第34話:聖女様と、終わらない喧騒
「……湊。……足、踏まないでね。わざと踏むなら、私も踏み返す。しらんけど」
「なんで下の名前で呼ぶ。わざと踏むわけないだろ。……おい、痛いからいい加減に腕を離せ」
廊下を歩く俺の右腕には、獲物を離さない鷹のような力強さで美月がぶら下がり、左側からは「その腕を今すぐ離しなさい!」と憤慨する陽葵と「美月だけズルい、やり直し!」と抗議する春香が詰め寄っている。この異常な光景も、今の学園ではいつもの光景として徐々に受け入れられつつあった。
だが、教室の扉を開けた瞬間、双方のその喧騒がピタリと止まった。
「……ッ、おい。夜凪たちだ」
「やばいって、一触即発だろこれ……」
教室の空気が、凍りついたように静まり返る。クラスメイトたちが壁際に寄り、中央に道ができる。その視線の先――俺の席の前に、松田が立っていた。同じく今日から復帰のようだった。
かつての取り巻きたちの姿はない。以前の傲慢なまでの自信に満ちたオーラは消え、どこか窶れた、鋭い牙を失った野良犬のような風体で、彼は俺をじっと見つめていた。
「……。……」
陽葵が俺の前に一歩出ようとし、春香が身構える。俺は二人を制し、自ら松田の正面に立った。
「(……やるなら、ここでケリをつける)」
俺が口を開こうとした、その時だった。
「……すまなかった」
松松田が、深々と頭を下げた。教室中に、驚愕の溜息が漏れる。あのプライドをかき集めて服を着せたような男が、カースト最底辺の俺に、公衆の面前で最敬礼の謝罪をしたのだ。
「……夜凪。俺が今までやったことは、取り返しのつかないことだった。天ヶ瀬さんたちにも、迷惑をかけた。本当に、申し訳ない」
その声は小さかったが、震えていた。学校中からの冷たい視線、そして何より、美月がバラ撒いたアカウントの真実によって、彼は自らが作り上げた虚飾の城が崩れ去るのを目の当たりにしたのだろう。
「……。……顔を上げてくれ。謝罪は受け取った」
俺が短く答えると、松田は一度だけ俺の目を見て、逃げるように教室を去っていった。これで、あの一件は本当の意味で幕を閉じたのだ。
「……ふぅ。これで一旦、解決だね。めでたしめでたし。しらんけど」
美月が両手をパンッと軽くたたいて、いつもの無機質なトーンで空気を緩めた。確かに、一つの大きな問題は片付いた。俺の日常(?)を脅かした悪意は去ったのだ。……しかし。
「――解決?何を言っていますの、相川さん」
ガシッ、と美月の左肩を陽葵の手が、右肩を春香の手が掴んだ。その握力は、先ほどの松田への警戒心など比ではないほどに強固だった。
「えっ……?なに、怖いんだけど」
「解決したのは学園の秩序であって、私と夜凪くんの二人三脚の問題は、一ミクロンも解決していませんわ!」
「そうだよ美月!松田くんの件が終わったなら、次は私たちの番!さっきのじゃんけんはやっぱりノーカウント!」
ヒロイン二人の、本日何度目か分からない執着の炎が再点火する。
美月は「……えー、面倒。……湊、助けて」と俺の背中に隠れようとするが、二人の包囲網はそれを許さない。
「ていうか、あなた何度夜凪くんを下の名前で呼びますの…!」
「確かに!美月と夜凪、いつからそんな仲良くなったの!?」
「いいじゃん。どうせあんたも裏では下の名前で呼んでるんでしょ」
美月は真顔だが、的確な突っ込みを陽葵に入れた。
「…う……」
「ほら、図星」
「天ヶ瀬さんも呼んでるの!?じゃあ私も湊って呼ぶー!」
「…なっ!もうその話はいいから!!辻岡さんも下の名前で呼ばない!相川さん、そうやって話をそらして逃れようというのですね。逃がしませんわ!さあ、今すぐその名簿の文字を消しなさい!消さないなら、その名簿を火炎放射器で灰微塵にして差し上げます!」
「私も練習用の紐買ってきたんだから!今から夜凪と練習するの!ひっぱたくよ美月!」
結局、クラスメイトたちが「火炎放射……?」「灰…微塵……?なんだその言葉」「ひっぱたく…?」「……あいつら、松田より怖くね?」と遠巻きに見守る中、担任が教室に入ってくるまでその言い合いは続いた。
だが、名簿の文字は結局消えなかった。美月が事前に名簿を大量にカラーコピーし、しかも全てに『夜凪・相川』という文字をボールペンで刻み込んだ上で、職員室、体育教官室、果ては生徒会室にまで提出済みだったからだ。もはやこの事実を消すことは、物理的に不可能だった。
◇◆◇◆◇
昼休み。
「……湊。……体育祭当日、私のことしっかり支えてね。転んだら、あなたのせいで私の『聖女様観察日記』が途切れるから。しらんけど」
「…え!?せ……?なによその不穏なタイトルの日記!!」
地獄耳の陽葵が詳細を聞き出すために、美月の肩を掴もうとした。だが美月はそれを再度マタドールのようにひらりとかわし、「……あ、購買のパン売り切れる」と言って脱兎のごとく逃げ去った。「待ちおれぇぇぇぇ!!」と追いかける陽葵。「私も混ぜてー!」と続く春香。
三人の声が遠くなる廊下で俺は天井を仰いだ。松田という毒は去った。だが、その後に残ったのはより濃度が高くなり、より制御不能な三人の少女たちとの、出口のない迷路だった。
体育祭の練習が始まる明日から、俺の脚が物理的に二本で足りるのか、本気で心配になってきた。




