での出来事を思い出していた。
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『夜凪さん。来週の週末、部誌の冬号のための資料探しを手伝っていただけませんか?一人だと、専門書を選ぶ自信がなくて……』
キャンパスでの陽葵への宣戦布告の後、部室で二人きりになった際、詠は至極当然のようにそう切り出してきた。
あくまで『部活動の延長』という正当な理由。断る理由もない俺は、あっさりと承諾してしまったのだ。
問題は、俺を『監視下の産業廃棄物』として囲い込んでいる天ヶ瀬 陽葵への言い訳だったのだが……。
『休日に部活の資料探し?……ふん。ゴミが社会の役に立とうという心意気だけは評価して差し上げますわ。せいぜい、一般市民に不快感を与えないよう、日陰を這うように歩いてきなさいな』
と、あっさりと許可が下りてしまった。
密室のVIP室であれだけ俺の膝の上で悶え狂っていたヤンデレが、すんなりと俺の外出を許したことに拍子抜けしたが……よくよく考えれば、陽葵はキャンパス中であれだけ「コイツは私がボランティアで監視しているゴミですわ!」と公言してしまった手前、「私を差し置いて他の女と出かけるなんて許しません!」と表立って引き止める理由がないのだ。自業自得というやつである。
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「……遅れてすみません、夜凪さん」
ふと、背後から澄んだ静かな声が響いた。
振り返ると、そこに立っていたのは宵野 詠だった。
一瞬、俺は目を奪われた。
上質なネイビーのダッフルコートに身を包み、首元には彼女のインナーカラーと同じ、鮮やかなターコイズブルーの分厚いマフラーをぐるぐると巻いている。黒タイツに包まれた華奢な脚と、少しヒールのあるショートブーツ。
冬の冷たい空気によく似合う、どこか涼しげで、けれどすれ違う人が思わず振り返るほどに目を引く、可愛らしい装いだった。
「いや、俺も今来たところだよ。……それより、俺でよかったのか?」
「文学研究会の冬号に出す部誌の資料探し、一人じゃ心細かったので。夜凪さんに付き合ってもらえて、すごく嬉しいです」
詠は小首を傾げ、口元をマフラーに半分埋めながらフフッと笑う。
数日前のキャンパスでの、陽葵に対するあの容赦のない『宣戦布告』。あの時の彼女とは打って変わって、今の詠は、はにかむような笑顔を見せる「少し大人しい、文学好きの可愛い後輩」にしか見えなかった。
「じゃあ、とりあえず駅前の大型書店に向かうか。途中、人が多いから気をつけてな」
「はい。よろしくお願いします」
俺と詠は並んで歩き出し、クリスマスマーケットで賑わう広場を抜けて、駅前の大型書店へと向かった。
――その直後。
俺たちが立っていた時計塔の裏側の植え込みから、三つの不審な人影がズルリと這い出してきたことなど、俺は全く気づいていなかった。
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「……キィィィィッ!!なんなのですかあの泥棒猫は!!待ち合わせで上目遣い!?しかもマフラーに顔を半分埋めるという、古典的かつあざといモテ仕草のフルコース!!万死!万死に値しますわ!!」
駅前の植え込みの陰。
休日の穏やかな風景に全くそぐわない、ドス黒いオーラを放つ女が一人。
黒いトレンチコートの襟を限界まで立て、顔の半分を覆うほどの巨大なハイブランドのサングラスをかけ、さらに頭にはシルクスカーフを真知子巻きにしているという、昭和の大女優の逃避行のような極めて目立つ怪しい女、天ヶ瀬 陽葵だった。ただし、本人は『周囲に完全に溶け込んだ完璧な変装』だと思い込んでいる。
「……陽葵ちゃん、声大きいってば。バレるよ。ていうかその格好、逆に目立ちすぎだから」
その隣で、首から下げた一眼レフカメラにガチの望遠レンズをセットした春香が、呆れ顔で注意する。
「……陽葵。ハンカチ噛みちぎりそう。……落ち着いて。しらんけど」
美月は、いつも通りの無表情でキッチンカーのクレープを食べながら、陽葵のトレンチコートの裾をしっかり掴んで、暴走して飛び出していきそうな猟犬(陽葵)を抑え込んでいた。
