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第59話:聖女様は、原点回帰させたい

◇◆◇◆◇


 ゴールデンウィークが明け、キャンパスには五月病特有の気だるげな空気が漂っていた。

 新緑が目に眩しい午後。俺は、ある危機感に背中を押されるようにして、古びたサークル棟の廊下を歩いていた。


「……平和すぎる。……これじゃ、小説が書けない」


 ここ数ヶ月、俺と陽葵の関係はあまりに順風満帆だった。学食であーんをしたり、キャンパスを並んで歩いたり。周囲からは「美男美女のバカップル(ただし女の愛が重すぎる)」として認知されつつある。

 それはそれで幸せなのだが、俺が書きたいのは、ヒリヒリするような感情の揺らぎや、渇望だ。満たされた日常に埋没していては、創作者としての牙が抜けてしまうのではないか?


 そんな迷走した動機から、俺は聖鳳大学の文学研究会の門を叩くことにしたのだ。


 ギギィ、と蝶番が錆びついた重い音を立てて、ドアが開く。

 古本のインクの匂いと、静寂――を期待していた俺の鼻腔をくすぐったのは、甘ったるい香水の香りだった。


「――あら?見学の子?」

「え、嘘。男子入部希望者!?」

「しかも、結構イケメンじゃない……?なんかこう、太宰治みたいな『儚げな色気』がある~!」


 そこは、十数名の女子学生がひしめく女の園だった。文学少女特有の眼鏡をかけた先輩、ゆるふわ系の同級生。男っ気のないサークルに現れた稀少な男子というだけで、俺は一瞬にして彼女たちの獲物としてロックオンされた。


「い、いらっしゃい!さあさあ、こっちの席へ!」

「ねえ君、どんな小説書くの?私が読んであげる!手取り足取り添削してあげるから!」


 一瞬で包囲された。右腕に触れる柔らかい感触、耳元で囁かれる甘い声。

 今まで不浄扱いされてきた俺にとって、この過剰なまでの好意は、居心地の悪さと同時に、背筋が凍るような恐怖を感じさせた。


「(……まずい。これは、非常にまずい)」


 俺の動物的本能が警鐘を鳴らす。

 ここにはいないはずの聖女様の視線が、空間を超えてピリピリと突き刺さっている気がしてならないのだ。


◇◆◇◆◇


 その頃。部室の外、廊下の曲がり角。

 三つの影が、隙間から中の様子をじっと伺っていた。


「……陽葵ちゃん。これ、どうする?部長さん、完全に夜凪くんを『推し』として消費する目をしてるよ」

 春香がタブレットの画面に映っている部室内に仕掛けた小型カメラの映像を見せながら呟く。


「……湊、満更でもなさそう。……困ってるフリして、鼻の下、3ミリ伸びてる。しらんけど」

 美月が淡々と、しかし容赦ない分析を加える。


 そして、真ん中に立つ天ヶ瀬 陽葵は。

 ギリギリと日傘の柄を握りしめ、その美しい顔を般若のように歪ませていた。


「……許せませんわ。あの泥棒猫ども……。私の湊くんの小説を『可愛い』だの『エモい』だの……。彼の文章の真価は、行間に滲む『誰にも愛されない孤独』と『歪んだ自己犠牲』にこそありますのに!」


 陽葵の嫉妬は沸点を超えた。

 そして彼女は、ハッとした表情で自らの過ちに気づく。


「……そうですわ。最近、私が公衆の面前で湊くんを甘やかしすぎていたせいで、周囲が彼を『ちょっと陰のある普通のイケメン』として認識し始めています。……これではいけません」


 陽葵は、湊が不浄として孤立していたからこそ、自分だけのものだった高校時代を思い出した。


「湊くんの価値と危険性を正しく周知し、誰も寄り付かないようにしなければ……!ゴミにはゴミの、身の程をわからせて差し上げませんと!」


 陽葵がバッと顔を上げ、かつての冷酷な聖女の仮面を装着した。その瞳から光が消え、絶対零度の冷気が宿る。


「春香さん、美月さん。……作戦『原点回帰リ・ジェネシス』を開始しますわ」


◇◆◇◆◇


 部室の中。

 部長らしき妖艶な先輩が、俺のスマホを手に取り、「ねえ、LINE交換しよっか?」と顔を近づけてきた、その時だった。


 バンッ!!


