5 秘密研究所の日々
「この秘密研究所にはだいたい十数人くらいのメンバーがいて、日々薬を練ってる。ここだけじゃなくていくつか別の場所に支店みたいな感じで拠点があって、定期的にメンバーが入れ替わったり、人魚警察の手が伸びてきたら研究資料を移動させたりしてる」
モーガンはダイアル式の分厚い扉の金庫を開けて、中から古びた革張りの本を取り出した。本のように見えたが、表紙をめくると中がくりぬかれていて、注射器が一本と丸めた紙束が入っていた。
「これは現時点で一番いい出来の薬とその調合方法だよ。定期的にこれを更新して、いざという時はこれ一冊を持ち出せばなんとかなるようにしてある」
モーガンはまた金庫にそれを大切にしまいなおした。
「ほかの拠点はどこに?」
「俺もよく知らされてはないけど、海沿いの地域だと思うよ。大陸の方にもいくつかあるって聞いたことがある。海沿いなら人魚の遺伝子を持つ人たちが作っている集落、まあ多くはスラムだね、そこにアクセスしやすいから」
「遺伝子を持つ人、いや、人魚? がスラムでまとまって住んでいるんですね」
陸上の人魚は大昔からいるのだし、人魚のネットワークや集団があることは考えてみれば自然なことだった。
「彼らは完全な人魚のマーメイドに対してシレーンって呼ばれてる。半人魚って意味。こういうアングラな研究所とかならいいけどあんまり街中では使わないほうがいいかな」
「差別的だからですか」
「ううん、彼らは別に気にしていない。でも、人魚警察にとっては、人魚の血が少しでも入っていればそれは人魚であり、粛清対象でしかないから、人魚とシレーンを使い分ける人を嫌うんだ」
モーガンは金庫のある部屋を出て、次の部屋にニコルを案内する。
「ここがメインの研究室。この部屋は常に温度や湿度が管理された環境で、あそこに置いてある機械は24時間稼働させる必要があるから気を付けてね。この部屋の隣にも同じような第二研究室があるよ。その向かいには資料が置いてある図書館みたいな部屋」
研究室には数人の白衣を着た人が作業をしていた。真剣に試験管を振って中身を観察したり、何かを顕微鏡で熱心に観察したりしている。部屋の奥に大きめの水槽があり、そこには収穫されたウミユリが保管されていた。
「今、黒のウミユリの加工方法がネックなんだ。深海で採れるけれど、今の技術力じゃ深海の環境を再現できない。すぐに傷んで悪くなってしまうから常に新鮮なウミユリを入手し続けなければならないんだ。僕は材料の調達担当だけど、入手ルートは複雑だから骨が折れるよ。たぶん、ニコル君にはまずその課題を解決する役目に任されると思う」
研究員たちは会釈をしたり手を振ったりしてニコルに挨拶した。
「ここのメンバーはみんな優しいし、気さくな人が多いから安心して」
ニコルはぎこちなく彼らにお辞儀を返した。
その後、トイレとシャワールームの場所を説明された。
「トイレはちゃんと流すように! あと、臭いから三日に一度はシャワーを浴びること! って、ニコル君はその点大丈夫そうだね」
「三日以上シャワーを浴びずに耐えられる人がいるんですか?」
ニコルはあからさまに顔をしかめたが、モーガンは軽く流す。
「いるんだな、それが。研究に夢中になるとそれ以外のことを全部忘れるような研究オタクがね。さて、研究所の部屋紹介ツアーはこの辺で終わりかな」
「あの扉はなんですか?」
ニコルは廊下の一番奥にある、重厚そうな金属の扉を指さした。
「ああ、あれは試料保管室。薬の材料を保管してる。副所長であるイザベルの許可がないと入れない。ニコル君もいずれは入ることもあるかもしれないけど、今日はやめておこう」
「わかりました」
「休憩室に戻って昼食でも食べようか。新しい眼鏡が届くまでは何かと不便でしょ。今日のところは休憩室でのんびりしてるといいよ」
眼鏡に関しては、数日中にイザベルが新しく買ってきてくれるという話だった。ニコルはモーガンの後を追ってその扉に背を向けたが、一瞬微かに音楽のようなものが耳をかすめたような気がして振り返った。
「……気のせいか」
ニコルは急いでモーガンを追った。
それから一か月ほどでニコルは少しずつ秘密研究所に馴染んでいった。研究所のメンバーは皆、ニコルのウミユリに関する知識に興味津々で、たびたび図書室で勉強会が開かれた。ニコルはウミユリを海水よりも少し濃い塩分濃度で保管する方法や、乾燥や凍結による加工方法を次々と試した。ニコルの大学の研究室では、いつも新鮮なウミユリを簡単に入手できていたため、このような工夫に頭を使うのは初めての経験だったが、今まで培ってきた生物学的知識も手伝い、驚くほど上手くいった。
「私は大学に行っていなくてそういう専門知識が無かったからすごく勉強になるよ」
研究員の女、ケイシーがニコルに言った。かなり長いことここで研究をしている研究員で、頭の回転が速く、勉強会でもいつもするどい質問をしていた。休憩室でたまたま休憩のタイミングが同じだったので、一緒にお茶を飲んでいた。
「大学を出てないんですか? その割に製薬の研究をしているなんて信じられません」
「ニコル君、学歴厨なところ出ちゃってるぞ~。君、時々ノンデリな発言するよね」
