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深海  作者: 岡倉桜紅
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4 秘密研究所

「後できちんとした部屋を借りてあげるから、当面の間はここで寝泊まりしてほしい」

 女はボイラー室の横の物置を片付けながら言った。華奢な体格のわりに、トレーニングでもしているのか、筋肉はついており、机に座って本やペンしか持ってこなかったニコルよりも力がありそうに見えた。狭くはあったが、クッションと寝袋で何とか横になれそうなスペースはある。

 女はニコルの手を引いて、海沿いから街へ戻り、背後をしきりに気にしながらくねくねと細い路地を進み、元工場らしきさびれた廃墟に連れて来た。廃墟にある階段を下りると、急にリノリウムの廊下と、ところどころに換気扇が設置された、近代的で綺麗な壁が現れた。そして、廊下をいくつか曲がり、この物置にたどり着いたのだった。今二人がいる物置と一枚の壁を挟んだボイラー室は、深夜だというのに稼働していた。

「ここでは何の研究を? あ、ええと」

「ごめん、自己紹介がまだだった。私はイザベル・エイジャー。この研究所の副所長をしてる。研究の内容については良く寝てからまた明日話そう」

 イザベルは毛布と服をニコルに渡した。服は薄い緑色で、三か所に紐がついていてそれを結ぶタイプの上着と、同じ色のズボンだった。いわゆる手術着である。

「今日のところはこれに着替えて。寒かったらボイラー室側の壁に身体をくっつければ多少マシになる」

 イザベルは物置部屋を出ていく。

「それじゃ、おやすみなさい」

 ドアが閉まった後、出会ってから初めてイザベルが微笑んでいる顔を見たことにニコルは気付いた。

 ニコルは濡れた服を着替えてすぐに横になった。身体中が冷え、痛んでおり、限界が近かったので、長い話は明日にして正解だったのだと悟る。言われた通りにボイラー室側の壁に背中をくっつけると、微かに温かさがあった。機械が動く音がそこそこ大きな音で鳴っていたが、ニコルはすぐに眠りの世界に落ちていった。

 夢と覚醒の狭間を漂っている時、ニコルは音楽を聴いたような気がした。深い海の底から静かに響いているような今までに聞いたことがないような美しい旋律。身体を全方向から包み込む羊水の中を漂うような、柔らかく大きな誰かの腕に身体を預けているような、どこまでも穏やかな感覚に身を任せていた。ニコルはどこまでも深く眠りの中に沈んでいった。


「おはよう!」

 ニコルの意識は、はじけるように溌剌な挨拶によって一瞬にして覚醒した。目を開けると、若い男がニコルの顔を覗き込んでいた。

「今、何時ですか」

 体感的に寝すぎた自覚があった。学校に遅刻する、とニコルは慌てた。

「10時だよ。焦らなくても学校が無い時くらいゆっくり遅起きしてもいいと思うよ」

 レンズが片方だけの眼鏡をかけて回りを見まわすと、昨日の記憶が戻って来た。思わずため息が出る。

「ニコル君だっけ? 俺はモーガン。君のことはイザベルから聞いてる。今日は俺がこの研究所を案内して、研究員の皆に紹介する。そして、君がここで快適に過ごせるようにするのと、君の力をいかんなく発揮できるように用意をするよ」

 モーガンは古びた懐中時計の蓋をぱちんと閉め、白衣のポケットにしまった。ニコルに爽やかな笑みを向ける。モーガンはおそらくニコルよりいくつか年下のように見えたが、ニコルはあまり同世代の人間とまともに接した経験がなかったので、モーガンの体中からみなぎる生命力のようなものに圧倒され、目を白黒させた。

「立てるかい?」

 モーガンはニコルに手を差し出し、引っ張り起こした。そのまま廊下に出る。地下の研究所なので、夜昼関係なく常に電燈の灯りで照らされており、空の様子で時間を知ることはできない。

 モーガンは一つの部屋のドアを開け、ニコルを招き入れた。その部屋は簡易的なキッチンと、L字のソファーが一つ置いてある部屋だった。ソファーには汚れた作業着を着た中年男性がいびきをかきながら眠りこけている。真ん中のテーブルにはレコードプレイヤーといくつかのレコードが置かれていた。

「ここは休憩室。研究に疲れたらここで休む。基本的にここにあるものは何でも食べていいけれど、食べて無くなったらそこにある買い物リストに追加してね。手の空いた人が買い出しに行くから。レコードも自由に聞いて。で、そこにいるのはエドガー。そいつを退かしてくつろいでて。今朝食を用意するよ」

 エドガーはソファーの座面を贅沢に使ってだらしなく寝ている。汚れた白衣と数ミリ伸びた髭から、しばらくシャワーを浴びていないことがうかがえた。ニコルはエドガーの身体を少し押しやって尻を乗せるスペースを作った。エドガーはうめき声を上げ、眠ったままでまた同じように戻ってくる。ニコルは座ることができず、今度はもう少し力を入れて押し返した。

