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第42話:夜凪 湊と、猫のましろ

 天ヶ瀬 陽葵という少女が壊れたのは、あの一件から数日後のことだった。


 教室での彼女は、相変わらず冷酷な絶対君主だった。湊が席に座っているだけで、まるで見えない汚れでも拭き取るかのようにハンカチで鼻を押さえ、氷のような視線を投げつけてくる。周囲の生徒たちもそれに同調し、湊への風当たりは日増しに強くなっていった。


 だがある日、授業が終わった直後。陽葵は湊の机の前に立ち、教室に響き渡るような凛とした声でこう言い放った。


『夜凪君。放課後、図書準備室へ来なさい。古い名簿の整理という力仕事が残っていますの。……あんな不潔な発言をしたのですから、それ相応の奉仕をしていただきますわ』


 教室がざわつく。

『ついに聖女様が直接、夜凪を処刑シゴきにかかった』

『自業自得だよ、あの発言だもんな』


 クラスメイトたちの声は、湊への同情よりも、陽葵の正義を称える色の方が強かった。


 だが、湊は違和感を覚えていた。命令を下す陽葵の指先が、わずかに震えていたこと。そして、伏せられたその瞳の奥に、蔑みではなく、焦燥と、何かを切望するような熱が混じっていたことに。


『……了解。行けばいいんだろ』


 湊が短く答えると、陽葵はフンと鼻を鳴らして教室を後にした。



 放課後。西日が差し込み、埃が光の粒のように舞う図書準備室。重い扉を開けた瞬間、湊は言葉を失った。


 そこには、クラスで見せる傲慢な聖女の姿はなかった。窓際の丸椅子に腰掛け、膝を抱えるようにして座る陽葵は、今にも消えてしまいそうなほど、しおらしく、弱々しい一人の少女だった。


『……来ましたわね』


 その声は小さく、掠れていた。湊は黙って彼女の前に立った。周りを見渡すが、整理すべき名簿など、どこにも見当たらない。


『力仕事ってのは、嘘か?』


『……。ええ、嘘ですわ』


 陽葵は顔を上げ、じっと湊を見つめる。その瞳には涙が溜まっていた。


『見てしまいましたの。……あの日。吹雪のような冬の交差点で、あなたが自分の体を投げ出して、あの泥だらけの猫を助けるところを。……その後、何度も、何度も……怪我をした足を引きずりながら、茂みの奥でその猫にご飯をあげている姿も」


 湊の心臓が跳ねた。誰にも見られていないと思っていたからだ。


『そんなの……普通、できませんわ。あんなにクラス中から蔑まれて、無視されて……世界を呪ってもおかしくないはずのあなたが、どうしてそんなに…。ぼろぼろの猫に優しく笑えるのですか? ……私は、そんなあなたの高潔な魂に……恋をしてしまいましたの』


『…………』


『でも、気づいてしまいました。あなたのその美しさは、あまりに脆い。もし他の誰かがその魅力に気づいてしまったら、あなたは私の手の届かないところへ行ってしまう……』


 陽葵が立ち上がり、湊の胸ぐらを掴んだ。だが、そこには力など入っていない。ただ、湊を逃がしたくないという震える意志だけがあった。


『決めましたわ。私はあなたを守ります。……でも、誰にも盗られたくない。だから、みんなの前では、私はあなたを蔑み続けます。あなたが、私以外の誰にも愛されないように。世界から孤立し、私の腕の中にしか居場所がなくなるように……。だから湊くん。この場所だけでいい……』


 陽葵はの湊の腕の中に頭を埋め、消え入るような声で囁いた。


『この場所だけでいいから、普通に仲良くしてください。今まで嫌な思いをさせて悪かったわ。謝ります。ごめんなさい。だから……私に、甘えて。私を、甘やかして。……もう、我慢できませんの』


 彼女は湊を床に座らせると、自分もその隣に膝をついた。

『……とりあえず、膝枕をなさい。私への奉仕ですわ』


 それが、全ての始まりだった。

 表では不浄の者として湊を排斥し、裏では自分だけの宝物として俺を愛でる。陽葵が作り上げたその歪なシステムは、彼女の純粋すぎる愛と、底知れない独占欲の結晶だったのだ。


 照れくさそうに、湊の膝枕に寝転ぶ陽葵をみて湊は思った。


『(ましろみたいだな……)』

『…ねぇ、どうして猫の為に命を投げ出せたの?』

 陽葵は湊の膝の上で、上目遣いに不思議そうに聞いてきた。

 

 湊の手が止まり、顔を俯けた。

『……湊……くん…?ごめんなさい、言いにくいなら別に…』

『…亡くなったんだ。こっちに引っ越す前に、飼っていた猫が………』

 目頭に涙を浮かべながら話す湊を、目を見開いた陽葵が見守る。


『……重なって見えたんだ。元々飼ってた猫と……。あの子も…捨て猫だった……。雪が降る日に、泥だらけで歩いてたところを姉貴と保護した。……家に連れて帰って、その日にお風呂に入れたことまで覚えてる。……綺麗にすると凄く真っ白でな。……ましろって名付けてずっと可愛がってたんだ』


『……』


『……最期は看取れた。病気だったんだ……。でもやっぱもう少し一緒に居たかった。……だから助けたかった。もう嫌なんだよ…命を目の前で失うのは……。今はマンションだからあの子は飼えない…。だから定期的にご飯をあげに行ってるけど、本当は飼いたい。……最後まで面倒を見てあげたい』


 陽葵はその話を聞いて、ハンカチで目を抑え、泣きじゃくった。湊も、ましろのことを思い出して涙を流した。

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