 サークル棟のドアが、物理法則を無視した勢いで開放された。

 室内の空気が一瞬で凍りつく。


「――失礼いたします。……少々、部室内の酸素濃度が腐敗臭で満ちていましたので」


 入り口に立っていたのは、日傘を畳み、優雅な所作で――しかし目は全く笑っていない――天ヶ瀬 陽葵だった。

 その圧倒的な美貌と威圧感に、女子部員たちが息を呑む。


「あ…天ヶ瀬さん?有名な……。もしかして、湊くんの彼女の……」

 部長が媚びるような笑顔で挨拶しようとするが、陽葵はそれを手袋をした手で制し、あからさまにハンカチで鼻と口を覆った。


「『彼女』? ……おかしなことを仰いますのね。私はただ、天ヶ瀬家の慈悲として、この社会的欠陥品である彼を管理して差し上げているだけですわ」


「え……?」

 部室内が静まり返る。


 俺も固まる。久しぶりに聞く、その刺すような言葉。


 陽葵はコツコツとヒールを鳴らして俺の前に歩み寄ると、俺の着ていたシャツの襟を、まるで汚物でも摘むように指先だけで引っ張った。


「……またこんな所で媚びを売って。……見苦しいですわよ?その湿った瞳、卑屈な笑い方……。ここにいる皆様が、夜凪君の放つ負のオーラで気分を害されていることに気づきませんの?」


「お、おい…」


 俺が見上げると、そこには高校時代、俺をゴミのように見下ろしていたあの冷たい瞳があった。


「黙りなさい、汚らわしい。……貴方のようなゴミが文学を語るなど、紙資源の無駄ですわ。……さっさと退室なさい。私の視界に入らないで。空気が汚れます」


 その言葉のナイフは、鋭く、深く、そして懐かしい痛みを持って俺に突き刺さった。

 周囲の女子部員たちがドン引きし、ざわめき始める。


「えっ、あんな言い方……」

「うわ、なんか夜凪くんって、実は聖女様にすら見捨てられかけてるヤバい奴なの……?」

「関わらない方がいいかも……。天ヶ瀬家に睨まれたら終わりだし……」


 陽葵の完璧な演技と本気の嫉妬により、俺の儚げな文学青年というブランドは一瞬で崩壊し、『触れてはいけない大型事故物件』というレッテルが貼られた。あれ、既視感が…。

 女子たちが蜘蛛の子を散らすように俺から距離を取り、部長すらも目を逸らす。


 俺は再び、孤立した。


 陽葵はフンと鼻を鳴らし、冷たく言い放った。


「……さあ、行きますわよ。……お仕置きが必要ね」


◇◆◇◆◇


 その日の夕方。

 場所は変わって、天ヶ瀬家の広大なリビング。夕日が差し込む静かな部屋で、俺はソファに座らされ、陽葵は当然と言わんばかりに俺の膝の上に寝転ぶ


「……ううぅ~~っ!!みなとくぅぅぅん!!好きぃぃぃ!!好き好き好きぃぃ!!」


 さっきまでの絶対君主の女王はどこへやら。

 陽葵はガバッと起き上がり、俺の顔を豊かな胸に抱き寄せ、窒息しそうなほどの力で締め上げながら、壊れたレコードのように愛を叫び、身悶えていた。


「……ごめんなさい、ごめんなさい!あんな酷いことを言って……!本当は湊くんは宝石より輝いていますわ!でも、あの女たちが湊くんに触ろうとするから!私だけの湊くんなのに!うわぁぁん!」


「……ぐ、ぐるじい…!…陽葵、首が……」


 陽葵は少しだけ力を緩めると、恍惚とした表情で、俺の髪を優しく撫で回し始めた。その瞳は潤み、頬は上気している。


「でも……久々に皆様の前で湊くんを罵倒した時の、あの一瞬傷ついたような湊くんの顔……。そして、私に従順に従うその姿……。ゾクゾクしましたわ……!やっぱりこれですわ!この背徳感こそが、私たちの愛の真骨頂ですわね!」


 陽葵は俺の頬に自分の頬をすり寄せ、甘い吐息を漏らす。


「……だから湊くん。大学では、また『ゴミ扱い』に戻しますわよ?やはりあなたは普通にしていると、価値のある存在すぎます。誰からも理解されない、孤独な存在でいてください。……その寂しさは、こうして放課後、私が骨の髄まで愛して、溶かして差し上げますから……♡」


「……はぁ。分かったよ」


 俺はため息をつきつつ、彼女の柔らかい太ももの感触と、甘いシャンプーの匂いに包まれて目を閉じた。

 昼間の冷たい視線と、今の熱すぎる体温。この落差こそが、俺の日常であり、創作の源泉なのだと認めざるを得ない。


「……その代わり、陽葵」

「なぁに?私のペット」

「……小説の感想だけは、ちゃんとくれよな」


 俺が言うと、陽葵は花が咲くように笑った。

「当然ですわ!湊くんの書く文字一つ一つまで、私が愛し尽くして差し上げます!」


 少し離れたダイニングテーブルでは、春香と美月が呆れ顔でこちらを見ている。


「結局、元通り…というより、むしろ悪化してる?」

「……うん。まぁ…でもこの方がしっくりくる。……湊も、なんだかんだ嬉しそうだし。……変態め」


 こうして、大学における聖女とゴミ(実は溺愛)の構図が再構築された。


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