第26話:聖女様と、深海で争う
深海魚コーナーへと続くスロープを下るにつれ、館内の照明は極限まで落とされていく。青暗い闇の中、僅かに光る水槽だけが不気味に浮かび上がり、俺たちの足音は厚いカーペットに吸い込まれていった。
だが、その静寂を切り裂くように、一定のリズムで「カチ……カチ……」という硬質な音が響き続ける。
「ねえ、夜凪。やっぱりついてきてるよね?」
春香が俺の腕をさらに強く抱きしめながら、不安そうに背後を振り返る。
「……ああ。完全に深海魚よりホラーな動きをしてるな。水族館というよりお化け屋敷に来た気分だ」
後ろを振り向くと、数メートル先。大きな麦わら帽子と、もはや接着力が死んで半分ぶら下がっている髭をつけたベージュのコートが、壁にへばりつくようにしてこちらを凝視していた。暗闇の中でも、サングラスの奥にある瞳だけが獲物を狙う深海生物のように鋭く光っている。
「……てかさ。夜凪、あそこ」
美月が指差したのは、メンダコの水槽の前だった。そこには「混雑時は立ち止まらないでください」というプレートがあるのだが、その髭の不審者はあからさまに俺たちの動きに合わせて立ち止まり、あろうことか懐から小型の録音機のようなものを取り出して、こちらの会話を拾おうとしていた。
「もう限界。春香、やって」
「えっ、何を?」
「物理的な正体開示」
美月の合図とともに、春香が「ええい!」とばかりに急反転して、背後の不審者へと突撃した。
「天ヶ瀬さんだよね!?もういい加減にしてよ!」
「……っ!?な、何を仰るのかしら。私は、通りすがりの……ダンディな中年男性……エドワードですわ!」
「声が思いっきり裏返ってるよ!あと、エドワードさんはトングなんて持ち歩かないから!」
春香の手が、陽葵の髭をガシッと掴んだ。ベリッ!!という、心なしか陽葵のプライドが剥がれるような音が、深海の静寂に響き渡る。
「……あ」
麦わら帽子が床に落ち、巨大なサングラスがずれる。そこから現れたのは、顔を真っ赤にし、怒りと羞恥心で今にも爆発しそうな聖女様の素顔だった。
「……ひどいですわ、夜凪くん。私をこんな、暗くて冷たい場所に置き去りにして、密室(観覧車)の続きを楽しもうなんて……!」
「……置いてきたのは、お前は今謹慎中だからだ」
「私は謹慎中の身でありながら、お母様の雷を潜り抜け、二階の窓から雨樋を伝って脱出してきた私の執念、少しは評価してくださってもよろしいのではなくて!?」
「(雨樋伝ってきたのかよ、こいつ……毎回斜め上いくのやめてくれ…)」
陽葵は剥がされた髭を奪い返すと、それをなぜか大事そうに胸元に抱え、俺に詰め寄ってきた。トングの先が、俺の鼻先数センチで震えている。
「夜凪くん、今すぐその女の腕から離れなさい。さもなくば、私はこの水族館のメインタンクに飛び込み、サメと共生する道を選びますわ!」
「……それ、共生じゃなくて捕食されるだけだよ。しらんけど」
美月が横から冷静に突っ込むが、陽葵の耳には届いていない。
「天ヶ瀬さん。夜凪は資料集めに来てるんだから、邪魔しちゃダメでしょ!私だって、一生懸命夜凪の力になろうとしてるんだから!」
「一生懸命?笑わせないでくださる?あなたのそれは、ただの浅ましい略奪にしかすぎませんわ。夜凪くんという汚れた真珠を磨き、その美しさを私だけのものにするのが私の正義なんですのよ!」
深海魚コーナーの狭い通路で、春香と陽葵が激しく火花を散らす。
俺はため息をつき、脳内のプロットに『聖女は深海の闇でさえも、その独占欲で塗りつぶしていく』と書き加えた。
「……もういい。そこまで来たなら、もう一緒に回れ」
「えっ」
陽葵の動きが止まる。
「ただし、不審な行動は一切禁止だ。トングも捨てろ。……お前がいた方が、むしろ『狂愛に翻弄される主人公』の描写が捗りそうだしな」
「……夜凪くん。……今、私と一緒に回ると、仰いましたの?」
陽葵の瞳に、パアァッと聖なる光が戻る。
「……わかりましたわ。あなたの仰せのままに。ですが、条件があります。……私の隣を歩くときは、必ず私のコートの裾を掴んでいなさい。あなたが、水流に流されてどこかの泥棒猫の元へ行かないように……!」
「(……俺が優位ではないんだ)」
結局、俺の右側に春香、左側に陽葵、そして後ろから「なにこの修羅場、美味しそう。しらんけど」と呟く美月という、この水族館の歴史上最も不気味な四人組が誕生した。
ただ、俺は思う。
「(この中で一番やばいのは美月なのではないだろうか)」




