第46話:夜凪 湊の、知らないこと
冬の廊下、あの日の冷たい空気。美月の脳裏には、図書準備室から漏れ聞こえた湊の慟哭が、今も鮮明な痛みを伴って刻まれている。
陽葵のやり方は歪んでいる。そして湊の「我慢」は優しさではなく、過去の傷に縛られた呪いだ。どちらかが壊れる前に、この均衡を崩さなければならない。美月はそう決意した。たとえ、天ヶ瀬 陽葵という絶対的な権力者を敵に回したとしても。だが、同時に美月は自問する。
『(どうすればいい?私は、湊を解放したいだけ?それとも―—)』
その答えの続きを、彼女は思考の底へ沈めた。
『(いや……。それはない)』
どうすればこの歪んだ構造を変えることができるのか。その問いへの答えは、まだ出ない。あの日から美月は、春香には何も話さなかった。春香の太陽のような明るさは、湊の抱える深い闇を照らすにはあまりに眩しすぎる。そして何より、このドロドロとした執着の鎖は、自分一人の手で解くべきだと感じていた。
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そんな一年近く前の、重く冷たい思考の渦に飲み込まれていた意識が、ふわりと浮上する。
「……湊。いつまで寝てるの」
微かなシャンプーの香りと、聞き慣れた無機質な声。俺は重い瞼を持ち上げた。視界に入ってきたのは、使い古された教室の机の木目。そして、至近距離で俺を覗き込む、美月の瞳だった。
「……あ。……美月か。どうかしたか」
「いや、別に」
俺が体を起こすと、教室の隅から爆音のような声が響いてきた。
「ちょっと相川さん!!寝起きの無防備な湊くんに至近距離で成分を吸わせるなど、天ヶ瀬法第1条(湊くんの呼吸権管理)に抵触しますわ!今すぐ3メートル……いえ、3キロ先まで退避なさい!!」
「こら、美月ー!!私のあいさつ奪わないでよ!」
案の定、陽葵と春香が火花を散らしながら、地鳴りを立てて突進してきた。いつもの、嵐のような日常が戻ってくる。
「……二人とも、うるさい。……湊は、疲れてる。……傷も、まだ痛むって言ってるのに」
美月のその言葉に、突進してきた陽葵が「ひっ」と短い悲鳴を上げて凍りついた。
「………う……その傷は……」
陽葵の顔からみるみる血の気が引き、狼狽の色が隠せなくなる。図書準備室で二人だけの秘密として共有していたはずの傷の存在。それを美月が口にしたことに、陽葵の完璧な管理が揺らいだ。もう既に揺らいではいるが。
「…天ヶ瀬さん。知ってるの?湊の傷のこと」
美月の声は、低く、冷たかった。追求するようなその響きに、陽葵が縋るような目で俺の方を向く。俺は、今の賑やかな関係性が壊れるのを恐れ、また余計な心配をかけたくなくて、小さく首を横に振った。
「な……なんでもないわよ!勝手に痛がっているだけですわ!」
必死にいつもの仮面を被り直そうとする陽葵。だが、美月はその矛盾を見逃さなかった。
「なにそれ」
美月が静かに立ち上がり、陽葵の正面に立つ。身長差はさほどないはずなのに、美月から放たれる威圧感に、陽葵がわずかに後ずさった。
「な、なによ」
「話してくれてもいいじゃん、陽葵」
美月が珍しく感情を剥き出しにして、陽葵に詰め寄る。その声には、一年間溜め込んできた、自身が二人を変えてあげなければならないという衝動が乗っていた。
「……あれ。下の名前で呼んでんのか?」
どうしても違和感を覚え、気になった俺はつい聞いてしまった。
美月はふっと、憑き物が落ちたように軽くため息をつき、手を下ろした。
「あ、いや。別に答えたくないなら……」
「陽葵、もういい?」
何か吹っ切れたような、どこか清々しささえ感じさせる表情で、彼女は自分の椅子に腰を下ろした。その座り方は、今までの美月ではなく、この歪な関係に自ら介入し、全てを書き換えようとする人のそれだった。




