9 薬
『私の手や服に何かがついていたんじゃないかって……?』
「はい。僕が実験器具を足に落として壊した日、イザベルが片付けてくれましたよね。その時、何かウミユリに反応しうる物質が実験に入り込んだ可能性が高いんです。あの時の状況を再現したい。あの日どんなものを持っていましたか? あるいは、服に何かついていたりしませんでしたか?」
朝になるとすぐにニコルは、休憩室に備え付けられている装置でイザベルに電話をかけた。ニコルの横にはエドガーがいて、通信装置を操作している。人魚警察に会話内容が盗聴されることが無いよう、特殊な回線を使って連絡をする必要があるためだった。
イザベルは電話口でしばらく黙って思案しているようだったが、やがて口を開いた。
『もしかしたら一つ、心当たりがある。すぐにその物質を持って研究所に向かう』
通信を終えて2人が簡単な朝食を食べて待っていると、一時間もしないうちにイザベルは秘密研究所にやって来た。化粧をしていないイザベルの顔立ちは、意外とあっさりしていた。
「もし違ったら少々面倒だけど、薬の開発が進む可能性があるならと思って持ってきた。幸い今は早朝で研究所には私たち3人しかいない」
イザベルは薬包紙に包まれた白い粉をテーブルに置いた。エドガーがひゅっと息を呑む。
「おいおい、こいつを持ってるのはなかなかマズいぜ。なんで薬開発の研究所で副所長が狂化薬なんてもんを持ってるんだよ?」
「これは危ない粉なんですか?」
「危ないも何も、闇市でしか取引されてない、人魚用の麻薬みたいなもんだ。ドーピング剤レベルマックスって感じだな。人魚のチンピラが喧嘩のために使う。命を前借りして強さを得ることを狂化と言うんだ」
ニコルは薬包紙を目の前に持ち上げて粉を観察する。見た目は粒が細かく、小麦粉と大差ない。口や鼻から摂取したり、水か何かに溶いて使うのだろうか。
「個人的に成分を調べたかった。人間には害はないよ」
「人間に害はないって言っても、シレーンにはどうかわからないだろ。ここにはシレーンの研究員がいるんだぞ。そんなものを触った後で研究所に来るなよ」
「ごめん。反省している。所持していたことを軽蔑されても仕方ない。でも、今はとにかく薬の開発のきっかけが欲しい」
イザベルは項垂れた。その姿は少しやつれているように見えた。
「この薬の成分は何ですか? 人魚をより人魚としてパワーアップする効果なら、人魚を人間に近くするウミユリとちょうど正反対の効果ですよね」
ニコルは粉を観察しながら冷静に質問する。
「高山の一部、標高の高いところにしか生えていない、白のヤマユリという花が主成分だ。一時的に人魚の心拍数を上げ、筋肉増強、反射速度強化、鱗の強度増強など、とにかく身体を強くする。副作用として、人魚化が促進される、知能が下がる、記憶の欠落などがある」
「ヤマユリ……」
大学でさらっと存在について教わったことはあるが、当然人魚を駆逐しようとしている政府がそのような情報を広めたいはずもなく、おそらく学校現場において情報統制が敷かれていたと考えられる。きっと、足りなかった情報はこれだ。ニコルは頭のどこかで、とうとうすべてのパズルのピースがそろったような予感がしていた。今すぐその直感を確かめたくて仕方ない。
「正反対の効能を持つ物質を合わせたら、何か新しい発見があるかもしれません。今すぐ実験してみましょう」
ニコルは勢いよく立ち上がって休憩室を飛び出していき、その後をすぐイザベルが追った。
「ったく、頭のいい連中はすげえよ。俺から見ればただのおっかないヤクなのに、他の物質と同じように素材の一つとして、躊躇なく薬に練りこみやがる……」
残されたエドガーはつぶやいた。
「へへ、ロドニー、あんたの悲願はとうとう叶うかもしれないぜ」
エドガーは通信機械を片付けながら、部屋を出ていくニコルの目がらんらんと輝いていたのを思い出した。
「で、できた……!」
それから早くも一週間後、ついに薬が完成した。研究員たちはほぼ研究所に泊まり込むようにして必死でヤマユリについて研究し、ウミユリとの最適な化合比率を割り出した。ウミユリとヤマユリをちょうどよい配分で、適切な温度管理の元加工し、いくつかの材料を加えた薬は、注射器に入れて静脈に注入する。計算上では人魚の鱗だけを溶かし、両足がひれとして結合するのを防ぎ、肺やその他陸上生活に適した内臓の退化を防ぐ。人魚の遺伝子に直接作用するため、一度の摂取で完全に人魚化をストップさせることができる見込みだった。すでに起きてしまった体の変化は、薬を打った後に手術など物理的に解決する必要がありそうだが、人魚化が始まって悩んでいる人や、将来人魚化する可能性を恐れている人にとっては申し分ない効果と言えた。
イザベルは汗だくになって蒸れていた実験用ガスマスクを外した。顔についたマスクの跡に、二日間徹夜を続けており、その間一度もマスクを脱がなかったという事実に今更気付く。想像していた何倍も良い出来栄えの薬だった。これから治験を通して、効き目や安全性の確認などしなければならないことは山積みではあったが、ひとまずは薬の設計図を完成させることができた。イザベルは膝の力が抜けてがくりとへたり込む。
「大丈夫ですか」
ケイシーが腕を掴んで支えてくれた。
長かった。この秘密研究所を作り、自らが被検体となってその身を差し出した所長、ロドニーとともに研究を始めてから、中断期間も含め実に長い7年という年月が経っていた。今、自分を支えてくれている研究員のケイシーも、この薬があればもう人魚化するかもしれないというわずかな可能性に怯え、その可能性が生活に落とす陰から逃げ続ける日常を送らなくて済む。
「本当に、よかった……」
「ええ、副所長、そうですね。これでたくさんの人間になりたい人魚が救われますよ」
ケイシーは歓喜と達成感に震えるまま、へたり込んだままのイザベルを抱きしめた。
ニコルは全てを出し切って燃え尽きた戦闘後の格闘家のように、満足気な表情で部屋の隅の椅子に座って、研究員たちが喜んでいるのを眺めていた。身体は限界なのか、壁に体重を預けるような恰好をしていた。




