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第64話:辻岡 春香は、暴きたい

 10月に入り、キャンパスの銀杏並木が黄金色に染まり始めた頃。


 俺たちは、天ヶ瀬家の司令室(本来はホームシアタールームだが、美月によって改造された)で、重苦しい空気に包まれていた。



「――却下ですわ。論外。言語道断。万死に値します」


 陽葵が、冷徹な声で言い放った。彼女の目の前には、テーブルに両手をついて必死に訴える辻岡 春香がいる。


「お願い陽葵ちゃん!この通り!夜凪くんを……夜凪くんを一泊二日だけ私に貸して!」


「貸す?貴女、私の最愛の所有物を、TSUTAYAの旧作DVDか何かと勘違いしていまして?しかも『カップル限定』の宿泊プラン?……私の目の前でそれを提案する度胸だけは褒めて差し上げますけれど、その首、胴体と繋がっている必要あります?」


 陽葵の背後に、阿修羅のようなオーラが見える。俺は震えながら事の経緯を見守っていた。


 事の発端は、春香が持ち込んだ一つのスクープネタだった。


 ここ数ヶ月、富裕層のカップルを中心に被害が拡大している謎のセミナー『エターナル・ラブ・サンクチュアリ』。通称、ELS。


 表向きは高級リゾートホテルでの『愛を深めるスピリチュアル講座活動』がメインだが、実態は洗脳に近い手法で高額な壺や数珠を売りつける悪徳霊感商法だという。


「潜入取材をして、決定的な証拠を押さえたいの!でも、参加条件は『真剣交際しているカップル』のみ。しかも相手はプロの詐欺師集団だよ?即席のパートナーじゃボロが出る……。私と阿吽の呼吸で動けて、かつ私が背中を預けられる男性なんて、夜凪くんしかいないの!」


 春香の熱弁に対し、陽葵は優雅に扇子を開いた。

「お断りです。警察に任せなさい」

「…警察は被害届が出されないと動けないもん!被害者は皆、洗脳されてるから、自分自身を被害者だなんて思ってないから、そんな届けなんて出さない!



「……では、私が湊くんと夫婦として潜入して壊滅させますわ」


 当然の帰結だ。俺もそうなると思っていた。


 だが、キーボードを叩いていた美月が、冷水を浴びせるように言った。


「……それは無理。陽葵じゃダメ」

「なんですって?」


 美月がメインモニターにデータを映し出す。そこには『ELS』の運営幹部のリストがあった。


「……この団体、バックにいるのは天ヶ瀬グループの敵対派閥。……陽葵の顔写真は既に『最重要警戒人物』としてブラックリストに入ってる。……変装しても、骨格認証システムでバレる。陽葵が行けば、玄関で門前払いか、最悪の場合、拉致される。しらんけど」


 陽葵の動きがピタリと止まった。

「……私の顔が割れている、と?」

「……うん。ちなみに私も。対して、湊はまだノーマーク。……そして春香は、まだ辻岡家の長女というだけ。顔も名前も割れていない。彼らにとって完全に無名のカモ。……潜入できるのは、この二人しかいない。そして」


 美月は言いにくそうに、こう続けた。


「……このまま、この集団を野放しにしていると、被害が及ぶのはあなたの父親」

「………な……」

 陽葵はギリギリと扇子の柄を握りしめ、数分間の沈黙の後、血を吐くような思いで決断を下した。


「……よろしい…。許可しますわ」

「本当!?」

 春香が顔を輝かせる。


「ただし!!」

 陽葵は俺と春香を指差し、鬼の形相で宣言した。


「条件があります。一つ、湊くんと春香さんには常時、超小型カメラと盗聴器、および私の指示が聞こえるインカムを装着すること。二つ、作戦指揮はここから私が執ります。一挙手一投足、全て私の指示通りに動くこと。三つ……もし間違いでも過ちでも『一線』を超えそうになった場合……」