「落ち着いていられますか!!なぜあんなチョコミントみたいな小娘と休日に並んで歩いていますの!?ああもう、今すぐあそこへ行って、あの女の髪の毛をすべて黒色に染め直してやりたいですわ!」
「いや、陽葵ちゃんが自分で『アイツは社会のゴミですわ!私はボランティアで監視してるだけです!』ってキャンパスで公言してるからじゃん。建前上、ただの部活の買い出しみたいなものを『私を差し置いてデートなんて許しません!』って止める権利、陽葵ちゃんにはないでしょ?」
「……てか。なんか既視感。しらんけど」
そう、以前にもこのようなことがあった。俺の小説の資料集めということで、春香と美月と一緒に水族館に行った時もこのような感じだった。
「ぐっ……!!」
春香の身も蓋もないド正論をクリティカルヒットで食らい、陽葵は血の涙を流さんばかりにギリィッと奥歯を噛み締めた。
そう、これが表の顔(天ヶ瀬 陽葵 -冷徹のすがた-)と裏の顔(天ヶ瀬 陽葵 -激甘のすがた-)を使い分けている彼女の、最大の弱点かつ自業自得のジレンマだった。
密室でどれだけ膝枕をして愛を囁いていようと、出版のプロデュースに何千万円注ぎ込んでいようと、公の場ではあくまで『ボランティアで隔離してやっている関係』。監視対象が休日に後輩と出かけるのを、嫉妬で引き止めることなど、聖女のプライドが許すはずがないのだ。
「わ、私は監視しているだけですわ!あの歩く呪物が、一般市民に危害を加えないように、天ヶ瀬家の責任として秘密裏に尾行調査を行っているだけです……っ!あっ、ああっ!!今、あの泥棒猫が湊くんに肩をぶつけましたわ!!距離!距離が近いですわ!!肩を削ぎ落とさなくちゃ!!」
「……春香。……上手く密着してる瞬間を切り抜いて。後で高く売るから」
「オッケー!目線もらった!パシャパシャパシャッ!」
ポンコツなスパイ部隊は、人混みに紛れながら、一定の距離を保ってターゲットの二人を追跡し始めた。
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「わぁ、すごく綺麗ですね」
書店へ向かう道すがら。
広場に出店しているクリスマスマーケットのイルミネーションや、雑貨の並ぶ屋台を眺めながら、詠がふんわりと目を細めた。
普段の彼女からは想像もつかないほど、年相応の無邪気な反応だ。
「そうだな。今年は特に気合い入ってるみたいだ。……寒くないか?」
「大丈夫です。夜凪さんが歩幅を合わせてくれているから、ポカポカしてます」
詠はそう言って、右手を口に軽く当てながらくすくすと笑い、笑顔を向けてくる。
俺は少しドギマギしながら視線を逸らした。陽葵のあの『狂気を孕んだ異常な愛情表現』にはすっかり慣らされてしまったが、こういう『普通の女の子の真っ直ぐな好意』を向けられるのは、正直言って心臓に悪い。
……別にこういうのに憧れてるわけじゃないですよ。
「あ、夜凪さん。見てください、あのスノードーム。可愛い」
「お、本当だ。細かい作りだな」
「こっちのオーナメントも素敵ですよ」
詠は時折、人混みを避けるように俺のコートの袖をちょこんと摘みながら歩く。
そのさりげないボディタッチと、絶妙に近い距離感。周囲から見れば、俺たちは完全に『クリスマスの街を楽しむ初々しいカップル』にしか見えないだろう。
そんなことを考えながら、俺たちはようやく駅前の大型書店へと足を踏み入れた。
「へえ、夜凪さん、この作家の初期の作品も読んでるんですね。意外です」
「ああ、構成がすごく綺麗でさ。今の執筆の参考にもしてるんだ」
「あれ、でも夜凪さんって、ライトノベルがメインですよね?」
「高校生くらいまではラノベ一本だったんだけどな。文学研究会に入ったのも少し視野を広げたいと思ったんだよな。だから今は範囲を広げて、色々試してる。純文学とか別ジャンルはやっぱまだあんま伸びないけど、書いてて楽しいんだよな」
書店の専門書・文芸コーナー。
暖房の効いた静かなフロアで、俺は詠と並んで本棚を眺めながら、小説の話題で盛り上がっていた。
