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第58話:相川 美月は、大切にしたい

◇◆◇◆◇


 4月の風が、キャンパスの並木道を揺らす。春香が「ジャーナリストになる」と宣言し、湊への恋心に区切りをつけてから一週間。


 私は、学食のテラス席で頬杖をつき、目の前の光景を眺めていた。


「湊くん、あーん」

「……いや、自分で食えるって」

「ダメですわ。昨日のバイタルデータによると、あなたはレポート作成により左腕を酷使しすぎています。パソコンでの小説執筆作業の過剰なタイピングも確認済みよ。今日は私があなたの左腕になりますわ」

「……過保護すぎるだろ……」


 相変わらずのバカップル……いや、飼い主とペットのような二人。天ヶ瀬 陽葵と夜凪 湊。この歪で完璧な生態系は、見ていて飽きない。


 でも、春香がいなくなった(正確には少し距離を置いた)ことで、このテーブルのバランスは微妙に変化していた。

 これまでは春香が突っ込んで、私が引くという構図だったが、今は私が一人でこの濃厚な空気に晒されている。


「(……さて、どうしようかな)」


 私の手元には、一枚の封筒がある。実家の父から届いた見合い写真だ。相手は、どこかの財閥の三男坊。


『美月も大学生だ。そろそろ相川家の利益になる相手を見繕っておかないとな。形だけでも良いから付き合え』


 父の言葉が脳裏をよぎる。私はため息をつき、アイスコーヒーのストローを噛んだ。


「……美月?どうした。眉間に皺寄ってるぞ」


 湊が、陽葵のあーんを回避しながら私に声をかけてきた。こういう時の勘の良さは、相変わらずだ。


「……別に。……ただの、親からの圧力」

「圧力?」

「……お見合いの話。……そろそろ身を固めろだって」


 私が写真をテーブルに滑らせると、湊よりも先に陽葵が反応した。


「あら、良い条件ではありませんの。相川家の家格なら釣り合いも取れますし……。まぁ貴女が結婚して家庭に入ることが決まれば、湊くんの横(ここ)のスペースが空いて、私としては非常に管理がしやすくなりますわ」


 陽葵は悪気なく、けれど本音100%で言った。


 私は高校三年生の時に、私が天ヶ瀬 陽葵と幼馴染であることをバラそうとしたことがある。


 その時に私は彼女と二人で話し合いをして、最後に話の流れで『別に私は湊のことが好き…というわけでは無いから……』と言った。彼女は特に大きな反応を見せなかったが、おそらくあの言葉は信じてないだろう。彼女にとって、私は幼馴染でありながら、湊を巡る「不確定要素」だ。


 私がここから消えれば、彼女の独占は完成する。


「……そうね。……私が結婚して、この大学を辞めるか、あるいは疎遠になれば……陽葵の望み通りになる」


 私は湊を見た。彼は困ったような、でも寂しそうな顔で私を見ている。


「……美月が幸せなら、俺は祝うよ。……まぁでも、急にいなくなるのは…。…ちょっと、寂しいな」


 その言葉だけで十分だった。胸の奥で、カチリと何かが決まる音がした。


「(……ああ。やっぱり私、この場所が好きみたい)」


 ふわふわと少しだけ痛い思い出がよみがえってくる感覚がする。


                ****


 小学校を卒業するタイミングで、私は親の都合で引っ越すことになった。

 一番辛かったのは、唯一の友達だった天ヶ瀬 陽葵と離れることだった。別れ際、陽葵は人目も憚らず泣いていたし、私も泣いた。子供ながらに「もう一生会えないかもしれない」という絶望が、胸を締め付けた。


 そして始まった、見知らぬ土地での中学校生活。私は変わらず勉強に没頭した。自分で言うのもなんだが、成績は常にトップだった。けれど、そのせいで疎まれることも多く、友達は一人もできなかった。


