第49話:夜凪 湊の、守るべきもの
皇グループの本質は、建設的な不動産王ではなく、気に入らない地を徹底的に踏み荒らす征服者だった。
校門前での一件以来、彼は俺を直接叩くのではなく、俺が最も大切にしている外側の世界を、その強大な財力で握りつぶしにかかったのだ。
◇◆◇◆◇
翌日の放課後、寒空の下を歩く。曇ってるが雪は降っていない。だが、気温はとにかく低く、昨晩テレビのニュースで数年に一度の大寒波が襲うと言っていたことを思い出した。
学校を出て10分程歩いたところに、見覚えのある黒い最高級外車が止まっているのを見つけた。後部座席からは見覚えのある男が降りてくる。皇 志遠だ。皇は腕を組みながらゆっくりこちらへ近づいてくる。
「やあ、夜凪 湊」
「……またお前か」
ため息をつきながら俺は言う。
「今度はなんだ」
「まぁそう嫌わないでくれよ。今日は君にちょっとしたお願いがあってきたんだ」
「帰ってくれ」
そう告げ、俺は皇の横を通り過ぎる。
「君の姉上は……。夏花さんだったかな」
その発言に俺は歩くのを止めた。振り向きはせずに背中合わせの状態で話を聞く。
「非常に優秀な成績だそうじゃないか。だが、彼女が内定を狙っている大手企業は、我が皇グループと深い親交があってね。私が一言『不適格者の血族だ』と囁けば、彼女の努力はすべて砂上の楼閣と化す。どういう意味か分かるかな」
「……っ、おい、何を……!」
「それだけではない。そして君たちが今住んでいるマンション。で、私は?不動産王の皇グループの子息。すべて私の一存で『調整』が可能だ。……いいかい。君という石ころ一つを排除するために、私は周囲の山ごと崩すことは容易い」
「何が目的だ」
皇は冷酷な笑みを浮かべ、俺の耳元で囁いた。
「条件は一つだ。陽葵の前から消えろ。どんな手を使ってでも陽葵とはもう関わるな。……明日中に実行しろ。さもなくば、明後日には君の家族の平穏は終わる」
視界がぐにゃりと歪む。心臓が嫌な音を立てて脈打つ。振り返ると皇はもう車に乗り込むところだった。この男は本気だ。かつて、俺の家庭を理不尽な怒鳴り声で壊した父親と同じ――いや、それ以上に巨大な暴力。
俺一人が傷ついて済むなら、いくらでも耐えられた。けれど、俺を必死に守ってくれた姉貴たちまで道連れにすることは、絶対にできなかった。だが、陽葵は?彼女を犠牲にして良いのか。
深く息を吸い込み、マフラーに顔を埋めながら必死に考える。
そうこうしてるうちに家へ着いた。冷たい手で玄関の扉を開けると、魚が焼ける匂いがする。姉貴の手料理だ。
「湊、おかえりー」
その声を聞き、俺の中で一番の最善策は何なのか、思いついた気がした。
◇◆◇◆◇
翌日。夕闇が迫る図書準備室。
扉を開けると、そこにはいつものように俺を待つ陽葵の姿があった。
「遅いですわよ、湊くん!冬休み前の大掃除の予定を立てていましたのに……。まずはあなたの身体をお掃除しちゃおうかしら、なんて…」
陽葵は腕を組み頬を膨らまして言った、彼女の、どこまでも真っ直ぐで歪な愛。その温もりに縋り付きたい衝動を、俺は心の奥底へ封じ込めた。
「……悪い。もう、ここには来ない。置いていた荷物を取りに来たんだ」
低く、冷たい声。
陽葵の動きが、まるで見えない糸で縛られたかのようにピタリと止まる。
「え……?湊くん、何を……。お疲れなのですわね。さあ、ほらそこに座って――」
「聞こえなかったのか?もうここには来ない。俺はもう管理されるのに疲れた」
陽葵の手から書類が滑り落ちた。彼女の大きな瞳に、みるみるうちに絶望が溜まっていく。
言いたくない。苦しい。こんな姿を見たくない。
「……嘘。嘘ですわ。あの日、図書準備室で……私の独占を、私の檻を、許すと仰ったではありませんか!」
「あれは同情しただけだ。…俺はもう疲れたんだ。それに…俺より皇さんの方が、お前にはお似合いだ。俺みたいなのが近くにいると、彼が言ってた通り確かにお前の名が汚れる。」
一言、放つたびに、俺の心臓が内側から千切れるような痛みを訴える。
だが、ここで緩めてはいけない。どうにかして関係を絶たないと皇の手は止まらない。
「悪い。でもお前と、お前の周りの人間のためだ」
「湊…くん……っ」
陽葵の目から、大粒の涙が溢れ出した。彼女のプライドを、そして唯一の心の拠り所を、俺はこれ以上ないほど残酷な形で踏みにじった。
かつて、俺を守ると言ってくれた少女に、俺は最大の拒絶を突きつけたのだ。
「…二度と俺に構わないでくれ」
俺は泣き崩れる陽葵に背を向け、部屋を飛び出した。
背後から、心を引き裂くような、けれど隠しきれない慟哭が聞こえてくる。俺の足は逃げるように廊下を駆けた。
廊下の角で、すべてを聞いていたらしい美月が俺の腕を強く掴んだ。その無機質な瞳には、珍しく激しい憤怒の色が宿っていた。
「……湊。急になんなの。最悪。……嘘をつくのが、世界で一番下手。……陽葵を壊して、自分も今にも消えそうな顔をして……それで、何を守ったつもり?」
「……これしか、なかったんだ。……離せ」
春香もその場にいたが、何も言わずにこっちをじっと見つめているだけだった。外では、激しく冷たい12月の雨が降り始めていた。俺は美月の手を振り切り、土砂降りの校庭へと駆け出した。
右足がまだ少し痛む。それ以上に胸の奥が痛くて、叫び出したかった。
俺は、家族を守るために陽葵を自らの手で突き放した。雨音にかき消された俺の心音は、届くはずのない陽葵の名前を、何度も、何度も叫び続けていた。