「……場合…?」


「即座に現地の特殊部隊が突入し、ホテルごと爆破します」


「ホテルごと!?」


「……春香さん。貴女のジャーナリストとしての腕は信用しています。……ですが、私の湊くんを傷つけたり、汚したりしたら……分かっていますわね?」


 その瞳の奥にある、凄絶なまでの信頼と圧力。

 春香はゴクリと唾を飲み込み、真剣な顔で敬礼した。


◇◆◇◆◇


 そして週末。

 俺と春香は、人里離れた山奥にある高級リゾートホテル『深山オーベルジュ 蒼寂そうじゃく』にいた。


 チェックインカウンターには、幸せそうなカップルが列をなしている。


『……聞こえてますか、湊くん。マイクのテストですわ』

 俺の左耳の奥、極小インカムから陽葵の声が響く。クリアすぎて、まるで脳内に直接語りかけられているようだ。

「……ああ、聞こえてるよ」


 隣に立つ春香は、清楚なワンピースにカーディガンという、普段の活発なイメージとは真逆で、深窓の令嬢風コーデで決めていた。これも潜入のための偽装だ。


「……大丈夫だよ。私に任せて」

 春香が小声で囁き、俺の腕にギュッと腕を絡めてきた。

 柔らかい感触が二の腕に伝わる。心拍数が上がる。


『警告。心拍数上昇。……湊くん?今、春香さんの胸部が貴方の腕に接触しましたわね?角度にして30度、接触面積はおよそ――』

「(不可抗力だろ)」


 チェックインを済ませ、通されたのは最上階のスイートルーム。

 ドアを開けた瞬間、俺たちは絶句した。


 そこにあるのは、ガラス張りのバスルームと、部屋の中央に鎮座するキングサイズのダブルベッドが一つ。


「……え」

 春香が素に戻る。

「……あ、そっか。カップルプランだもんね……」


 俺たちが呆然としていると、インカムから美月の声が響いた。

『……湊、春香。動かないで。……部屋のスキャン完了。……盗聴器3つ、隠しカメラ2つ発見』


「ッ!?」

 俺と春香が顔を見合わせる。


『……場所は盗聴器がテレビ横、換気扇、ベッドのヘッドボード。隠しカメラがベッド横のコンセントの両サイドに各一つずつ。……このホテル、客のプライベートを監視して、詐欺のネタにしてる。『ELS』と裏でつながってる』


 最悪だ。部屋に入っても気は抜けない。

 むしろ、ここからが地獄の始まりだった。


『……湊くん、春香さん。聞こえていて?』

 陽葵の声が、低く響く。

『敵は監視しています。……つまり、貴方たちはこの部屋にいる間、一瞬たりとも気を抜かず熱愛中のバカップルを演じ続けなければならないということですわ』


「えっ……」


『さあ、演技開始!春香さん、ソファに座って!湊くん、彼女の肩に手を回して!自然に!早く!』


 俺たちはロボットのような動きでソファに座り、俺は春香の肩に手を回した。

 春香の体がカチコチに固まっている。


『ダメですわ!硬い!もっとリラックスして!湊くん、もっと引き寄せて!……頬を近づけて!吐息がかかる距離まで!』


 陽葵の指示に従い、俺は春香を引き寄せた。

 春香の顔が目の前にある。真っ赤な顔。潤んだ瞳。

 甘い香りが鼻腔をくすぐる。


 その瞬間、インカムから破壊音のような絶叫が響いた。


『うぎぎぎぎぎ!近い!近いですわよ泥棒猫ォォォォ!!湊くんの顔が!唇が!半径5センチ圏内に侵入していますわ!離れなさい!今すぐ離れなさい!いや離れちゃダメ!演技して!でも殺す!あの女殺す!ああああ!』


