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第44話:夜凪 湊の、守られる感覚

 新年最初の放課後。図書準備室の扉が閉まった瞬間、教室での聖女は砂浜の砂の城が崩れるように、簡単に崩れ去った。


『あああああ!湊くん!湊くん湊くん湊くん!!二週間ぶりですわ、この潤い、この空気、この成分!もう、発狂するかと思いましたのよ!』


 陽葵は、俺が椅子に座るのも待たず、背中からタックルするようにしがみついた。俺の制服に顔を埋め、スーハースーハーと深呼吸を繰り返すその姿は、完全に禁断症状が出た中毒者のそれだ。


『……落ち着けよ』


『落ち着いていられませんわ!休み中、あなたの幻覚が見えすぎて、家の庭にいたツチイナゴを危うく湊くんと見間違えて拉致監禁するところでしたのよ!?……あ、でも、あの茂みの猫には毎日様子を見に行っていましたわ。あなたがいない時間に行くようにしてましたの。せっかくの二人の時間を邪魔しちゃ悪いかと思ったから』


 陽葵の意外な報告に、湊は少しだけ目を細めた。


『……そうか。こゆきに会ってくれてたのかありがとな』


『お礼なんて不要ですわ。あの子は、私とあなたを繋ぐ唯一の生きたご神体。大切に決まってますわ。……それより!湊くん、最近あの担任、あなたにばかり雑用を押し付けすぎではありませんか!?』


 陽葵がパッと顔を上げ、憤慨したように声を荒らげる。三学期に入り、湊への蔑みがクラスの共通認識として定着した結果、担任の教師までもが『夜凪、お前どうせ友達いなくて暇だろ』と、不当な量の仕事を押し付けるようになっていた。


『あのクソ教師……。私の湊くんを、あんな汚らわしい指先で、顎で使うなんて。私が一言、天ヶ瀬家の力を通して教育委員会に圧力をかければ、明日にはあの男の席なんて無くなりますのよ?』


『よせって。面倒なことになる。……俺は、別にいいんだよ』

『…うっ……』


 湊は淡々と、山積みになったプリントの仕分けを始める。その横顔は、悟りを開いたかのように静かだった。陽葵は、湊のその抵抗しない姿勢に、以前からずっと違和感を抱いていた。


『……湊くん。どうしてあなたは、あの担任に怒らないのですか?あんなに不当な扱いを受けて、おまけに私からもあんな……その、酷いことを言われて……。クラスの皆からも……。どうしてお怒りにならないの?』


 湊の手が、一瞬だけ止まった。窓の外では、冬の短い太陽が沈みかけている。


『……怒るのが、好きじゃないんだ。怒られるのも』


『それは、誰だってそうでしょうけれど……』


「今から言うことは、ただの愚痴だと思って聞き流してくれ。……父親がな。よく怒る人だったんだ」

 湊の口から、初めて語られる家族の話。陽葵は息を呑み、静かに耳を傾けた。


『俺たちが中途半端な時期にこの街に引っ越してきたのも、それが理由だ。両親が離婚したんだよ。父さんの怒鳴り声が絶えない家だったから……。姉貴と母さんと、逃げるように出てきた』


 湊は、自分の古傷をさすりながら続けた。


『子供の頃から、あまり守られてこなかった自覚がある。理不尽な怒りに晒されて、ただ嵐が過ぎるのを待つしかなかった。……だからかな。俺だけは、極力怒りたくないんだ。怒りは何も生まないし、誰かを傷つけるだけだから。……小さい命を守りたいと思うのも、それが理由かもしれないな。誰にも守られない怖さを、俺は知ってるから』

 息をのみながら、湊は続ける。


『母さんは頑張ってくれてたって知ってる。……けど子供二人抱えて、俺たちにずっと構えるわけでは無かったからさ……。もっと普通だったらよかったのに、って思ったこともあった。……けどその考えが…。母さんに対する侮辱だと自分で気づいてからはそう思わない様にした』


 全部、我慢している。陽葵の蔑みも、教師の不当な扱いも、クラスの孤立も。彼は、自らの内に広がる「怒り」という火種を、優しいましろとの綺麗な記憶で必死に押し殺しているのだ。


『…父親に耐え切れなくなった、そんなタイミングで唯一の俺たち姉弟の心の拠り所だった………ましろはいなくなった。……限界だったよ。…正直。苦しかった』


『……湊くん』


 陽葵の瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。彼女は、自分がどれほど残酷なことをしていたかを突きつけられた気がした。最初は彼の発言一つ、後に彼を独占したいというエゴのために、彼が最も忌み嫌う「理不尽」を、自らが彼に与え続けていた。


『……ごめんなさい。ごめんなさい、湊くん……っ。私が、私があなたを一番傷つけていた……!』


『いいよ。元はといえば俺の発言が原因だ。俺こそ悪かった。だから、泣くな。ただ……」

『…ただ?』

『猫だろうと犬だろうと…命を大切にできない人には怒る…と思う。それだけは譲れない」


 湊がそっと陽葵の頭を撫でる。陽葵は泣きじゃくりながら、心に誓った。やはりこの人を守らなければならない。世界中の誰が彼を石で打っても、自分だけは彼の盾になり、同時に彼を優しく閉じ込める檻になろうと。

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