第60話:夜凪 湊は、バイトがしたい
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梅雨が明け、濡れたアスファルトから立ち昇る陽炎が視界を歪ませる、大学1年の初夏。
外の世界は蒸し暑い熱気に包まれているが、ここ、天ヶ瀬家の広大なリビングだけは、完璧に温度管理された快適な聖域だった。
文学研究会での一件以来、俺の放課後は完全にルーティン化していた。
大学が終わると天ヶ瀬家の車で屋敷へ直行。最高級のソファに座り、膝の上に天ヶ瀬 陽葵を乗せ、彼女の頭を撫でながらノートパソコンで執筆をする。
傍から見れば軟禁に近いが、この重みと体温が、今の俺には不思議と心地よい執筆のスイッチになっていた。
「……んぅ…。…湊くん……そこ、気持ちいいですわ……」
俺が髪を梳くように撫でると、陽葵は喉を鳴らす猫のように目を細め、俺の太ももに頬をすり寄せる。
少し離れたダイニングテーブルでは、春香は月刊誌に寄稿しているコラムの記事を書き、美月が涼しげな顔でアイスティーを飲んでいる。
平和だ。平和すぎる。
だが、今日の俺には、この甘い檻を内側から揺るがす、ある決意があった。
「――なあ、陽葵。みんな」
俺がキーボードを打つ手を止めると、陽葵がパチリと目を開け、上目遣いで俺を見つめた。
「なぁに?私の湊くん。キスのおねだりですの?皆様の前で大胆ですわね……♡」
「違う。……あのさ、俺、バイトを始めようと思うんだ」
その一言が落ちた瞬間、リビングの空気が凍りついた。エアコンの設定温度が5度くらい下がった気がした。
春香のタイプ音がピタリと止まり、美月がグラスを置く音がカチャンと響く。
そして、膝の上の陽葵は――
「……はい?」
彼女はゆっくりと身を起こし、俺の正面に向き直った。その瞳から、先ほどまでの甘い光が消え失せ、底知れぬ深淵のような闇が広がっていく。
「湊くん?今、なんと仰いました?夏の暑さで私の聴覚回路にバグが生じたようですわ。バイト? ……つまり、不特定多数の人間が跋扈する劣悪な環境に、貴方という無菌の魂を投げ込む……という意味ではありませんわよね?」
目が笑っていない。背後にどす黒いオーラが見える。
「いや、だから……。俺も大学生だし、いつまでも親や……陽葵に頼ってばかりじゃダメだと思ってさ。社会経験も積みたいし、自分の力でお金を稼いでみたいんだ」
これは建前半分、半分本音だ。
本当の理由は、晩夏に迫った陽葵の誕生日に、自分の稼いだお金でプレゼントを買いたいからだ。高校時代、彼女からもらった指輪や日々の献身に比べれば微々たるものかもしれないが、これは俺の男としてのプライドの問題だ。
「却下ですわ。お金なら私が天ヶ瀬家の口座から無制限に――」
「それじゃ意味がないんだよ!」
俺が珍しく声を荒げると、陽葵はビクリとして口を噤んだ。俺の頑固さを知っている彼女は、これ以上正面から反対すれば、俺が勝手に行動することを知っている。
「……そ、そこまで仰るなら……」
陽葵は唇を噛み締め、プルプルと震え出した。
「でも、心配ですわ……!夏の外の世界はバイ菌だらけですもの! 薄着の女狐が寄ってきたらどうしますの!?貴方が誰かに営業スマイルを振りまくなんて、想像しただけで嫉妬で狂いそうですわ!!」
「……湊の言い分も一理ある。……陽葵、ここは条件付きで認めるべき」
助け舟を出したのは美月だった。
「……湊が社会性を身につけるのは、将来的に天ヶ瀬家のパートナーになるためにも必要不可欠。……いつまでも箱入り息子じゃ、親族会議で叩かれる」
「うっ……それは……」
陽葵が言葉に詰まる。痛いところを突かれたようだ。
「……分かりましたわ。……認めましょう」
陽葵は涙目で俺の手をギュッと握りしめた。
「ただし!バイト先は私が厳選し、環境衛生とセキュリティが完璧に管理された場所のみとします!……異性との接触は原則禁止!シフト管理も私が統括しますわ!」
◇◆◇◆◇
数日後。
俺が働くことになったのは、大学から二駅離れた場所にある、落ち着いた雰囲気のブックカフェ『小春日和』だった。
オーナーは温厚そうな初老の男性で、客層も静かに本を読む人が多い。これなら陽葵も文句はないだろう。
――そう思っていた時期が、俺にもありました。
「いらっしゃいませ……って、また来たのか」
バイト初日から一週間。
カフェの窓際、店内全体を見渡せる一番奥の席には、今日もサングラスとつばの広い麦わら帽子をした陽葵が鎮座していた。その姿は、避暑地のお嬢様か、あるいは指名手配犯の逃避行にしか見えない。
「……客に向かって『また』とは失礼ですわね、店員さん。私はただの、この店のヘビーユーザーですわ」
陽葵はメニューを開きながら、俺にしか聞こえない小声で囁く。
「(現在の心拍数、正常。店内の湿度、適正。……さっきの女性客、湊くんに注文する時に距離が近すぎましたわ。後で塩を撒いておきます)」
「……仕事の邪魔だけはするなよ」
