第29話:聖女様の不在、またの名を平穏
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翌朝。陽葵という巨大な重圧がいない学園の廊下は、驚くほど軽やか……なはずだった。だが、俺の鞄の中には、昨夜のドサクサに紛れて陽葵が仕込んだ聖女の耳が潜んでいる。
「(……なんか、鞄がいつもより重い気がする)」
そんな予感を抱えながら教室に入ると、そこにはすでに登校し、自分の机で「ふふふーん」と鼻歌を歌いながら何かを広げている春香の姿があった。彼女の机の上には、可愛らしいチェック柄のランチクロスで包まれた、かなり気合の入った二段重ねの弁当箱。
「あ、夜凪!おはよう!」
「……おはよう。朝から随分と上機嫌だな」
「そりゃあね!今日は天ヶ瀬さんもいないし……あ、いや、昨日の約束、覚えてる?お昼休み、楽しみにしててね!」
春香の眩しすぎる笑顔。
クラスの連中が「おい見ろよ、辻岡さんが夜凪に……」「マジかよ、聖女様がいない間に一気に攻める気か?」とザワつき始める。
現在クラスの『ヘイト』は松田に向いている。(俺も多少)理由が理由だったから仕方ない。逆に春香と美月への評価が急上昇中だ。学園の人気カーストは美月≧聖女様=春香という謎のバランスだ。特に美月は、周囲から畏敬の念で見られることに満更でもないらしく、特に用もなく廊下をふらふらと歩き、モーゼのように道が開くのを無表情で楽しんでいた。
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――その頃。豪華な天ヶ瀬邸の、遮光カーテンが閉め切られた陽葵の自室。陽葵は寝巻き姿のまま、最高級ノイズキャンセリング搭載ヘッドホンをぎゅっと耳に押し当て、デスクに置かれた受信機を睨みつけていた。
「『お昼休み、楽しみにしててね』……?なんですの、その卑しい誘惑は……!私の湊くんの胃袋を、そんな家庭的な演出で買収しようというのですか!?許しません、許しませんわよ外来種!!」
陽葵は苛立ちでデスクをコンコンと指先で鳴らし、手近にあった湊の自作等身大パネルの胸元をむんずと掴む。スピーカーからは、教室のガヤガヤした音と共に、湊の「……ああ、期待しとくよ」という、いつもより少しだけ柔らかい声が聞こえてきた。
「ひゃぅっ!?今、湊くん、期待すると言いましたわね!?どうせ味の薄い健康志向弁当に!?私の、特製『更生用・湊くん専用高栄養プロテイン(私のDNA配合)』の方が何倍も愛が詰まって――ああっ、また笑い声が!」
嫉妬に狂った陽葵はヘッドホンをデスクに叩きつけ、窓を全開にし、雨樋に足をかけようとした――その瞬間、自室の扉がガチャリと開いた。
「何をしているの?」
お母様にしっかりと現行犯で見つかった。
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そして、運命のお昼休み。俺は春香に連れられ、屋上へとやってきた。美月は「……私は購買のパンでいい。ちょっとやることある」と言って、なぜか少し離れたベンチでスマホと俺の鞄を触っている。
「じゃーん!夜凪、これ、私が朝早起きして作ったんだよ!」
春香が誇らしげに蓋を開ける。中には、彩り豊かなおかずと、ご飯の上に海苔で丁寧に書かれた『おつかれさま』の文字。
「……すごいな。普通に美味そうだ。ん?この『おつかれさま」ってのは?」
「『ミナト』の新作短編小説、昨日公開されてたよね!それのこと!」
「読んでくれたのか」
「あったり前じゃん!感想もノートにまとめてきたんだよ!」
他愛もない、しかし平和で温かい会話が繰り広げられる。その数メートル近くで、美月は俺の鞄から摘出した黒い小さな機械を弄り回していた。
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――天ヶ瀬邸。
「あら……?音が聞こえない…。なんでなの?このままじゃ湊くんが健康弁当をむしゃむしゃ食べちゃうじゃない!」
母親の説教を振り切り、再びヘッドホンを装着した陽葵は、突然の無音に絶叫しながらベッドの上でのたうち回った。
『――ザザー...』
「!?」
微かにノイズ音が聞こえると共に、陽葵はベッドから飛び起き、全神経を耳に集中させた。
『……あー、あー。テステス。天ヶ瀬さん、聞こえる?楽しそうだね。しらんけど』
「……ッ!またしても相川さん…ッ!彼を出しなさいよ…ッ!」
『無理だよ。あーあ、すごい。今、春香が唐揚げを箸でつまんで……夜凪の口元に持っていってる。あーんだって。……うわ、夜凪、顔真っ赤にして口開けてるよ。あ、食べた。咀嚼してる。幸せそうな顔(嘘だけど)』
「う、嘘よ……!嘘ですわ!!湊くんがそんな……他の女の手から餌付けされるなんて……!!」
陽葵の絶叫が部屋に響く。だが、美月は淡々と、しかし残酷な嘘実況を続ける。
『あ、今度は卵焼きだ。甘くて美味しいだって。……もう二人だけの世界だね。天ヶ瀬さんの入る隙間、一ミリもないや。……残念だったね(嘘だけど)』
「……………ッ!! 殺す……殺してやる……!!」
盗聴器越しに、陽葵が過呼吸になりそうなほど動揺しているのが手に取るように分かる。美月はニヤリと口角を上げた。
「美月ー!何ニヤニヤしてんのー?」
「なんでもない、こっちの話」
美月はそう呟くと、ポケットの中で盗聴器をプチッ、と握りつぶし、回線を物理的に遮断した。
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――天ヶ瀬邸。
陽葵はついに耐えきれなくなり、机に置いてあった「緊急時用・湊くん呼び出しボタン」を狂ったように連打し始める。
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「……なんだ?今の音」
俺のポケットの中で、スマホが激しく振動を始めた。陽葵からのLINE。通知が止まらない。
【陽葵】:新着メッセージ 71件
俺はそのポップアップだけ見て、携帯を一旦ポケットの中にしまい込んだ。
『今すぐその弁当を捨てなさい。毒が入っていますわ』『もし一口でも食べたら、私は今すぐその屋上にパラシュートで降下しますわよ』『あーん禁止。絶対禁止。死にたくなければ今すぐ私の声を思い出しなさい!』『食べてないわよね?食べてないと言って!吐き出しなさい!今すぐ胃洗浄して!』『私の匂いを思い出しなさい』
「……どうかしたの、夜凪?」
「いや……。なんか、ものすごい特急呪物が届いてる気がするだけだ」
春香は不思議そうに首を傾げ、俺は雲一つない青空を見上げた。そこには雲一つない青空が広がっている。が空の遥か遠くから、陽葵の声が微かに聞こえてくるような気がして、俺は無意識に背筋を凍らせた。
俺は次に陽葵に会った時のことを想像すると、その味は一切せず、ただ砂を噛んでいるような恐怖だけが口の中に広がった。




