第55話:天ヶ瀬 陽葵と夜凪 湊
みぞれ混じりの風が叩きつける窓の音も、階下で繰り広げられた喧騒も、今の俺には遠い世界の出来事のように感じられた。階段の最上段。手を伸ばせば届く距離に、陽葵が立っている。
彼女の瞳は、絶望と、信じられないものを見る驚愕と、そして深い深い悲しみで濡れていた。俺が昨日、その心に深く突き刺した拒絶のナイフは、まだ彼女を縛り続けている。
「……湊くん……どうして……。もう、構わないでと言ったのは、あなたなのに……」
震える声。俺は彼女の前に跪くようにして視線を合わせた。
「嘘なんだ、陽葵。……全部。皇に脅されてた。俺が離れないと、姉貴の将来を奪うって、マンションを追い出すって言われたんだ」
陽葵の呼吸が止まる。俺は一気に言葉を重ねた。
「俺は、また怖くなった。家族が壊れるのが……俺のせいで誰かが不幸になるのが耐えられなかった。だから、お前を傷つける言葉で逃げたんだ。ごめん……本当に、最低なのは俺だ」
沈黙が降りる。陽葵は、俺が語る「取引」の真実を聞きながら、ゆっくりと、しかし確かな意志を持って首を振った。そして、彼女は俺の濡れた頬を、温かい両手で包み込んだ。
「そんなことない。私だってあなたを傷つけたことがある。だから謝らないで」
陽葵は震える声で続けて言葉を発する。
「少し私の思ってることを話してもいい?私ね……。あなたにはそのままでいてほしいの」
陽葵は、何かを決意したように、手を強く握ると、これまで思っていた胸の内を打ち明けた。
「あなたは、私が落ちた時に手を差し伸べてくれた。あの日、教室で、自分の体が壊れるのも厭わずに……。だから、次は私が助けたいって思った。あなただけが、そんなに苦しむ必要はない。これ以上あなたが苦しい思いをするなら、私だって一緒に苦しんだっていい!」
彼女の叫びのような慈愛が、俺の胸に突き刺さる。陽葵の瞳からは、大粒の涙が溢れ出す。
「……気持ちは嬉しい…。けど、俺がこのままだとお前に迷惑がかかる……。だから少しでも変わりたいって思う」
下を向きながら俺は言った。
「私たち、まだ18歳よ。焦って変わる必要なんてないと思うの。強くなって、大人になって、一人で背負えるようにならなきゃいけないなんて……そんなことないわ。だから私は、今の夜凪 湊という人間を、変わらないように守るために……檻に匿おうとしたの」
独占。管理。異常な執着。それらはすべて、湊を「変えよう」とする外の世界から、そして変わろうとする湊本人から、傷ついたままの俺の魂を保護するための、彼女なりの切実な防壁だったのだ。
陽葵は俺を抱き寄せ、その細い腕で、折れそうなほど強く俺を抱きしめた。聖女と呼ばれ、完璧を演じてきた少女が一人の男のために、その綺麗さを捨てて泥沼に一緒に沈む覚悟を語っていた。
「……けど、ただ匿うだけじゃない。あなたに恋をしたっていうのは本当よ」
耳元で、彼女の声が微かに震える。
「あなたが他の女の子と楽しそうにしているのを見るのが妬ましいのも、狂いそうなほど憎らしいのも本当。……けど、それ以上に、あなたには……『夜凪 湊』には、幸せになってほしいの」
「……ねぇ湊くん。…あなたが…。あなたが心の底から本当に幸せって、そう思えるまでは、今までの『夜凪 湊』でいてほしいの。じゃなきゃ、あなたが、今までのあなたが報われないじゃない」
陽葵の言葉は、これまでのどんな小説の言葉より、偉人の名言より、深く俺の魂を浄化していくようだった。
俺は、自分がどれほど彼女に救われていたかを、ようやく理解した。管理されていたんじゃない。俺は、彼女の愛という名の祈りに包まれていたんだ。
「陽葵……。俺は、お前に管理されるのが嫌だなんて……本当は思ってなかった。お前の側にいると、息ができるんだ。お前じゃなきゃ、俺は……俺でいられない」
陽葵は顔を上げ、涙に濡れた顔で、けれど花が綻ぶような最高の笑みを浮かべた。
「……ええ。もう二度と、逃がしませんわよ。宇宙の果てまで追いかけて、あなたのすべてを私の監視下に置きますわ」
彼女は、枕元に置いてあった小さなラッピングを手に取り、俺の手に握らせた。
「……これ。一日早いですけれど。メリークリスマス、湊くん」
中に入っていたのは、白銀のシンプルなリングだった。
「……これは?」
「檻の代わりの、契約の印ですわ。……これを身につけている間、あなたは私の所有物。よろしいかしら?」
俺は笑った。心からの、一年で一番晴れやかな笑みだった。
「ああ」
階下では、美月と春香が、静かに二人を見上げていた。美月は少しだけ誇らしげに口角を上げ、春香は自分のことのように号泣しながら、盛大に鼻をすすっている。
12月の冷たい嵐は、いつの間にか止んでいた。窓の外には、雲の切れ間から冬の澄んだ星空が広がり始めている。
一年前に始まった歪な関係は、今、新しい形へと生まれ変わった。聖女の檻。それは、傷ついた二人が、明日を笑って迎えるための、世界で一番温かい聖域だった。