詠は読書量が尋常ではなく、俺がメインで書いているジャンルへの造詣も深い。作家としての俺の意図を正確に汲み取ってくれる彼女との会話は、純粋に楽しく、知的欲求が満たされる心地よさがあった。
「夜凪さんの文章は、言葉選びがすごく繊細ですよね。情景描写の裏に、登場人物の隠された感情が透けて見えるというか……」
「そう言ってもらえると嬉しいよ。そこは一番気を使って書いてるから」
「……夜凪さんの書く主人公、私はすごく好きですよ」
ふいに。
詠が本棚から視線を外し、すっと俺の顔を見上げてきた。
二人の距離は、ほんの数十センチ。
彼女のターコイズブルーの髪から、ほんのりと甘い、バニラのような香りが漂ってくる。
「どこか全てを諦めているようで、自分のことはどうでもいいと思っている。でも……本当は誰よりも優しくて、大切な人を傷つけないために、あえて自分が汚れ役を引き受けている。……夜凪さん、そのままですよね」
俺は息を呑んだ。
俺が自己投影して、無意識のうちに主人公に背負わせていた本質。陽葵の傍にいるために俺が選び取ったスタンスを、彼女は作品を通して完全に理解し、肯定してくれたのだ。
「い、いや、俺は別に……そんな大層な人間じゃな――」
「もし」
詠は俺の言葉にかぶせるように言った。そして、続けてこう言った。
「私が、夜凪さんの小説のヒロインだったら――」
詠は、俺のコートの袖口を、冷たい指先でキュッと摘んだ。
しんと静まり返った書店の通路で、彼女の静かな声だけが、俺の耳に直接届く。
「私は、天ヶ瀬さんみたいに、権力で夜凪さんを隔離したり、鎖で縛りつけたりはしません。夜凪さんをゴミ扱いして、世間から遠ざけるような真似は絶対にしない」
詠の瞳が、少しだけ熱を帯びたように揺らいだ。
「……夜凪さんの翼を自由にして、どこまでも高く飛ばせてあげます。でも……」
詠が、さらに一歩。
俺のパーソナルスペースの、最も深いところへと踏み込んでくる。
彼女の甘い吐息が届きそうな距離で、詠は小悪魔のように微笑んだ。
「夜凪さんが、自分から『詠のところに帰りたい』って思わずにはいられないくらい……優しく甘やかして、ダメにしてあげます」
ドキッ、と。
俺の心臓が、柄にもなく警鐘のように大きく跳ねた。
普段は無口な詠の、あまりにも直接的で、そして陽葵の『束縛』とは全く違うベクトルの、恐ろしいほどの『甘い誘惑』。
「……な、なに言って……」
俺が完全に顔を赤くして言葉を濁した、まさにその時だった。
――ガッシャァァァァン!!!
本棚を三つほど挟んだ向こう側の通路で、分厚い専門書が大量に崩れ落ちるような、ものすごい物音が響き渡った。
「えっ?なんだ?」
俺が驚いて振り返ろうとすると、詠は「ふふっ」と小さく笑い、俺の袖を引いて視線を戻させた。
「なんでもないですよ。多分……大きな『猫』が、バランスを崩して転んだだけだと思います」
「猫?本屋に?」
「ええ。とっても不器用で、ものすごく嫉妬深い猫です」
詠はそう言って、本棚の隙間――崩れた本の山から、ハイブランドのサングラスをズレさせた状態で「ギリィィィッ」と般若のような恐ろしい顔でこちらを睨みつけている『不審者(陽葵)』に向けて、極上の小悪魔スマイルを向けてパチンとウインクした。
その瞬間、不審者の口から「キシャァァァァッ!!」という、およそ人間のものとは思えない凄まじい威嚇音が漏れた気がしたが、多分気のせいだろう。
「な、なんか聞こえたような……」
もう一度振り返ろうとする俺を、詠は細い腕でしっかりと引き止める。
「気のせいですよ。……さ、夜凪さん。資料も無事に買えましたし、次はあそこのカフェで、プロットの相談に乗らせてください」
「お、おう。いいけど……」
詠に腕を引かれ、俺は半ば強引に書店を後にした。
その後ろ姿を、変装した陽葵が、床に散乱した本を店員に平謝りしながら片付ける春香と美月の横で、嫉妬の炎でドロドロになりながら見送っていたことなど、やはり俺は全く知る由もなかったのだった。
自分の心を誰かに決めたという事実よりも後に、「この人いいな……」「この人が、自分の相手だったら」なんて、一瞬でも不意に思った経験はないだろうか?揺らぐ人間の心理というものは、俺にはまだ深く理解できていなかった。




