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第25話:聖女様は、深海から亡命者を襲う

 電車のシートに身を沈め、ようやく一息ついた俺の耳にはいまだに陽葵の「行かないでぇぇぇ!」という絶叫が残響となってこびりついていた。右隣には窓の外を眺めて鼻歌を歌う春香、左隣には無表情でスマホの脱走報告(送信済み)を眺めている美月。


「……なぁ、相川。お前、さっき天ヶ瀬の親に送ったメッセージ、あれ本当か?」

「さぁ。でもあの家、母親が一番怖いって天ヶ瀬さんが()言ってたから。しらんけど」


 しらんけどで済まされるレベルの所業ではない。陽葵が家に戻された後の惨状を想像すると、少しだけ同情の念が湧くが、他人の家の前に土嚢を積んでモデルガンを構えていた女だ。自業自得という言葉がこれほど似合う状況もないだろう。


◇◆◇◆◇


「さあ!着いたよ!うみ水族館!夜凪、新作の舞台に使えそうじゃない?」


 春香が改札を飛び出し、眩しい日差しの中で腕を広げた。ここは都内でも有数の巨大水族館だ。薄暗い通路、青く光る水槽、そして音を吸収するような独特の静寂。確かに新作のプロットを練るには最適な場所だった。


「ああ。……悪いな、付き合わせちまって」

「いいってば!私も夜凪と一緒に来たかったし……あ、いや!資料集めの手伝いがしたかっただけだよ!」


 春香が少し顔を赤くして言い繕う。昨日以来、彼女の態度には時折、隠しきれない熱が混じるようになった。一方の美月は、入場ゲートを通るなり巨大なサメのぬいぐるみに目を奪われている。


「……夜凪。このサメ、天ヶ瀬さんに似てる。目が笑ってないところが。もしかしてついてきてたりして。しらんけど」

「おい、縁起でもないこと言うな」


 俺たちは館内へと足を踏み入れた。巨大な円柱水槽を回遊するイワシの群れ。その銀色の光を眺めながら、俺は脳内のメモ帳を広げる。

『聖女は群れから離れた一匹の魚を、愛おしそうに、けれど握りつぶすような力で水槽のガラス越しに指でなぞった――』


「……いい描写だ」

 俺が独り言を漏らし、次の水槽へと移動しようとした、その時だった。


 ――カチッ。


 聞き覚えのある、金属質の硬質な音が背後で響いた。それは、放課後の準備室で何度も聞いた、あのトングが噛み合う音。


「(……まさか。そんなはずはない)」


 陽葵は今ごろ、母親に捕まって説教の嵐にさらされているはずだ。そもそも、ここは俺の家から電車で一時間以上かかる場所だ。俺は恐る恐る振り返った。そこには、大きな麦わら帽子を目深に被り、顔の半分を覆うような巨大なサングラスをかけ、さらに鼻の下には立派な髭を蓄えたいかにもな不審者がいた。

 服装は地味なベージュのコートだが、その手には……隠しきれないトングが握られている。


「……相川、あれ」

「……不審者。通報レベル。しらんけど」


 その髭の不審者は、俺たちと目が合った瞬間、あからさまに動揺して隣のペンギン水槽の解説パネルを熟読し始めた。逆さまで。


「……待て。あれ、どう見ても陽葵だろ」

「ええ!?まさか、お母さんに怒られてるんじゃなかったの!?」

「おそらく、影武者を立てたか、あるいは無理やり逃走したか……。とにかく、あいつはここにいる」


 陽葵(仮)は、解説パネルを逆さまに読んだまま、じりじりとカニ歩きでこちらへ距離を詰めてくる。

 そして、俺と春香が少しでも近づこうものなら、サングラスの奥から黒い殺気が漏れ出しているのが分かった。


「……夜凪。実験していい?」

 美月が楽しそうに提案した。

「春香、夜凪の腕に抱きついてみて。ちょっと強めに」

「えっ、ええ!?そ、そんなの恥ずかしいよ……でも、資料のためなら……!」


 春香が意を決して、俺の右腕をギュッと抱きしめた。その瞬間。


 「ギ…ギギギギギ……ッ!!」


 解説パネルがミシミシと音を立てた。髭の不審者が、パネルを固定している金属製の枠を素手で引きちぎろうとしている。スタッフが「お、お客様……!」と必死に制している。


「(また晒されるぞ…)」


「あはは、夜凪!この魚、天ヶ瀬さんみたいに目が怒ってるよ!」

 春香は気づいていないのか、あえて煽っているのか、さらに密着を強める。


 つけ髭不審者――陽葵は、ついに耐えきれなくなったのか、ひしゃげた解説パネルをトングでコンコンと叩き、モールス信号のようなリズムで何かを伝え始めた。

『-・・・ ・-・ ・---・ ・・-・・ ・・ ・-・- -・・ ・・ ・・- --・- ---- 』


その解読結果は、おそらくこうだ。


『ハ・ナ・セ・ド・ロ・ボ・ウ・ネ・コ』


 水族館の幻想的な青い光の中で、俺は確信した。この女の独占欲を止めるには、親の説教ですら意味をなさないということを。


「……行こう。次は深海魚コーナーだ。あそこなら暗いし、撒けるかもしれない」


「……無理だと思う。あの人、暗闇だと目が光りそうだし。しらんけど」


 美月の不吉な予言を背に、俺たちは深海へと逃げ込んだ。しかし、背後からはピッタリと同じ歩幅で、カチカチというトングの音がついてくる。


 聖女の愛は、水深一万メートルの水圧よりも重く、執拗だった。

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