第31話:聖女様の、ミッドナイト・サニタイザー
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その夜。当然だが、換気扇をコンクリートで埋めるというのは姉貴に『家を壊す気か!』と怒られ不可能だった。とりあえず家中の隙間を強力粘着テープで塞ぎ、空気清浄機をパワフルモードに変えてベッドに入った。
「(……流石に、あいつも母親の監視がある。本当に来たりはしないだろ……)」
そう自分に言い聞かせ、意識を沈めようとしたその時だった。カサ……カサ…。屋根の上を、重い鳥が歩くような不気味な音が響いた。
「(……まさか)」
心臓が嫌な跳ね方をする。直後、静まり返った寝室の窓ガラスを、コツ、コツ、と硬い物で叩く音がした。恐る恐る目を開け、カーテンの隙間から外を伺うと――そこには、暗闇の中で雨樋を掴んで宙吊りになっている陽葵の姿があった。
「夜凪くん……。起きていらっしゃいますわね……?」
「どわぁっ!!」
窓越しに聞こえる、低く、湿度の高い声。俺は人生で初めて「どわ」という情けない悲鳴を上げた後、深夜であることを思い出して慌てて口を押さえ、窓を数センチだけ開けた。
「陽葵!お前、何やってるんだ!ここ二階だぞ!」
「二階など、今の私にとっては平均台も同然ですわ……。それより夜凪くん、部屋の空気が濁っています。……外来種の……あの辻岡さんとかいう女が作った弁当の、卑しい油の匂いが部屋の隅に残留しているのを感じますの」
「なにごちゃごちゃ言ってんだよ…!危ないだろ、ほら!」
俺は陽葵に手を差し伸ばしたが「いや!」といいじたばたしながら、雨樋を片手で掴んだまま、コートの懐から「例のアロマ(霧吹き)」を取り出した。
「さぁ、窓を全開になさい。今すぐこの聖女の吐息(エタノール80%配合)で、あなたの肺胞の隅々まで洗浄して差し上げます」
「死ぬわ!いいから降りろ、今すぐ!」
「降りません。……あなたが、その唇で『陽葵、俺を浄化してくれ』と懇願するまでは……。あぁ…。月光に照らされたあなたの寝顔、ビデオカメラに収めたかった……。いえ、もう脳内メモリに60fps・4K画質で保存しましたけれど」
陽葵の瞳が、暗闇の中で爛々と輝いている。もはや謹慎という概念は、彼女の辞書から完全に抹消されたらしい。
その時、俺の枕元に置いていたスマホが鳴った。メッセージの通知音ではない。こんな深夜に通話の着信音楽が流れている。画面には『相川 美月』の文字。
「……もしもし、相川か?なんだこんな時間に」
『……夜凪。今、あなたの家付近のレーダーに白い巨大な怪鳥みたいなのが止まってるけど』
「……見てるのか。色々聞きたいことはあるが、今は一旦いい。見てるなら警察じゃなくて、なんらかの手段であいつの母親を呼んでくれ。俺じゃ止められん」
『……もう呼んだ。GPS情報、天ヶ瀬家のセキュリティシステムに転送済み。もうすぐ、夜凪の家の前に天ヶ瀬家の黒塗りの車が三台到着するよ。そろそろ「回収」が始まる。しらんけど』
「…お前、本当に何者なんだ…?」
『—プツッ …ツーツー』
電話が切れるのとほぼ同時だった。庭先に、サーチライトのような強烈な光が照射された。
「陽葵、いい加減にしなさい!」
下から響く、陽葵の母親の凛とした、しかし怒り心頭の声。
「ひっ……お、お母様!?ど、どうしてここが……!」
「あなたのスマホのGPSを、お友達の相川さんが共有してくれたのよ!さっさと降りてきなさい!」
陽葵は「ああああ……相川さん……!またしても、またしても私を……!」と絶叫しながら、俺の方に手を伸ばした。
「み…湊くん……!た、助けて…ッ!」
俺はそれを、ただ見ていることしかできなかった。迎えに来た数名の屈強な警備員たちが、まるで特殊部隊のように壁を登り、陽葵を確保し、文字通り荷物として回収していった。
断末魔のような叫び声と共に、黒塗りの車列は嵐のように去っていった。俺は震える手で窓を閉め、鍵を二重にかけた。そしてスマホに届いた美月からの最後のメッセージを見る。
【あいかわみつき】:『おつかれさま』
画面の向こうで、無表情でほくそ笑んでいるであろう彼女の顔が浮かぶ。聖女の狂気よりも、それを掌の上で転がす美月の手腕。