 そんなある日の放課後。下駄箱で靴を履き替えていると、派手な先輩の女子グループに囲まれた。


「ねぇ。あたしの彼氏がさ、あんたのこと『可愛い可愛い』ってうるさいんだけど」


 知らねぇよ。誰だあんた。

 そう言い返したかったけれど、私は一年生で相手は三年生。恐怖で声が出なかった。


「……別に何もしないわよ。ただし――あんたに『彼氏がいる』ってことにして」


 自分たちの関係を守るための、スケープゴート。面倒ごとになりたくなかった私は、適当に頷き、その場を凌いでしまった。でも、それは大きな間違いだった。


 あっという間に噂は広まった。

『引っ越してきた新入りの分際で、成績優秀で、生意気にも彼氏持ち』


 そんなレッテルを貼られた私は、誰からも話しかけられず、二人組を作る時も常に余り物。教室での視線は針のように冷たかった。


 そして、ある朝。登校すると、私の机が廊下に倒され、引き出しの中身が散乱していた。教科書もノートも、床に広がっている。典型的な、陰湿なイジメだった。


「…………」


 私は涙をこらえ、無言でしゃがみ込み、散らばった教科書を拾い集めた。廊下を行き交う生徒たちは、見て見ぬふりをして通り過ぎていく。

 孤独だった。陽葵もいない。誰も味方はいない。


 その時だった。


「……これ」


 一人の男子生徒が、私の目の前にしゃがみ込んだ。隣のクラスの男の子だった。

 彼は周りの冷ややかな視線を気にする様子もなく、散らばったノートを拾い集め、パンパンと埃を払って私に渡してくれた。


「……おい、やめろよ。関わるとお前までハブられるぞ」


 遠巻きに見ていた男子が彼を茶化す。けれど彼は、困ったように眉を下げて、私にだけ聞こえる声で言った。


「……気にしなくていいから」


 その声は、驚くほど優しかった。先生が来て騒ぎになったことで、それ以上のイジメは起きなかったけれど、彼とはそれっきりだ。お礼も言えず、名前も知らないまま、中学校の卒業のタイミングで地元へ戻ってしまった。


 でも、あの時の温もりだけは、ずっと覚えていた。

 誰にでも優しくて、損な役回りでも平気で手を差し伸べる、あの不器用な優しさを持っていた彼。


                ****


 ――それは、今、目の前で陽葵に世話を焼かれている、この男によく似ていた。


 春香のような「熱い恋心」とは違う。


 私は、湊が好きだ。


 でもそれ以上に「湊を異常なまでに愛する陽葵」と「それに困りながらも救われている湊」という、この関係性そのものを愛しているのだ。これを壊すのも、ここから去るのも、私の美学に反する。それくらい居心地がいいのかもしれない。


 私は手元の見合い写真を見下ろした。また父の言葉が蘇る。

『相川家の利益になる相手だ。形だけでもいいから付き合え』。


 …中学の時と同じ。

「嘘の彼氏」「形だけの関係」

 そんなもので自分の居場所を守るのは、もうたくさんだ。


「(……あの時、名前も知らない男の子に救われた。……そして今、私は湊と陽葵という『本当の居場所』に救われてる)」


 私は湊を見た。確証はない。中学時代のあの彼が湊だったのかどうか。

 でも、湊の持つ空気は、あの日の彼と同じ色をしている。だから私は、高校で再会した時、無意識に彼を目で追っていたのかもしれない。


「……決めた」


 私は見合い写真を手に取り、二人の目の前でビリビリに破り捨てた。


「えっ、美月!?」

「な、何をしていますの!?」


「……お見合い、破談。……父さんには断る。……理由は『他に生涯を捧げたい事業が見つかったから』とでも言っておく。しらんけど」


 私は紙吹雪となった写真をレジ袋に捨て、スマホを取り出した。


 画面には、天ヶ瀬グループと相川グループの相関図が表示されている。


「……陽葵。知ってるの?天ヶ瀬家の親族会議で、あなたと湊の交際について『家柄が釣り合わない』って文句が出始めてるの」

「……ッ!なぜそれを……」

「……私の情報網を舐めないで。……で、湊。あんたも将来、陽葵の親族から猛反発を受けるよ。今のままじゃ、ただの『聖女に拾われたヒモ』だもん」


 二人は言葉を失う。それは、彼らが避けて通れない現実的な壁だった。

 私はコーヒーを飲み干し、不敵に笑った。


「……だから、私がなる」


「なるって、何に?」


「……緩衝材に」


 私は、スマホの画面を二人に向けた。そこには『相川・天ヶ瀬 共同事業計画書(案)』という、私が勝手に作ったファイルがある。


「……私が、天ヶ瀬家と相川家のパイプ役になる。……相川家の令嬢である私が、湊の『後見人』あるいは『ビジネスパートナー』として振る舞うことで、湊の社会的地位を底上げする。……そうすれば、陽葵の親族も文句は言えなくなる」


「そ、そんなこと……!相川さんになんのメリットがありますの!?」

 陽葵が身を乗り出す。


「……あるよ。……私は、この特等席で、一生あなたたちの痴話喧嘩を見ていられる。……それが私の報酬」


 私は湊の方を向き、淡々と言った。


「……春香は『剣』になって、外の敵を倒しに行った。皇グループの件もそう。そこから始まって、春香のジャーナリストを目指す理由ができあがった。……だから私は『盾』になる。……政治的な圧力、家同士の面倒くさいしがらみ……全部、私が捌いてあげる」


「……美月」


「……その代わり、湊。……一生、私の観察対象でいてね。……あなたたちがどう歪んで、どう幸せになるか……最期まで見届けさせて」


 それは、私なりのプロポーズであり、永遠の三番手宣言だった。

 恋愛感情というドロドロしたものを捨て去り、実利と友情で結ばれた者になること。


 湊は、深く息を吐き、そして柔らかく笑った。


「……敵わないな、お前たちには。……分かった。頼むよ、美月」

「…………まあ、あなたがそこまで言うなら……。『番犬』としての地位くらいは認めて差し上げますわ」


 陽葵も、憎まれ口を叩きながら、安堵したように肩の力を抜いた。


 春香に続き、私も自分の座るべき椅子を見つけた。恋人席は陽葵のもの。でも、その隣の参謀席は、私の指定席だ。


 春風が、強く吹いている。


 私の大学生活は、今までで一番面白くなりそうだった。

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