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第28話:聖女様の帰還と、深夜の脆弱

 イルカショーが終わり、スタジアムを後にする俺たちの足取りは、水を吸った服の重さ以上に重苦しかった。特に最前列で直撃を喰らった春香と陽葵は、タオルで髪を拭きながらも、一言も口を利かない。視線がぶつかるたびにバチバチと火花が散り、その背後で美月が「……湿度100%。溺れ死にそう。しらんけど」と呟きながら空のコーヒーカップを捨てていた。


「……夜凪くん。一旦、私の家へ戻りますわよ。風邪を引いたら管理に支障が出ますもの」

 陽葵が、濡れて張り付いたブラウスの襟元を押さえながら、震える声で言った。


「いや、俺は自分の家に――」

「させません。……今日は私の謹慎を破らせ、さらには泥棒猫に私のテリトリーを荒らさせた罰として、私の家で徹底的な消毒と反省会を受けていただきますわ」


「お前が勝手に破ったんだろ」

「ちょっと待ってよ天ヶ瀬さん!夜凪を一人で行かせるわけないでしょ!私も行くから!」

 俺に被せるように春香がずいっと身を乗り出す。春香にとっての論点はどうやらそこではなかったらしい。


「……は?どのツラを下げて我が家の敷居を跨ぐつもりですの、外来種さん。不法侵入で即座に警備員を呼びますわよ」

「いいよ、呼べば!その代わり、夜凪がどんなに不自由な思いをしてるか、全部動画に撮って拡散してあげるから!」

「な……っ!姑息で卑劣な真似を……!」


「……てかさ、天ヶ瀬さん。普通に帰ったらお母様にガチで怒られるんじゃない?私たちが行けば、何かしら理由付けになると思うし穏便に済むように手伝ってあげるから、全員で行けばいいじゃん」

 美月の合理的すぎる提案により、結局一行は陽葵の邸宅へと向かうことになった。


 天ヶ瀬邸に到着したとき、屋敷の重厚な扉が開くと、そこには一人の凛とした女性が立っていた。陽葵の母親だ。二階の窓から雨樋を伝って脱走した娘が、ずぶ濡れで男と女二人を連れて帰ってきたのだ。謎の状況だ。言い逃れができるはずがない。


「陽葵。……部屋で反省しているはずのあなたが、なぜそんな姿で、他の方々と一緒にいるのかしら?説明してくれるわね」

「お、お母様。それは…え…ええと、これはですね……!空が青くて」


 震える陽葵の横から、美月が平然とした顔で一歩前に出た。

「初めまして。お邪魔します。天ヶ瀬さんの友人の相川です」

「……初めまして」


「実は今日、私たちが学校で配布された『とある更生プログラムのボランティア資料』を天ヶ瀬さんに届ける予定だったのですが、彼女、あまりに責任感が強すぎて……」

「……責任感?」

「はい。謹慎中でありながら『更生対象が道を踏み外さないか心配で、心の除菌が間に合わない』と錯乱して、窓から飛び出してしまったんです。私たちは彼女を保護して、落ち着かせるためにマイナスイオンの多い水族館へ連れて行ったのですが、そこでイルカショーを最前列で見ることになりました。けど、イルカがかけてきた水から私を守ってくれて。本当に、素晴らしい教育をされてるんですね」


 美月の瞳には一切の淀みがない。素晴らしい教育というキラーワードに、陽葵の母親は「……まあ」と妙に納得してしまった。


 最終的に美月の圧倒的な「正論(の皮を被った嘘)」のオーラに圧され「……そう。それならいいのだけれど。早く着替えなさい」と矛先を収めた。


「(よくそんなウソがペラペラと……)」

 俺はそう思ったが、同時に関心もしてしまった。不甲斐ない。


 美月のデタラメな、しかし説得力のあるフォローにより、なんとか最悪の事態は免れた。


「……助かった。……いや、死ぬかと思いましたわ。ありがとうございました、相川さん」

 客間に入った瞬間、陽葵が崩れ落ちるようにソファに倒れ込んだ。


「さあ、陽葵。お友達も濡れているのでしょう?お部屋で着替えさせてあげなさい」     

 後から来た母親の促しにより、陽葵は「(今の聞かれてなかったわよね…)」と思いながら春香と美月を連れて部屋へ向かった。その間俺は客間に一人残された。


「……ちょっと、外来種さん。私のクローゼットに勝手に触らないでくださる?」   

 陽葵の部屋から、さっそく刺々しい声が客間まで漏れ聞こえてくる。


「えー、だって服を貸してくれるんでしょ?あ、このワンピース可愛い!天ヶ瀬さん、こういうの着るんだね」


「触るなと言っていますの!それは夜凪くんとの『()()()()()()()』に着ようと温めておいた特注品……ああっ、あなたのその光の属性が付着したら、生地が浄化されて消滅してしまいますわ!」

