新婚旅行はフランスがいい
花瓶に、彼女が生前好んでいた紫苑を供えた。気が変になりそうなくらい焦がれたあの笑顔は、瞼の裏側で弾けるようにほころんでいる。
「おはよう、寝坊助さん……今日は一段とからだが乾いているね」
僕はいつもと同じように、ひしゃくで墓石に水をかけ、土の下ですやすや眠り続ける彼女との軽い世間話に興じた。一連の行為は非効率的で、何の意味も成さないことくらい、スパイとして日々、薄汚れた現実に身を投じてきたこの僕が、気づけないはずがなかったけれど。
この期に及んで、僕はいまだ、奇跡を諦め切れていなかったようだった。
たとえば西洋の子供じみたおとぎ話みたいに。僕が信じ続けてさえいればいつの日か、報われることもあるのではないだろうか、と。
そうしたら、彼女がずっと眠っていたのもきっと、不治の病を治すためで、ある日木陰からひょっこり顔を出して、あくびをしながらこう言うんだ。
「要さん、起こしてくれてありがとう。私、どのくらい寝ていたの?」
……そんな奇跡が起きないことくらい、とうの昔に知っていた。
気づけば僕は、返事のない墓石に縋り付いて、声を殺して泣きじゃくっていた。
鼻をすすりながら、まるで問はず語りみたいだ、と自嘲気味にひとり笑う。
僕は彼女に呪われた。だがそれも所詮、未練がましい男の独りよがりな妄想に過ぎないということだ。これ以上、ここにてはいけないと、本能がそう告げる。
「――必ずまた会いに来るから。その時までどうか待っていて」
笑顔という名の仮面を張り付けたまま、僕はあの日からぽっかり穴が開いたままの胸を押さえつけた。
今までうまく隠し通してきたつもりだったけれど、死に場所を探していたことを、周囲にいよいよ悟られてしまったのかもしれない。次の任務先は、フランスだった。レジスタンスの一員として、争いの激化した都市に潜入せよ、と上からのお達しで。
日本に生きて帰ってこれる保証なんてどこにもないというのに、僕はまた彼女にかなわぬ約束を取り付けようとしているのか。
いつもそうだった。僕はいつも、彼女のやさしさに甘えて、ひどい噓をつき続けてきた。『君の病気はきっと治る』だの、『世界で一番愛してる』だの、『この任務が終わったら結婚しよう』だの……。
性懲りもなく、根拠のない言葉たちを適当に羅列させるだけ。己の浅はかさが嫌で嫌で仕方がなかった。
「本当に、君にばかりつらい思いをさせて……」
決して届かぬ「ごめん」をその場に吐いて、僕はうつむく。
僕が死んだら。律儀に墓参りに通う人間がいなくなったら、彼女はきっと寂しがるだろう。もういっそ「むこう」で彼女と再会したほうが幸せなのかもしれない。
もし。
「もし、もう一度君に逢えるなら、僕は今度こそ――ずっと君のそばにいると誓うよ」
言葉通り、永遠に。
その時だった。脳裏にふと、一つの作戦が浮かんだのは。雷に全身を打たれたような衝撃に、呆然と立ち尽くす。
なんだ、最初からこうすればよかったんじゃないか。
一瞬、墓前の紫苑が、僕が今からしようとしていることを嗜めるように揺れたような気がしたが、「いやよいやよも好きのうち」という言葉がこの行為にますます拍車をかけただけだった。
がこっ、と音がした時、はしたなくも、口の中が唾液でいっぱいになってゆくのを感じた。
待ちきれず、両手を合わせる。
死地へと赴く、その前に。
僕は骨壺の蓋を、ひと思いに外したのだった。