「もちろんですわ。私は空気のように、ただそこに存在して見守るだけですもの」
完全に監視員だ。しかも、それだけではない。
「あ、夜凪くん!お冷のおかわりちょーだい!」
「……春香、お前もか」
カウンター席には、これ見よがしにノートパソコンを広げた春香がいた。
「いやー、ここ涼しいしWi-Fi飛んでるし、記事書くのに最高!あ、ちなみにこの店の裏帳簿とか衛生管理状況は事前にチェック済みだから安心して!超ホワイトな優良店だよ!」
さらに、レジの近くの席では、美月が静かに単行本を読んでいる。
「……私はただの読書。……気にしないで。…しらんけど」
美月の手元には、店内の防犯カメラの映像らしきものが映ったタブレットがある気がするが、見なかったことにした。
俺のバイト先は、完全にこいつらの前線基地と化していた。
◇◆◇◆◇
事件が起きたのは、そんなある日の夕暮れ時だった。
その日、陽葵は大学の必修講義が長引き、春香は雑誌の打ち合わせで出版社に、美月は「ちょっと野暮用が。しらんけど」とか言って、三人ともまだ店に来ていなかった。
少しの開放感と共にホールを回っていると、薄着の二人組の女性客に声をかけられた。
「ねえねえ、お兄さん。ここのバイト?超イケメンじゃん」
「あ、ありがとうございます……」
「LINE交換しない?この後、飲みに行こうよー」
「まだ未成年で…ハハ……」
夏特有の開放感に乗じたナンパだ。陽葵がいたら即座に除菌スプレーが噴射される事案だが、今はいない。
とはいえ、慣れてない俺が困ってたその時。
「――あらあら。随分と安っぽい勧誘ですこと」
カランコロン、とドアベルが鳴り、入ってきたのは講義終わりの陽葵だった。
しかし、今日の彼女は機嫌が悪い。講義で遅れた焦りと、俺が無防備に女性と話している光景への嫉妬で、その美貌は獣のようになっている。
「え、なにこの子……」
「お兄さん、彼女?」
女性客が不快そうに言うと、陽葵はツカツカと俺の前に歩み寄り、俺の腕を強く抱きしめた。
「『彼女』? ……いいえ。私はこの方の全細胞の筆頭株主であり、貴女方のような有象無象が半径1メートル以内に近づくことを禁じている条例の執行者ですわ」
「はぁ?意味わかんないんだけど」
「意味など分からなくて結構。……店長!この席の方、お帰りだそうですわ!お会計は私が持ちますから、今すぐ出口へ誘導を!」
陽葵がブラックカードを取り出す。店内がざわつく。
やりすぎだ。これでは、ただの営業妨害になってしまう。
「……陽葵、やめろ」
俺は陽葵の手首を掴み、静かに、けれど強く言った。
「湊くん……?でも、この女狐たちが貴方に……!」
焦燥感に駆られている表情で陽葵は俺を見上げる。
「仕事中だ。いい加減にしろ!」
俺はお世話になっているオーナーに迷惑をかけるわけにはいかない気持ちから強く言ってしまった。
目に見えて、元気がなくなっていく陽葵に俺は続けてこう小声で言った。
「……それに、俺がここで働いてるのは、お前のためなんだぞ」
「え……?」
陽葵はみるみる、表情が明るくなる。
「私のため……?」
俺は、陽葵から目を逸らしながら伝えた。
「……もうすぐ、お前の誕生日だろ。……俺の稼いだ金で、ちゃんとプレゼント買いたかったんだよ。……だから、邪魔しないでくれ」
陽葵が目を見開き、ポカンと口を開けた。
みるみるうちに顔が林檎のように赤く染まり、瞳が潤んでいく。
「……私の……プレゼントのために……?貴方の尊い労働力を……?」
「……そうだ。だから、大人しくしててくれ。……終わったら、一緒に帰るから」
俺がそう言うと、陽葵はその場にへなへなと座り込んだ。
「……うぅ……湊くん……好き……!尊い……!今すぐこの店の売上全部払いますわ……!いえ、このビルごと買い取りますわ!」
「買い取らなくていいから座ってろ」
結局、騒動は遅れてきた春香と美月が女性客たちを上手く宥めて帰し、事なきを得た。
◇◆◇◆◇
バイト終わり。
店の裏口を出ると、夏の夜風の中、三人が待っていた。
「お疲れ、夜凪くん!いやー、今日の陽葵ちゃんの暴走、記事にしたらバズるね!」
「……動画、撮っといた。あとで共有する。しらんけど」
「お二人とも、消しますわよ!」
「記事と動画のことだよな?」
「…いえ?『存在を』ですわ」
俺が「物騒すぎだろ」と突っ込みむと同時に春香と美月は笑っていた。
陽葵は顔を真っ赤にしながら俺に駆け寄り、俺の手を自分の手で包み込んだ。
「……湊くん。手、疲れてません?立ちっぱなしで足はむくんでません?」
「これくらい、平気だよ」
「……ダメですわ。帰ったら最高級のアロマオイルで全身マッサージします。……あなたの体は、私を愛するための国宝なんですから」
陽葵は俺の腕に頬をすり寄せ、幸せそうに目を細めた。
バイトをして、社会に出て、少しは自立できるかと思った。
けれど結局、俺が帰る場所は、この少々窮屈で、とてつもなく温かい檻の中なのだ。
「……じゃあ、帰るか」
俺たちの初めての夏休みが、もうすぐ始まろうとしていた。




