3 イザベル
「あんたなんかに学費を払って、洋服を買って、毎食料理を作っていた私が馬鹿みたい。勉強だけに集中できるようにその他全てのことはあんなにやってあげたのに! 恩を仇で返して恥ずかしくないの? 私の息子はエリートなの! エリートは常に勉強が一番できるの! 賞を取って国に認められて立派で誰もが知るすばらしい学者になるの! ならないとおかしいの! あんたなんか息子じゃない。私の息子はこんな出来損ないじゃないわ!」
母の金切り声がニコルの頭の中にこだまし続けていた。研究の盗用は重大な刑事犯罪にあたるため、あの公的な場での告発に対して、大学側は嫌でも警察に連絡して調査を進めることだろう。しかしニコルは警察や大学には期待しなかった。十中八九もみ消される。ニコルの社会的名誉が復活する希望は皆無だった。
しかし、ニコルには自分の社会的名誉などは正直、家を追い出されたことに比べればどうでもよいことだった。ニコルはふらふらと街を歩いた。また灰色の霧雨が降っていた。母は論文発表会の後、髪を振り乱して怒り狂い、公的な場所で恥をさらした息子を金切り声で責め立てた。いつも綺麗に整頓されているキッチンの物を手あたり次第にニコルに投げつけ、ニコルはアーロンにつけられたものよりも多くの傷を負った。テーブルはひっくり返り、ポットと皿のほとんどが粉々になり、ジャムや瓶詰めは一つ残らず床に転がり、椅子の足が一本折れた。
「あんたが立派な学者にならなきゃ、私の教育が間違ってたってことになるでしょ? あの人に認めてもらうにはあんたしかいなかったのに! これじゃもうお終いだわ。最低。悪魔だわ! 私の時間を、あの人を返してよ! できないなら出て行って。もう二度とあんたみたいな出来損ないの顔を見たくない!」
ニコルは街をあてもなく彷徨い、人気のない海沿いの道に出た。港以外の海沿いには工場地帯が広がっており、そびえ立ったいくつもの煙突からは黒々とした煙が絶え間なく吐き出されていた。もう、自分を迎え入れてくれる温かい家は無い。身体を包み込むような甘美な紅茶の香りも、脳がしびれるような賞賛と期待の言葉ももう聞くことはできない。その事実が何よりも深くニコルを絶望の暗闇に突き落としていた。細すぎる雨は音も無く、しんとした街に降り注いでいた。
歩きすぎて足が痛くなってくる。日が落ちて文字通り世界が暗くなり、頭上でガス灯が灯った。眼鏡のレンズが片方無いので、視界の中でガス灯の灯りが何重にも重なってにじんだ。この日のために買い与えられた上等なジャケットは雨でぐっしょりと濡れて色が変わっていた。金は持っていないし、当然頼れる人間もいない。ふかふかのマットレスと清潔なシーツの上でしか寝たことが無かったので、ニコルは途方に暮れて立ち止まった。霧雨で霞んだ海面を、灯台の光が照らしていた。マリドールという海中の壁があるため、風の無い夜の海は静かに凪いで、灰色にのっぺりと広がっていた。
まるで寝室のシーツみたいだった。いつもしわ一つなくベッドメイクされ、微かに柔軟剤の匂いがするあのシーツのようだ。ニコルはふらふらと海のほうへ近づいた。ああ、まだ今日は勉強していない。でも、特に今日やるべきものも思いつかないし、今日は疲れたから気持ちのいいベッドに倒れこんでもう寝てしまおう。
「早まらないで」
背後から突然声がしてニコルの身体はびくりと震えた。気づくと自分の足は、灰色の海へ飛び込むまであと一歩というところにあった。
「海面までそこそこ高さはあるけど死ねるほどじゃない。それにここは工業廃水で汚い。骨折と変な病気で苦しむことになるよ」
ニコルの目にはよく見えなかったが、襟のあるシャツを着て、すらりと長い脚はスラックスを履いていた。シルエットだけなら一見、華奢な男かと見間違うが、透き通るような玲瓏な声色で女性とわかる。
「ニコル・エバンス君で間違いないかな」
急に自分の名前を言われてニコルはたじろぐ。
「私は今朝の論文発表を見ていた。アーロン・ベイカーの発表が非常に気になったけれど、その後にあなたが出てきて、その研究は盗作だと言った」
最近の流行として、アカデミアの世界の、主に若い女性はスカートではなくパンツスタイルを好む。女性というだけで学問の内容に差別的な視線が加えられるようなことはもっと昔に無くなってきているが、視覚的な平等性や、単純に実験などをやりやすくする工夫からだろう。ニコルはこの女が学者か研究者か、とにかく学問のなんらかの領域に関わっていることを納得した。
「僕に何の用です?」
大学内部の人間ではなさそうだし、大学か警察が寄越した調査委員会か何かだろうか。
「本当にあなたがあの論文を書いたのかどうか聞きに来た。あなたが書いて、そして盗まれたの?」
「そうですよ。僕が心血を注いで一つ一つデータを取り、時間をかけて推論を組み立て、指を痛めながら論文を書きました。誰も信じてくれませんけどね。アーロンは身内の警察関係者に頼んでこの件をきれいさっぱりもみ消すでしょう」
「卒業単位が欲しかったからといったところ?」
「はい。自分の研究はしないくせに、人の物を盗る下準備は念入りでした」
アーロンがこの一件を計画した動機は卒業単位を確保するためであるから、ニコルをアーロンの論文を盗んだ犯罪者に仕立て上げるというような、必要以上に貶める行為はしてこないだろうと考えられる。そうすることでさらに調査が入り、自分の犯罪のボロが出る可能性があり、あのこずるい男はそのリスクをしっかりと認識しているはずである。大方、変な陰キャに論文を盗まれたが、広い心で許してやったという、自分をより輝かせるストーリーに仕立て上げるつもりだろうと予想できる。
「あなたが今傷だらけで雨に打たれているのは、アーロン・ベイカーの仕業? それとも今朝のステージでの大暴れのせい?」
女は一つ一つ確認するかのように聞いてくる。
「いいえ、母に家を追い出されたからです。僕のことはもう不要だ、と」
俯いて絞り出した言葉は、足元の灰で薄汚れた石畳に落ちた。実際言葉に出すと、急に「不要」という言葉が現実味を持って、重石のように体中を押しつぶすかのごとく覆いかぶさって来た。思い出すように寒さを自覚して、身体がぶるりと震える。
「なるほど」
女は指を顎に添わせる。
「じゃああなたは今、人魚とウミユリについての深い知識を持っているが、学問の世界で名誉はなく、おまけに親に勘当されて家も家族もないというわけだね」
女は簡潔な言葉でこれ以上ないほど効率的にニコルの心をえぐる。どうすることもできない事実の陳列が、今は一番辛かった。
女は下を向いたままのニコルに一歩近づいて、その視界に割り込ませるように手を差し出した。
「気に入った。あなたのような研究員を探していた。いっしょに来てくれない? 私はあなたが必要なんだ」
「必要……?」
ニコルは顔を上げる。女は長い黒髪を一つにまとめており、通り過ぎた灯台の光で一瞬、薄化粧が施された顔の中で目の奥が炎のように燃えるように赤く輝いたかのようだった。
「僕が、必要なんですか?」
ニコルはその手に縋りついた。冷え切ったニコルの手の中で、女の細い指はほんのりとぬくもりを持っていた。暗闇の中にぼうと浮かぶ白い手は、光り輝いているようにさえ見えた。