『……陽葵、落ち着いて。……矛盾してる』


 美月の冷静なツッコミが入るが、陽葵の錯乱は止まらない。

 俺と春香は、見えないカメラに向かって笑顔を作りながら、耳元で響く「もっとやれ!」「やっぱ殺す!」という罵声に耐え続けるという、新手の拷問を受けることになった。


「(……これ、いつまで続くんだ……)」

「(……私、寿命が縮んでる気がする……)」


 俺たちは引きつった笑顔で見つめ合い、震える手で互いに水を飲ませ合った。


◇◆◇◆◇


 地獄の自由時間が終わり、ようやくセミナー開始の時間が迫っていた。俺たちは逃げるように部屋を出て、セミナー会場へ向かった。


 会場は異様な熱気に包まれていた。

 薄暗いホール、焚かれた怪しげな香、ステージ上で愛の波動について説く教祖風の男。

 参加者たちは皆、トランス状態のように頷いている。


「(……うわ、完全に洗脳されてる)」

 春香の目が、ジャーナリストの鋭い光を帯びる。彼女はバッグに隠したカメラで会場を撮影しながら、俺の耳元で囁く。


「ターゲットはあの教祖がステージ脇に置いたノートPC。あの中に顧客データと裏帳簿があるはず。……今から『瞑想の時間』で照明が落ちる。その隙に私が教祖に接触して注意を引くから、夜凪くんがデータを抜いて」

「(了解)」


 俺が頷いたのち、照明が落ち、会場が闇に包まれる。

 俺は息を潜めて移動を開始した。ステージ脇、PCの前へ。

 美月が用意した特殊なUSBメモリを差し込む。自動的にコピーが始まる。


 プログレスバーが進む。

 20%……50%……遅い。予想よりデータ量が重い。


 その時だ。

 コツ、コツ、と重い足音が近づいてきた。

 見張り役の屈強な警備員だ。彼は懐中電灯を手に、ステージ脇の俺の気配を察知して近づいてくる。


『湊くん!3時の方向から警備員!距離5メートル!隠れる場所がありませんわ!』

 陽葵の悲鳴に近い警告。

 逃げ場はない。USBを抜けばデータは破損する。

 ライトの光が、俺の足元を照らそうとした――その瞬間。


「いやぁぁぁぁーーッ!!!」


 会場の静寂を引き裂くような、春香の絶叫が響き渡った。


「ダーリン!なんで!?なんで浮気なんかしたのよぉぉぉ!!」


 春香は暗闇の中、教祖の目の前で、突然ヒステリーを起こした妻のように泣き叫んでいた。

「私の愛が足りないって言うの!?先生!聞いてくださいよぉ!あの人ったらひどいんです!昨日の夜だって……!」


「えっ、ちょ、奥さん!?」

 教祖が狼狽える。

 警備員も、突然の修羅場に驚き、ライトを俺ではなく春香の方へ向けた。「おい、なんだ!?」と駆け寄っていく。


 ――ナイスだ、春香。

 その一瞬の隙に、コピー完了のランプが点灯した。

 俺はUSBを抜き取り、闇に紛れて会場を離脱した。


「明かりだ!明かりをつけろ!」

 警備員の男が叫ぶが時は既に遅い。


 春香は、明かりがつく直前に「うわぁぁん!もう知らない!」と演技を続け、会場を飛び出し。俺と合流した。


「ナイス名演技だ。春香」

 俺はUSBをちらつかせながら伝えた。

 


◇◆◇◆◇


 命からがら部屋に戻ったのは、深夜0時を回った頃だった。データは確保した。あとは明日の朝、チェックアウトして帰るだけだ。

 だが、俺たちにはまだ、最大の試練が残っていた。


 ――就寝タイムである。


 外は、予報になかった激しい雷雨に見舞われていた。

 窓ガラスを叩く雨音と、時折光る稲妻。

 部屋には、キングサイズのベッドが一つ。


『……湊。……隠しカメラと盗聴器、私のハッキングでループ映像、ループ音声に差し替えた。……もう演技しなくていい。……普通に寝て』

 美月のファインプレーだ。


「……ふぅ。やっと解放されたね……」

 春香がへなへなと座り込む。


「……しょ、しょうがないよね!部屋、ここしかないし!」

 シャワーを浴びてバスローブ姿になった春香が、空元気で言う。

「わ、私、端っこで寝るから!夜凪くんは反対の端っこで!間には枕で壁作るから!」


 俺たちは枕を積み上げ、背中合わせに横になった。

 電気を消す。

 静寂。聞こえるのは雨音と、春香の少し早い鼓動だけ。


 ――ゴロゴロ……ドカーンッ!!