「いでっ」

 エドガーはソファーからどすんと音を立てて転がり落ちて目を覚ました。後頭部をさすると、白いフケが舞った。

「なんだよ気持ちよく寝ていたのに」

「あ、エドガーさん、おはよう。彼はニコル君と言って、今日からメンバーになったんだ。挨拶してやってよ」

 モーガンは器用に三つのボウルを運んできた。オートミールが入っている。

「初対面にしちゃなかなかハードな挨拶だな」

「はは、物理的に退かすなんてニコル君もなかなかやるね」

 エドガーはニコルに笑って手を差し出す。

「俺はエドガー。ここではボイラーの管理や人魚の水槽の整備とかエンジニア一般をしてる。よろしくな」

「ニコル・エバンスです。どうもよろしくおねがいします」

「素敵な眼鏡だな」

 オートミールはやや水っぽい牛乳に浸されており、少々味気なかったが、量はたっぷりあり、食べ終わるころにはニコルはお腹いっぱいになった。モーガンは食器を片付けに行った。

「ここでは人魚の研究を? 僕のウミユリの研究に興味を持ったとイザベルが言っていたけれど」

「ああ、ここでは人魚を助ける薬を開発してる。お前の研究対象だったウミユリに俺たちは今すごく注目しているんだ。これを使えばやっと陸上の人魚を残らず救えるかもしれない。だから、ウミユリの知識や扱うノウハウを持った人材をずっと探してきた」

「人魚を助ける?」

 聞き捨てならない単語に、ニコルは話を遮る。

「え、知らないで入って来たのか? 陸上の人魚は人魚化で苦しむ。人魚に変化する前に薬を使って、人魚を人間にすることで救うんだ」

「人魚を人間に? 人魚は人間と似た容姿をしているけれど、人間じゃない別の生き物だ。それに、そんなことをしたら人魚警察が黙っていないでしょう」

 人魚警察とは、近海の国々で大昔から存在している人魚駆逐を目指す組織だった。人魚という化け物を忌み嫌い、人魚を地獄の使者とする教義を掲げる宗教団体が母体で、一部武装している。彼らは大昔から現代までずっとマリドールを整備し、海に毒を撒き、陸上の人魚を見つけては殺すことで、人間の社会を派手に目立つことはないが、裏側からこっそりと守ってきた。今でも時々人魚が出たというニュースを耳にすることがあるが、人魚警察が処理しているのだ。人魚から必死に人間を守ろうとしている彼らにとって、人魚を守ろうとする人間も当然、脅威である。人魚のためになるような行為や研究は人魚警察に見つかれば即粛清されてしまうだろう。

「もちろん、人魚警察に見つからないように細心の注意を払ってるさ。俺たちも死にたくないからな。研究員は、ある意味で社会生活から切り離された生活を送っているやつらばかりだ」

「どうしてそこまでして人魚を守る活動を?」

 エドガーはここまで自分が話してしまっていいのだろうか、というような逡巡を見せ、ちらりとモーガンに視線を送る。皿洗いを終えてキッチンの方から様子を見ていたモーガンは軽く頷いた。

「ニコル、お前は本物の人魚に会ったことはあるか?」

 ニコルは首を振る。

「そうか。じゃあわからないかもしれないが、人魚は人間とは違う化け物なんかじゃない。人間と同じ意思を持った人だ。陸上の人魚は、生まれた時から人間と同じ容姿で、人間の社会で育って、急に人魚化が始まって苦しみ、差別される。人魚と人間のハーフの場合、人魚化が起きるかどうかは確率だし、自分が人魚かどうか知らないまま大きくなる子供もいる。どうだ? 人魚化は病気のようなものだと思わないか?」

「そう、かもしれません」

「俺たちの考え方に賛同できないならメンバーになる必要はない、出て行ってもいい、と言えればよかったんだけどな。イザベルの中ではどうやらお前を引き入れることは確定していて、お前に選択権など与えなかったようだな」

 ふう、とエドガーは息をつく。その通りだった。ニコルはもう大学には戻れないし、帰る家も無い。

「イザベルは最近どこか焦っているようにも見える。被検体Iの人魚化が早まっているのがストレスなのかもね」

 モーガンはつぶやくように言った。

「それで、僕はここで役に立てるんでしょうか」

 ニコルはおずおずと一番気になっていたところについて聞いた。エドガーとモーガンは顔を見合わせる。

「うん、もちろんだよ。君が今まで研究していた内容はものすごく俺たちの救けになる。君が協力してくれたらものすごくうれしい」

「そうですか。ならよかったです。ぜひ僕をここのメンバーに入れてください」

 二人はぱっと笑顔になった。

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