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第41話:聖女様が堕ちた、あの冬の日

◇◆◇◆◇


 体育祭の熱狂から一夜明けた、私立 聖鳳高等学校。


 教室内は依然としてクラス優勝の余韻に包まれていたが、当の立役者である俺は、教室の席で突っ伏して死んでいた。


「……あいたたた……」


 無理もない。美月の超高速ピッチに合わせ、無理やり足を引きずって爆走した代償だ。古傷のある右足が、ズキズキと鈍い音を立てている。


「……湊。やっぱり、痛むんだね。……私のせい?」


 いつの間にか隣にいた美月が、俺の足をじっと見つめていた。その瞳には、昨日の勝利の悦びよりも、俺の体調を察知できなかったことへの、微かな後悔の色が混じっている。


「お前のせいじゃない。……元々、古傷があっただけだ」


 俺の言葉に、美月が不思議そうに首を傾げる。


「……古傷?湊、運動部だったこと、ないよね。……中等部の記録にも、大きな怪我の既往歴はない。……いつ、どこで?」

「そのデータの出所はどこだ」


 美月の鋭い指摘から逃げるように、俺は窓の外、校庭の隅にある大きな桜の木を見つめた。


 意識が、今から約一年前――高二の冬へと引き戻される。



                ****



 当時の夜凪 湊は、文字通りクラスの背景以下の存在だった。聖鳳高等学校にはクラス替えがない。つまり、一年生のクラスのまま三年まであがるのだ。


 湊は高二の夏という中途半端な時期に転校してきた異物であり、もう既に出来上がっていたクラスの輪には馴染めなかった。


 そこに追い打ちをかけたのが彼自身の発言だ。周りが宗教のように崇拝する「聖女様」という単語。これに純粋な疑問を持つ。夏が終わり秋風の吹くとある日、唯一話せたクラスの男子、三津島(みつしま)に率直に聞いてしまった。


『なぁ。その"聖女様"って呼び方、なんかのギャグなのか?宗教?』


 三津島が青ざめた顔をして何かを言う前に、偶然それを聞いていた聖女様は顔を真っ赤にして激怒。深い意味はなかった。悪意はなかった。ただ、単にクラスの空気を知ろうとしただけだった。


 ここから湊の地獄の日々が始まった。


 松田たちの傲慢な支配と、それに加担……というよりは、冷徹な秩序として君臨していた天ヶ瀬 陽葵の蔑みの視線。


『…不愉快ですわ。あなたが視界に入るだけで、私の学校生活の純度が下がりますわ』


 当時の陽葵は、当然だが今のような甘えの欠片もない、正真正銘の冷酷な聖女だった。彼女の言葉に便乗し、クラス全員が湊を触れてはいけない事故物件として扱う。そうして時は流れていき、冬がやってきた。



 放課後、人通りの少ない裏通りの交差点。牡丹雪が降り、冷たい木枯らしに身を縮めながら帰路についていた湊の視界に、小さな影が飛び込んできた。


 一匹の、泥だらけの痩せた野良猫。


 そいつは、曲がり角から猛スピードで現れたトラックに気づかず、車道の真ん中で立ち尽くしていた。考えるよりも先に、体が動いていた。


『危ないッ!!』


 湊は雪で滑る地面を蹴った。猫の首根っこを掴んで歩道の草むらへ放り投げた瞬間、視界が激しく回転し、鈍い衝撃と、経験したことのない熱い激痛が右足に走った。トラックのバンパーが湊の脚をかすめ、そのまま急ブレーキの音を響かせて止まった。


『……ッ、ガ……ハッ……』


 激痛で視界がチカチカする。だが、湊は真っ先に投げ出した猫の姿を探した。猫は無傷で、少し離れた場所で驚いたようにこちらを見つめていた。


『……よかった。無事か、お前……』


 そんな湊の姿を、少し離れた街灯の陰から呆然と見つめている少女がいることに、湊は気づいていなかった。


 天ヶ瀬 陽葵だった。彼女は、偶然通りかかったその場所で、自分が「不潔で価値のないゴミ」と切り捨てていた男子が、一匹の小さな命のために自らの肉体を投げ出す瞬間を、トラックの運転手が呼んだ救急車によって運ばれていくところをその目に焼き付けてしまったのだ。

 

 本来なら救急車を呼ばなければならないところだが、それすらもできなかった。驚きすぎて、立ち尽くしていた。


 事故は幸い、運転手の懸命な回避により骨折は免れたものの、右足の神経と筋肉にダメージを残した。



 そして数日後。怪我を隠して登校した湊の前に現れた陽葵は、以前にも増して攻撃的だった。


『……足を引きずって歩くなど、見苦しいですわ。ゾンビみたい。今すぐ私の視界から消えなさい!』


 だが、その声は微かに震えていた。彼女は知ってしまったのだ。湊が、誰も見ていないところで小さな命に自らを捧げられる人間だという事実を。その魂が、誰よりも綺麗であるということを。


 さらにその後も、湊が事故現場の近くの茂みで、助けた猫にこっそりご飯をあげている姿を、陽葵はまたしても目撃してしまった。夕暮れの中、猫に優しく微笑む彼を見て、彼女の中で何かが決定的に歪み、そして完成した。


『(……ああ。駄目。この人は、誰にも知られてはいけない)』


 もし、この「本当の彼」をクラスのみんなが知ってしまったら?松田も、他の女子も、きっと彼を認め、彼を好きになってしまうだろう。彼は「みんなの人気者」になり、私の手の届かない場所へ行ってしまう。


『(この美しすぎる魂は……私だけが管理し、私だけが知っていればいい。私が徹底的に蔑み、価値のないゴミとして扱うことで、世間から隠し通さなければならない……)』


 それが、今の歪な構図の始まりだった。

 あの冬の日から、彼女の聖女としての仮面は、湊という存在を独占し、社会的に抹殺して自分だけのものにするための檻へと変貌したのだった。

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