7 ロイ
イザベルは自宅アパートのドアを開けた。やや建付けが悪いそのドアは、開閉時に少々コツがいった。帰り道で日用品の買い物をしてきたので、ドアを開けるためにいったん足元に置いていた紙袋を抱え上げる。天気に関わらず常にじめじめとかび臭い廊下は、数秒しか置いていないのに紙袋の底面を湿らせていた。
「おかえりなさい」
後ろから声がして振り向くと、隣の部屋に住む青年だった。糊のきいた白いシャツとスラックス、シンプルな身なりに不釣り合いなほど高級そうな革靴を履いている。さらりと無造作に流した墨よりも黒く癖のない髪と、細くて色白な肌が、不健康そうでもあり、同時に不思議にも清潔感に似た雰囲気を醸していた。
「ロイ、そちらこそ。あなたが外に出ていたなんて珍しい」
「珍しく雨の降ってない夜だったからね。その辺を散歩してきたんだ。散歩しているといい曲ができる時がある。ところで、前渡したあのレコードはどうだった?」
「『深海』ね。とても気に入っていたよ。1か月以上ずっとそればかりを聴いてる」
「へえ、そう」
どこかつまらなそうにロイは言った。
「最近はどうなの?」
「先週、大陸経由で仕入れたサボテンが枯れたんだ。湿気が多すぎるっぽいね。水を与えすぎると腐ってしまう、常に乾いた状態じゃないと生きていけない植物もいるんだ。あと、ベランダで育ててる月下美人がそろそろ咲きそうで楽しみだね」
ロイは観葉植物を育てることが趣味だった。古今東西の植物を狭いワンルームのアパートに詰め込むようにして育てている。ロイの部屋はほとんど植物園のように緑で覆われていた。
「植物のことじゃなくて。作曲活動のこと」
「ああ、そっちね。正直最近は駄作ばかりで、しょうがないから過去に作ってまだマシな出来のものをレコード会社に持ち込んで食いつないでる。レコード会社の連中は売れればなんでもいいと思っているから、本当の価値なんか興味が無さそうだ。ところで、イザベルは最近忙しいの? ちょっと痩せたね」
「担当している患者の症状が悪化しちゃって。今が正念場なんだ」
イザベルは外面的には医者として大学病院の研究部門に属していて、日夜難病の患者への治療方法を研究しているということになっていた。まだ珍しい部類であるパンツスタイルの女性が毎日紙の束を抱えて出かけ、大抵は夜遅い時間に帰ってくるという状況をうまく説明できる設定だった。多忙な医療従事者という仮面は都合がよかった。
「そっか。僕の作る曲にもう少し明るくて生命賛歌みたいな曲があればよかったんだけど。如何せん、最近は何を作っても僕の音楽が矮小に見えて仕方ない。所詮、天才の二番煎じという感覚が抜けない」
ロイは最後の方はぶつぶつとつぶやくように言った。このカモフラージュを始めてから、患者はレコードを聴くことが趣味で、ベッドの横にあるレコードでいつも音楽を聴いているという設定が付け加わり、この作曲家の隣人から自作のレコードをたまに手渡されるような関係になった。職場で流し、感想を伝えるというゆるやかな交流が続いていた。
「いや、『深海』がずいぶん気に入ったみたいだから病床での退屈については大丈夫そう。心配しなくても十分素敵な曲だと思う。またレコードを作ったら聞かせてくれるとうれしい」
「たぶん僕は耳が肥えすぎてしまったのかもしれないな。作曲の実力とアンバランスなほどに。もしこのスランプを脱却できたら、そのときは喜んであげるよ」
「おやすみなさい」
「うん、おやすみなさい」
イザベルは部屋に入ってドアを閉めた。暗いキッチンに紙袋を置く。
ふいに電話のベルが鳴った。イザベルは反射的に身を固くする。こんな夜遅くに電話をかけてくる相手は一人しかいなかった。イザベルは玄関の鍵がかかっていることを確認し、ベッドサイドのチェストに置いてある電話から少し震える手で受話器を掴んだ。
「はい、イザベル・エイジャーです」
『もしもしこんばんは。元気かな?』
聞き覚えのある声に鳥肌が立つ。声が震えないように努めて一本調子で答える。
「今日の鱗は送った。何の用?」
『いやあ、今日でとうとう契約から2年が経ちましたよというお知らせをしようと思いまして。2年も生き延びさせるとはなかなか頑張っているようではないですか。いや、人魚化が始まってから数えたらもう3年になりますね』
「疑っているの? 人魚の鱗は体から離れると時間経過で劣化していくけれど、本人が死なない限り泡になって溶けることはない」
電話先の相手は下卑た笑い声を立てた。
『いやいや、疑ってるなんてそんな。ただ、ずいぶん長生きだなあと思っただけじゃないですか。もしかして、もう薬は完成してるのではないですか?』
「一時的な延命を繰り返しているだけ」
イザベルは話しながらチェストの抽斗を開け、中にしまっていたピストルを手に取る。ざらついたグリップを握ると重厚な鉄の塊の重さが手に伝わってきて、いくらか鼓動が落ち着く。
『そうですか。まあ、こちらとしては貸借期間が長引けば長引くだけ得というものですから、実験道具として苦しんでる人魚のお嬢さんには悪いけれども、うれしいことです。研究費をかければかけただけいい薬もできるってものでしょう。融資している立場からしてもありがたいことです。ただ、』
イザベルはごくりと唾を飲む。
『あなたの借金はもう、庭付き豪邸2つと、おまけの車まで買えるほどになったとお伝えしておきます。まさかこれを聞いてバックれようなどと夢にも思わないように。ここまでの金額となると逃げられたら困りますから、厳重に見張らせてもらいます。あなただけじゃなく、研究員の皆さんの顔も、うちらは把握してるってことをお忘れなきように。人魚警察に名簿を提出することも容易いのでね』
どんなに社会的に薄暗いところにも、需要があるところにビジネスは存在する。人魚を救う活動者に融資してくれるまっとうな金融機関など当然存在しない。ゆえに、秘密研究所を運営するためには、多少条件が悪くとも、人魚警察へのリスクを飲んで金を貸してくれるようなところと契約しなければならなかった。
「逃げないよ。契約通り、被検体Iの死と同時に借りた金の倍額を即返金する。死後十日で一割ずつ利息が増すこともちゃんと覚えてる」
『そうですか。薬が売れるといいですね。それじゃ、その時までよろしくお願いいたしますね。それでは、おやすみなさい』
ぶつりと電話が切れる。イザベルは腰の力が抜けてベッドに座り込んだ。ピストルのレボルバーを確認する。六つのシリンダーにはすべてきちんと弾が込めてあった。