「大げさだよ天ヶ瀬さん。ほら、美月もこれ似合うんじゃない?」


「……私はいい。てかこのドライヤー、天ヶ瀬さんの家の?これ一台で学校2,3校建てれそうなくらい高そうだね。しらんけど」

「ドライヤーの話はしていませんわ!相川さん、あなたもです!さっきから私の部屋の隅々に小型カメラを仕込んでいませんか!?その怪しいポーチは何ですの!?」


「……ただの予備バッテリーと、天ヶ瀬さんの裏の顔を永久保存するための外付けHDD。……冗談だよ。知らんけど」


 ガシャーン、と何かが倒れる音がした。

「あああ!私の『夜凪くん更生記録(という名の観察日記)』が!見ないで、見ないでください!」

「えっ、何これ……『AM 7時12分、アクビをした。絶滅危惧種の胎動のようで愛おしい』って……天ヶ瀬さん、これかなりヤバくない?」


 春香はこれまでにないくらい、()()()()を見た顔をした。

「うるさいですわね!これは更生に必要な観察記録ですの!さあ、着替えが終わったならさっさと出ていきなさい!」


 ドタバタという足音と共に、三人が客間に戻ってきたときには、日が落ち始めていた。陽葵は、自分のプライバシーを春香と美月に踏み荒らされた屈辱で顔を真っ赤にし、春香は天ヶ瀬さんの意外な一面を知って引き気味、美月は相変わらず無表情でスマホを叩いている。


「……じゃあ、夜凪。また明日、学校でね!明日はお昼休み、楽しみにしてて!」   

 春香は、陽葵に貸し出された微妙にサイズの合わない服を翻し、宣戦布告のような笑顔を浮かべた。

「……貸した服、一秒でも早く高濃度塩素で滅菌しなきゃ。相川さんも、データのアップロードは禁止ですからね」

「……検討しとく。知らんけど」


 嵐のような二人が玄関へ向かう。俺もそれに続いて立ち上がった。

「じゃ、俺も帰るわ。遅いしな」


 その瞬間、陽葵の表情が凍りついた。

「……待って。待ちなさい夜凪くん。どこへ行くつもりですの?」

「どこへって、家だよ。みんな着替え終わったんだし、これ以上居座る理由もないだろ。俺の着替えがあるわけじゃあるまいし」

「服はありませんが理由ならありますわ!反省会がまだ終わっていません!今日は私のテリトリーに外来種を招き入れた重大な規律違反が――」

「それは俺の提案じゃないだろ。……じゃあな。ちゃんと反省しとけよ」


 俺が玄関へ歩き出すと、陽葵は必死の形相で俺のシャツの裾を掴んだ。

「嫌、嫌ですわ!行かないで!こんな……心に毒を注入された状態で、一人で眠れるわけありませんわ!今すぐここに座って、私の気が済むまで膝枕を……!」

「断る」


「はい、天ヶ瀬さん。これ以上騒ぐとお母様が来るよ。知らんけど」

 美月の冷静な介入により、陽葵の手が力なく離れた。

「あ、あああ……夜凪くん…………!」

 玄関の扉が閉まる直前、俺が見たのは、薄暗い廊下で今にも泣き出しそうに、けれど執念深く俺を凝視する聖女の姿だった。


 三人で歩く帰り道。春香が少し申し訳なさそうに俺を伺う。

「……ごめんね、夜凪。天ヶ瀬さん、あんなに必死だったのに」

「気にするな。あいつは放っておくと際限がないからな。……相川、お前も色々ありがとな」

「……別に。あのアカウント特定した時の予備データ、まだいくつか残ってるし。何かあったらまた使う。しらんけど」


「…そういや相川、陽葵の母親と連絡取ってたけど、初めましてって挨拶してたよな」

「あんなメッセージ偽物に決まってんじゃん」

「あ……そか…」



 一方、静まり返った天ヶ瀬邸。陽葵は自室のベッドに倒れ込み、湊が座っていたソファの残香を思い出すようにシーツを強く抱きしめていた。


「……嫌。嫌ですわ。……どうして、私だけのものになってくれないの?」


 彼女は暗闇の中で、湊のカバンに密かに忍ばせた発信機兼ボイスレコーダーの受信機を耳に当てた。スピーカーから聞こえる、夜道を歩く三人の楽しげな足音と、春香の笑い声。


「……ふふ、ふふふ。……いいわ。明日、学校で存分に楽しみなさい、外来種さん。……その代わり、あなたが彼に囁く言葉も、彼があなたに向ける吐息も、すべて私がこの耳で収穫して差し上げますわ……」


 陽葵のその瞳には、もはや聖女の慈悲など微塵も残っていない。


「明日が楽しみですわね。湊くん。……ふふ、あはははは!」


 俺はこの時、カバンの底で聖女様の耳が脈打っていることに、まだ気づいていなかった。

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