 近くに雷が落ちた。部屋が青白く光る。


「ひゃうっ!!」

 春香が小さく悲鳴を上げ、布団の中で縮こまったのが分かった。

 そうだ。前に、何気ない会話で春香は昔から雷が苦手だという話を聞いたことがあった。


 インカムから、陽葵の声が聞こえた。

『……湊くん。寝ていますか?』

 俺は指でマイクをトン、と叩く。


『……カメラで見ています。……春香さん、震えていますわね』

 陽葵の声は、先ほどまでの嫉妬に狂ったものではなく、どこか静かで、諦めたような、それでいて優しい響きを持っていた。


『……悔しいですけれど、今のあなたたちの距離感……。背中合わせで、決して触れ合わないように努力しているその姿勢……。合格点をあげますわ』


 陽葵は、画面越しに俺たちの誠実さを見ていたのだ。


『……怖がっている女の子を放置するのは、紳士のすることではありませんわ。……手くらいなら、握ってあげても、特例で許可します。……私が許します』


 その言葉に背中を押され、俺は枕の壁を越えて、そっと春香の手を探り当てた。

 冷たくて、小さく震えている手。俺が握ると、ビクッ、と反応があった。


「……湊くん?」

「……大丈夫だ。俺も、陽葵も、美月もついてる」

「……うん。……あったかい」


 春香が俺の手を握り返してくる。

 それは恋人繋ぎのような甘いものではなく、命がけのミッションを共に乗り越えた「戦友」への信頼の証だった。


「……陽葵ちゃんに、怒られちゃうね」

「いや。陽葵が『握ってやれ』ってさ」

「……そっか。……やっぱり、敵わないなぁ、陽葵ちゃんには」


 春香は小さく笑い、安堵したように息を吐いた。


「……おやすみ、夜凪くん」

「おやすみ」


 俺たちは手を繋いだまま、泥のように眠りに落ちた。

 雷鳴は遠ざかり、インカムの向こうで、誰かが安堵の息を漏らしたのを、俺は夢うつつに聞いた。


◇◆◇◆◇


 翌日。

 晴れ渡る青空の下、俺たちはチェックアウトを済ませた。


 持ち帰ったデータのおかげで、悪徳セミナーは後日、警察の家宅捜索を受け壊滅することになる。


 数日後。天ヶ瀬家のリビング。

 俺、陽葵、春香、美月の四人が集まっていた。


「――というわけで!今回の作戦は大成功でした!」

 春香がVサインをする。


 陽葵は腕を組み、ツンと顔を背けた。

「……フン。結果オーライですわ。湊くんがお風呂の時、チラチラ見てませんでした?本来なら春香さんを東京湾に沈めるところですわよ」


「ひぃっ!み、見てないってば!」


「……ですが」

 陽葵は言葉を切り、少しだけ頬を染めて、春香の方を見た。


「……貴女が、あの会場でのピンチの時。『錯乱した妻』の演技で切り抜けた機転。……そして、湊くんが寝ている間、一度も寝返りを打たずに彼との距離を保っていた理性……。そのプロ根性だけは、認めて差し上げます」


「え……?」


「今回だけは、貸してあげたことにしておきますわ。……私の湊くんを守ってくれて、感謝します」


 それが、彼女なりの精一杯のデレだった。

 春香は目を丸くし、それから嬉しそうに笑った。


「……陽葵ちゃん……!」


 抱きつこうとする春香を「近寄るな!」と扇子でガードしながらも、陽葵の表情はどこか満足げだ。

 美月が横からタブレットを操作する。


「……まあ、丸く収まった。……ちなみに、あの夜の二人の寝顔映像、高値で売れそう。しらんけど」

「美月!?消してよ!?」


 俺たちの偽りのハネムーンは、こうして幕を閉じた。

 春香との絆は深まったけれど、それ以上に、遠く離れていても俺を信じてくれた陽葵との絆が、何よりも強固になった気がした。


 ……まあ、その代償として、その夜から一週間、陽葵による「消毒(という名の過剰なスキンシップ)」が続いたのは言うまでもないが。

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