第47話:相川 美月は、変えてあげたい
『陽葵、もういい?』
美月のその一言は、教室の空気を一瞬で凍りつかせるには十分すぎる威力を持っていた。学校の絶対君主であり、誰からも「天ヶ瀬さん」あるいは「聖女様」としか呼ばれない彼女を、事も無げに下の名前で、しかもひどく親しげに呼ぶ不敬。
俺が抱いた違和感は、クラスメイトたちにも波及し、ざわめきが静かな地鳴りのように広がっていく。
「な……ッ、ななな、何を言っていますの相川さん!急に距離感をバグらせないでくださる!?」
陽葵は顔を真っ赤にし、必死に誤魔化そうとする。だが、美月の瞳はどこまでも冷静で、逃げ場を許さない。
「……湊。……驚かせてごめん。でも、嘘をつくのはもう疲れた。……実は私と陽葵は――」
「――わぁぁぁぁぁぁ!!ストップ!ストップですわぁぁぁ!!」
美月が真実を口にしようとした瞬間、陽葵が叫びながら美月の口を両手で塞いだ。その必死な形相は、もはや聖女の威厳など微塵も感じられない。
「夜凪くん、辻岡さん!ちょっとこの方を連行しますわ!衛生管理……そう、相川さんの思想の衛生管理が必要ですの!来なさい、相川さん!」
「……んぐ……。ん。ちょ、引っ張らないで。……バレるのも、時間の問題なのに。しらんけど」
陽葵は歪な笑顔を浮かべながら美月の腕を強引に掴むと、周囲の視線を振り切るようにして教室を飛び出していった。残されたのは、呆然とする俺と、目を白黒させている春香、そして何が起きたか分からず固まっているクラスメイトたちだけだった。
人気のない特別棟の渡り廊下。陽葵は美月を離すと、肩で息をしながら詰め寄った。
「な、なな、何を考えていますの、相川美月!あなた、さっき湊くんの前で何を言おうとしましたの!?」
「……本当のこと。私と陽葵が、幼稚園から小学校六年生までずっと一緒だった幼馴染だっていうこと。そして家も近いということ」
美月は乱れた制服を整えながら、淡々と答える。そう、二人はかつて、同じ上流階級のコミュニティで育った旧知の仲だった。陽葵が「完璧な聖女」を演じ始める前の、泣き虫で我が儘だった頃を知る数少ない人間。それが相川美月だ。
「隠す必要ないでしょ。小学校卒業と同時に私は引っ越したからあなたの中学生時代は知らない。またこっちに戻ってきて、同じ高校に行くことが分かった時にあなたは私を『知らないフリ』しろって強要したけど。……もう限界。むしろよく耐えてきた方。今のあなたのやり方、もう見てられないから」
「い、今は色々まずいのよ!今バラされたら、私の『聖女』としてのブランディングが崩壊しますわ!それに、もし湊くんに『実は相川さんとは仲良しでした』なんて知られたら、あの人のことだから『俺が邪魔だな』なんて思って身を引いてしまうかもしれませんでしょう!?」
陽葵の叫びは、どこまでも自分勝手で、けれど湊を失うことを極端に恐れる切実なものだった。美月は冷めた目で陽葵を見つめる。
「……陽葵。あなたは湊を『檻』に閉じ込めているつもりかもしれないけど。……実は、その檻に閉じ込められているのは、あなたの方なんじゃない?」
「な……っ」
「……私は、湊を変えたい。……そして、あなたのその歪んだ愛し方も。もう見てられない。別に私は湊のことが好き…というわけでは無いから……。今回は引き下がる。でも、次は湊の前で全部言うから。覚悟しておいて」
美月はそれだけ言い残すと、陽葵を置いて一人で歩き出した。
教室に戻った二人は、驚くほど「いつも通り」を装っていた。陽葵は鼻を高く鳴らしながら「相川さんの不浄な思想を徹底的に除菌してきましたわ」と宣い、美月は再び窓際でスマホを眺める無機質な少女に戻っている。
「……大丈夫だったか?」
俺が小声で尋ねると、美月はスマホから目を離さずに小さく頷いた。
「……うん。……少し、話し合いをしただけ。しらんけど」
「ちょっと!私を無視して相川さんと内緒話など、万死に値しますわよ!」
陽葵がチョークを突きつけてくる。その後ろでは、春香が「もー、結局なんだったのー?」と笑いながら、俺の肩をポンと叩く。
◇◆◇◆◇
結局、放課後の図書準備室でも、陽葵は「相川さんとは、ななな何でもありませんわ!ただのクラスメートAよ」と虚勢を張り続け、核心に触れることはなかった。
◇◆◇◆◇
その夜。夕飯の片付けを終えたリビングで、俺は姉の夏花に学校での一件をそれとなく話してみた。
「……で、いきなり下の名前で呼び合って、そのまま連行だ。あいつら、俺の知らないところで繋がってるのか?」
俺の悩みを聞いた夏花は、ミカンの皮を剥く手を止めると、意地悪く口角を吊り上げた。
「あはは!湊、あんた本当に鈍いわね。それ、完全に修羅場の入り口じゃない。長年の秘密がバレそうになってパニック起こしてる聖女様と、それを盾にマウント取り始めた少女……。あーあ、可哀想に。あんた、そのうち三人に引き裂かれて四分五裂するんじゃない?」
「縁起でもないこと言うなよ……」
「いい?女の友情なんて、一人の男を挟んだ瞬間にガラス細工より脆くなるんだから。……特にその聖女様、湊への執着が年季入ってるみたいだし。暴発する前に、遺言書でも書いておきなさいよ?」
ケラケラと笑う姉を余所に、俺は言い知れぬ寒気を感じていた。この姉の予言は、得てして当たることが多いのだ。




