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深海  作者: 岡倉桜紅
8/16

8 アイリーン

「何度やっても思うようにいかないんだ。前に一度、すごく上手くいったんだけど、それを再現しようとしても何かが違うみたいで」

 ニコルは水槽の中のアイリーンに言った。ニコルは毎夜、アイリーンのいる試料保管室に入り浸るようになり、二人は夜が更けるまでいっしょにレコードを聴くか、他愛のない話を交わすようになった。

「一度できたのにもう一度できないってことは、何か条件が違うんじゃない?」

 アイリーンは水槽の淵に腰かけて、ほぼ一つになった足だったものをゆっくりと動かしている。その少し離れた水槽の淵に梯子をかけ、ニコルは水槽の水の表面を手でいじりながら話をしていた。

 ニコルが初めて試料保管室に足を踏み入れた時から一か月以上が経っていた。ニコルの頭の中では薬の構想がほとんど出来上がっているのだが、ある実験結果を再現できないせいで、完成させられずにいた。

「そうだね。でも、できる限りの調整はしてるんだ。温度や湿度、風の流れや僕の服装のコンディションまで変えて試した。あの時みたいにガラスを落としたり、高さや勢いも変えた」

 ニコルは偶然うまくいった時の状況を何度も頭の中で再生する。

「もう一度足にわざと落としてみたりもしたけど、酷い火傷をしただけだった」

「痛そう」

 アイリーンはニコルの傷口をちらりと一瞥して言った。

「君の毎日の痛みに比べればなんてことはないよ」

 アイリーンは笑った。

「少し前は人魚を殺す研究をしていた人が、今はその知識で人魚を助けようとしてる。180度方向の転換だけど、どうしてこんなことしてくれるの?」

「それは……」

 この静かな部屋にいる時、ニコルは世界に自分とアイリーンの二人きりになったような気分にさせられ、すべてをさらけ出せる気がした。アイリーンはいつもニコルの話を静かに聞き、少し微笑んで考えた後、必ず何か返答を返した。ゆっくりと穏やかで、でも途切れのない言葉のキャッチボールが、ニコルの心を素直にしていた。

「今まで僕の世界には母さんしかいなくて、母さんがすべてだった。母さんから拒絶されたとき、僕の世界は一度終わり、僕は独りぼっちになった。でも君に出会って、僕のすべては今、君になったんだよ」

「独りでいることはそんなに悪いことじゃないと思うよ」

 アイリーンは静かに水中に沈んだ。そしてまた水面に顔を出す。ニコルの顔を正面から見つめる。

「誰かを愛すのは素敵なことだろうとは思うけれど、強いエネルギーでもある。向ける先が失われたエネルギーは全てを破滅に導くかもしれない。ニコルはお母さんを愛したけれどうまくいかなかったでしょう。愛はそれだけ強く心をかき乱すものなんだよ。だから私は少し怖い。燃えるような愛に比べれば、静かで冷たい孤独の方が好き」

「そんなこと言わないで。僕は独りぼっちの辛さも知っているけど、独りぼっちじゃない時の幸福も知ってる。僕は君の心が本当は寂しいんだってことを理解できる。君は昔の僕にきっと似てるよ。この狭い水槽から出られればその孤独は癒えるはずだ。僕は君のために薬を作るよ。僕は君を水槽から出してあげたい。君を救いたいんだ」

「レコードをかけて」

「レコード? 今僕は君に真剣に、」

「いいから」

 吸い込まれるような青の瞳に、ニコルはなすすべなく従ってしまう。レコードは回り出し、スピーカーからは『深海』が流れ出す。

「ねえ、完璧な孤独ってどこにあると思う?」

 アイリーンは水槽の中で踊るように身体を揺らす。クラゲのようにワンピースが揺れる。

「きっと、どこまで突き詰めても、この世には愛も友情も憎しみも関心もすべて取り去った完璧な孤独は存在しなくて、どこかで何かしらが混ざる。それはわかってるの。だからこれは私の中だけの祈りのようなもの。もしそれがあるとしたら、深海にあると信じてる」

「この曲で深海は美しい場所のように描かれているけれど、現実にそんな場所はないよ。フィクションだ」

 海は工場排水で灰色に汚れ切って、底まで濁っている。ニコルにはなぜアイリーンがこんな話をするのかわからなかった。君の孤独を救いたいのだ、と手を差し伸べているのに、その手から逃げるように孤独の方へ向かいたがる。浮かび上がれなくなるほど深くに沈む前に引き戻さなければ、とニコルは焦りに似たものをおぼえる。

「フィクションでもいいんだよ。海自体は誰でも波の上から見ることはできるけど、水圧に阻まれて誰もそこに行くことができない暗くて穏やかな場所。本当にあるかもしれないし、同様に無いかもしれない。誰も行ったことが無いから確かめようがない。だからこの祈りは天国の存在を祈るようなものなのかも。下に落ちていくからあるいは地獄かな。私はこの曲を聴いた時から、深海を夢見ているの」

 語るアイリーンは、どこか超自然的な美しさを帯びていて、ニコルは目を逸らすことができなかった。もしかしたら、死期の近づく生き物が、最後に命を燃やすような迫力がそうさせるのかもしれなかった。ニコルは何か言おうと口を動かすが、言葉が出てこなかった。

 アイリーンはやにわに歌い始めた。魔法にかけられたかのようにニコルの頭はぼうっとして、何も考えることもできず、美しさの暴力に溺れさせられていた。

 ふと気づくと、ニコルは梯子から転がり落ちて、水槽の前に尻もちをついていた。

「怪我は?」

「尻を打っただけ。大丈夫」

 ニコルはぼんやりとした頭を振りながらよろよろと立ち上がった。膝に上手く力が入らず、またしゃがみ込む。

「私が深海を夢見ていること、わかってくれた?」

「ああ、わかったよ。でも、……僕は君の孤独を絶対に見捨てない。必ず君を救うよ」

「そう」

 アイリーンは無表情で言った。その顔はどこか少し不機嫌そうにも見えた。

「今日はもう休むよ。おやすみなさい」

「おやすみなさい。また鱗が生えてきたからイザベルによろしく」

 ニコルは試料保管室を後にした。分厚い扉を閉めた時、急にニコルの頭に電流が走るようなひらめきがあった。そういえば実験が上手くいったとき、あの場にはニコル以外にイザベルがいた。イザベルが何か実験に要素を加えたからあのとき奇跡的に上手くいったのではないだろうか。

 居てもたってもいられず、ニコルは走って研究室に戻り、ノートにその気づきを書き込んだ。明日にでもイザベルに連絡して実験をし直してみようと決めた。今度こそ大きなブレイクスルーができるかもしれない。頭が興奮して、布団に横になってもなかなか寝付けなかったが、微かに響いてくるアイリーンの歌声に耳を澄ませているうちに深い眠りへと落ちていった。

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