「すみません。母の影響で勉強しかしてこなかったので」
「いやいや、怒ってないよ。母の影響って言うなら私もそう。母型のおばあちゃんがシレーンで、人魚の血が混じってるの。家柄を隠して暮らしてたから学校とか無理だったんだ」
「そうだったんですね」
「学校、行ってみたいなって子供のころはずっと思ってた」
「そんなにいいところでもないと思います」
ニコルは爪先とペン先ばかり見ていた学校生活を思った。学校にいるときは周りの人の顔など見たことがなかった。この秘密研究所に来てからニコルは人生で初めて、対等に意見を交わして議論することを覚え、人の顔を見て覚えられるようになった。今までニコルの視界には母と教科書の活字しかなかったが、そこを彩るように様々な人間が入り込んだ。ニコルは何かの集団の一部になって動くことの充実感を学んだ。一つの歯車として役に立ち、全体の目標のために必要とされる経験は、生まれて初めてだった。
「僕はここで研究している日々の方が充実していると感じます」
「人は皆、自分の手に入らないものを欲しがるものだもんね」
ケイシーは微笑むと休憩室を出ていった。ニコルは手の中のカップを見つめる。冷めた紅茶の底に細かい茶葉が見えた。
秘密研究所に来てからの一か月間、ニコルはまだ一度も地上に出ておらず、引きこもるようにずっと地下で生活していた。母はあの後冷静になり、失踪した愛する息子の捜索願を出したのだろうか。それとも、父親の代わりになれず、母を満たすことができなかった役立たずの息子が消えて清々しているのだろうか。
ニコルは残った紅茶を流しに捨てて研究室に戻った。ウミユリを茹でて加工する実験の途中だった。頻繁に温度計を確認して溶液と混ぜ、人魚の鱗に落として反応を観察する。
もし発表会であんな真似をせず、ただ欠席するだけに留めておけば、論文未提出で留年することはあっても、母から追い出されるところまではいかなかったのではないか。研究所での日常に満足しているはずなのに、定期的に湧き上がってくる思念がどうにも邪魔だった。何を思おうとも、もう以前のようには戻れないのだ。ここで自分の知識を活かしながら貢献する以上に理想的な生き方など、到底思い浮かばなかった。
ガチャン、と足元で音がした。ワンテンポ遅れて熱いという感覚が来る。ぼうっとしていてビーカーを足の甲に落下させたのだった。ガラスが飛び散り、検体であるウミユリがぐちゃぐちゃになって床に落ちた。さらに悪いことに、肘が机に当たって今日の実験用に用意していた人魚の鱗も全て床に散らばった。
それを見た途端、一瞬で身体中から変な汗が噴き出す。ウミユリを入手するのは非常に困難で、一つも無駄にできない。ましてや、個人的な物思いにふけっていて貴重な検体を駄目にしたとなると、取り返しがつかないことをしてしまった。ウミユリの扱いの知識に長けたニコルを信頼して皆が実験用のウミユリをニコルに多く回してくれているのだ。その信頼を裏切り、自ら居場所を無くすようなことは絶対に許されない。ニコルは慌ててそれをかき集めようとしゃがみこんだが、その腕を誰かが掴んだ。
「今すぐ溶液がかかったところをシャワールームでよく洗って冷やして。この片付けは私がやるから」
見上げるとそこにはイザベルがいた。冷静で有無を言わさない指示にニコルの頭の中のパニックは収まり、ニコルは素直に頷いた。
シャワールームで十分に洗い流し、着替えて研究室に戻ると、床は元通りに掃除されており、イザベルが実験装置を観察していた。
「すみません、貴重なウミユリを……」
「怪我は?」
「軽い火傷だけです。もう赤みも収まったので大したことはありません」
「それなら良かった。別に失敗についても気に病まなくていい。実験室における失敗はどれも意味がある。成功への大事な材料だよ」
「しかしこれは成功につながる失敗ではなく、完全に僕が集中力を欠いていたせいで招いた事故です。本当にごめんなさい」
頭を下げるニコルの目の前にイザベルは何かを差し出した。それは、半分になった人魚の鱗だった。人魚の鱗は透明で少し青みがかっており、鋭く硬く、ちょっと力を加えたくらいでは決して割ることができない。その鱗が半分になっている。溶剤に触れたところが溶けて消えたようだった。
「さっき実験していた温度で熱を加えると効果が良く出るようだね」
ニコルははっとしてノートに飛びつく。先ほどの設定環境を見直す。これは大きな発見だった。興奮して、夢中で先ほどの様子をノートに書き込んで記録した。
「言ったでしょう、実験室において失敗なんてない。私は間違えないあなたを信頼しているから、どんどん挑戦してほしい」
「ありがとうございます」
「それじゃ、その温度でさらに実験を続けてみて。私はこれから鱗を取ってくるから」
イザベルは踵を返した。
「そういえば、人魚の鱗やひれってどこから入手しているんですか? ウミユリはかなり入手困難ですぐに不足するけれど、鱗に関しては不足したことがありません」
ふと疑問に思ってニコルは聞いた。鱗という試料は、他の試料に比べていつでも潤沢に用意されていた。
「見る?」
イザベルが振り返る。
「見たいなら見せてあげる。鱗を採取するところ」




