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第50話:聖女様は、戻りたい

◇◆◇◆◇


 翌朝、俺は重い鉛を飲み込んだような気分で目を覚ました。窓の外は、数年に一度の大寒波という予報通り、白く濁った冷気が街を覆い尽くしている。昨晩の土砂降りは、明け方には冷たいみぞれへと変わっていた。


 登校しても、教室にあの喧騒はない。陽葵の席は、ぽっかりと穴が開いたように空いていた。彼女が学校を休むなど、俺が転校してきて以来初めてのことだ。クラスメイトたちは「聖女様が風邪かな?」「珍しいね」と呑気に噂し合っているが、その空席が俺の胸を鋭い錐で刺す。


 美月と春香は登校していた。けれど、二人は俺の横を通り過ぎる際、一度も視線を合わせなかった。声をかけることさえ拒絶するような、冷たく硬い沈黙。それが、俺が昨日犯した罪の重さを突きつけてくる。


◇◆◇◆◇


 同じ頃、街の外れに建つ天ヶ瀬家の屋敷。陽葵は、カーテンを閉め切った暗い自室で、抜け殻のようにベッドに横たわっていた。


 枕元には、小さなラッピング。クリスマスに渡そうと、彼女が悩み抜いて選んだ湊へのプレゼントだ。それを指先でなぞるたび、昨日の図書準備室での光景が、呪いのように脳裏にフラッシュバックする。


『俺はもう管理されるのに疲れた』

『お前と、お前の周りの人間のためだ』

『二度と俺に構わないでくれ』


 突き放された瞬間の湊の瞳。冷たい言葉とは裏腹に、泣き出しそうに震えていた彼の影。


「……どうして……。どうしてですの、湊くん……」


 枯れるほど泣いたはずなのに、瞳からはまた熱い雫が溢れ出す。あんなに愛し、あんなに近くにいたはずなのに、今は宇宙の果てまで引き離されたような孤独が彼女を包んでいた。


 その時、コンコンと控えめな、けれど確信に満ちたノックの音が響いた。

「陽葵。入るよ」


 現れたのは、皇 志遠だった。彼はいつもの傲慢な笑みを消し、ひどく悲しげな、慈愛に満ちた表情を貼り付けていた。


「……志遠。どうして……」

「君が休んでいると聞いて、心配でね。……ひどい顔だ。あの寄生虫に、何か心無いことを言われたのかい?」


 皇はゆっくりとベッド脇の椅子に腰掛け、陽葵の震える手をそっと包み込んだ。

「……もういいんだ、陽葵。あんな男のことは忘れなさい。彼は最初から、君の輝きを利用していただけなんだよ。……これからは、僕が君を守る。君を傷つけるものすべてから、僕が君を隔離してあげよう」


 陽葵は拒む気力さえなく、ただ茫然と皇の言葉を聞いていた。それこそが、皇の描いたシナリオだった。俺に陽葵の心を粉々に砕かせ、その破片を自分が拾い集める。絶望の底にいる人間に差し伸べられる「救い」という名の支配。皇は陽葵の涙を拭いながら、心中で勝利を確信していた。


◇◆◇◆◇


 一方、放課後の聖鳳高校。俺は吸い寄せられるように、誰もいない図書準備室へと足を運んでいた。


 陽葵のいない準備室は、驚くほど広くて寒い。床に置かれた武器のおもちゃ、彼女が俺の代わりに仕分けたプリントの山。あそこで俺を待ち構えていた彼女の、歪で、けれど誰よりも純粋だった温もりが、今もこの部屋に染み付いている。


「(これで良かったのだろうか……)」


 皇に屈し、家族を守るために彼女を売った。それは「優しさ」などではなく、ただの「逃げ」だったのではないか。何か他にできることはなかったのだろうか。


 沈みゆく冬の太陽が、部屋を真っ赤に染めていく。孤独な影が床に長く伸びる。俺は立ち上がり、思い出を振り払うように自分の荷物を抱えて出口へと向かった。


 重い扉を開けようとした、その瞬間。外側から扉が勢いよく開き、二人の人影が逆光の中に現れた。


「……いた」

「逃げるのは、もう終わりだよ」


 美月と春香だった。朝の無視は拒絶ではなかった。彼女たちは、俺を捕まえるために待ち構えていたのだ。美月はいつもの無機質な瞳に強い意志を宿し、春香は泣きはらしたような赤い目で、けれど力強く俺を射抜いている。


「……どいてくれ。俺はもう、ここには……」


「黙って、湊」

 美月の鋭い一喝が、部屋の冷たい空気を震わせた。彼女は一歩踏み出し、俺の胸ぐらを掴まんばかりの距離まで詰め寄った。


「……あんたが昨日ついた嘘。……全部、バレてる。……皇に、何を言われた? ……全部、白状して」


「私たちを、仲間外れにしないでよ!!」

 春香が横から割り込み、俺の腕をガシッと掴んだ。その手は熱く、震えていた。



 「あんた一人が傷ついて、天ヶ瀬さんが壊れて……それで誰が幸せになるの? 私たちが、そんな悲しい結末を許すと思ってるの!?」

「お前たちには関係な――」

「関係ある!私たちは、湊と陽葵の友達でしょ!?」

 美月が叫んだ。初めて聞く、彼女の感情的な大声だった。


「……私たちは、湊が思ってるより弱くない。……一人で抱え込んで、悲劇のヒーロー気取らないで。……ムカつく」


 夕闇の準備室。封じ込めていた感情が、二人の熱量に触れて決壊しそうになる。冬の嵐が迫る中、俺たちの本当の闘いは、ここから始まろうとしていた。

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