表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

木津川・泉橋寺

作者: 夏夢
掲載日:2025/11/14

 木津川・泉橋寺


 平安時代、都から大和方面へ南下する人々は、現在の京都府乙訓郡大山崎町付近で淀川を渡るか、現在の泉大橋付近(京都府木津川市木津)で木津川を渡るかして、大和国へ向かいました。

「泉大橋」という橋の名前にもその名残を留めていますが、木津川は奈良・平安時代には「泉川」と呼ばれていました。

 この古名は、大和道が木津川を横断する辺りの地名が「水泉郷いずみごう」であったことに由来します。

 初瀬詣の帰りに宇治に立ち寄った浮舟一行の中の女房が

「泉川の舟渡りも、まことに、今日はいと恐ろしくこそありつれ」(宿木巻)

 と語っているのは、この川を渡った際のことです。

 初瀬詣の道のりで木津川を渡る様子は、『蜻蛉日記』の中でも触れられています。木津川の北岸、泉大橋のやや北西に、泉橋寺があります。泉橋寺は行基建立の五畿内四十九院の1つで、天平十二[740]年(一説には十三[741]年)に行基が木津川に橋を架けた際、その供養のために創建したと伝わっています。行基がここに橋を架けたのには、聖武天皇による恭仁京造営に関わって、平城京と恭仁京との間の交通の便を確保する目的があったと見られます。ところが、木津川は氾濫の多い川で、その度に橋が流されて通行不能になってしまったことから、遂に貞観年間に現地の人々が泉橋寺に舟を施入し、渡し舟での渡河に移行しました(『三代実録』貞観十八[876]年三月三日条)。木津川の増水のことは、『蜻蛉日記』の2度目の初瀬詣での帰路でも「泉河、水まさりたり」(天禄二[971]年七月)と記されていますし、上に引いた宿木巻の女房の言葉からも、当時の木津川の水量の多さ、流れの速さが感じられます。(ただ、『蜻蛉日記』の同じ記事には、増水した川を渡る方法を相談する中で「例のやうにて、ふと渡りなむ」と言う男達と「猶舟にてを」と主張する女方のやり取りが書かれており、あるいは川の水嵩がある程度までなら渡れる浮橋のようなものも併設されていたのかもしれません)

 泉橋寺は、渡し場の維持・管理だけでなく川を渡る人々に宿も提供していたようです。『蜻蛉日記』安和元[968]年九月の初瀬詣での記事に「その泉川も渡らで、橋寺といふ所に泊りぬ。(中略)明くれば、川渡りて行くに、」とあり、泉橋寺で一泊して翌朝に木津川を越えています。

 泉橋寺だけでなく、対岸にも宿を取れる何らかの施設があったようです。『御堂関白記』長保元[999]年ニ月二十六日条には、翌日の春日詣で競馬を奉納するために乗尻(騎手)達を先に出発させて木津に宿を取らせた記事が見られます。泉川が登場する場面として最初に挙げた宿木巻でも、前日に着くものと思っていたのになぜこんなに遅れたのかと問う弁の尼に対して「いとあやしく苦しげにのみせさせたまへば、昨日はこの泉川のわたりにて」と語る女房の言葉が出てきます。浮舟の体調不良により前日の渡河を諦めて木津川の手前で宿泊した、という訳です。渡し舟の運行は自然条件に大いに左右されますので、天候や到着した時刻によっては川を渡れずに翌朝を待たざるを得ない旅人も少なくなかったのでしょう。

 現在は、国道24号線とJR奈良線のお蔭であっという間に渡れてしまう木津川ですが、京都と奈良を行き来する道すがら、ちょっと立ち止まってみたいポイントです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