2 アーロン
「行ってきます」
ニコルはいつもときっかり同じ時間に家を出た。空は昨日と同じくどんよりと曇っていたが、雨は降っていなかった。港の横を通り、赤レンガ造りの校舎の一つに入って階段を上っていく。ちょうど一限目が始まったばかりのようで、講義を行っている教室からは講師が話す声が少し聞こえる。この国の中でもかなり偏差値の高い大学なだけあって、どんよりと天気が悪く気分が乗らないような日にも関わらず、学生たちは真面目に座席のほとんどを埋めていた。ニコルは大学4年生になってからは研究室に入って、そこで自分のペースでウミユリについての研究を深めていた。
研究室のドアに、研究室に所属している学生と教員のみが渡されている鍵を差し込もうとすると、ドアに鍵はかかっておらず、すっと開いた。論文を書く時期なので、研究室ではなく、図書館で参考資料とにらめっこをする学生が多いのかと思っていたので意外だった。
「やあやあ、真面目君、おはよう」
その男は、ニコルの机に堂々と腰かけていた。ひょいと気軽な雰囲気で手を挙げる。尻の下に敷かれた本や紙の束がくしゃくしゃになっているのが見えた。金髪の髪をジェルだかスプレーだかでツンツンに立たせており、上等そうなシャツをわざとだらしなく着崩す姿がアンバランスだった。
「アーロン。何の用だ?」
アーロンはニコルと同学年で、同じ研究室に所属していた。経験則からこのタイプの学生がよく自分をいじめてきたので、同じ研究室に配属された当初は少し警戒していたが、アーロンはあまり研究室に顔を出すことなくどこかしらを遊び歩いているようで、高校までの勉強ができなくても他の道が提示されやすい環境から、学問をより重んじる環境に変わり、環境に適応できずに排斥されたのだろうと内心ほっとしていた。
「あのさ、来週、卒論の発表会あるよな。外部の人も見に来るっていうやつ」
「知っている」
「十分ご存じかと思うがあの発表会でしっかり発表できないと卒業できない。研究のことだけど、お前はたしか、ウミユリの研究しているんだったよな」
「そうだが、なんだ。そこをどいてくれないか。紙が破れる」
「ああ、悪かったよ。汚ねえケツ乗せてごめんよ。さて、今日俺がわざわざ早起きしたのは、お前にお願いがあって来たんだ」
アーロンは机を下りる。向かい合って立つと、ひょろりと線が細く小柄なニコルは、アーロンの鍛えられた筋肉粒々で高身長の身体の影にすっぽりと入ってしまう。お願いという丁寧な言葉とはちぐはぐに、アーロンはニコルにぐっと顔を近づけて威嚇する。表情は笑顔なのに有無を言わせないすごみがあった。
「なあ、お前の論文、俺に寄越せよ」
「残念だが断る。今までさんざん時間があったのにろくに研究もせず遊んでいたやつに渡したいものなどない。僕は君と違って勉強に全てを注いできた。寄越せといわれても簡単にあげる道理が無いだろう」
ニコルは顔を背け、努めて冷淡に言った。この不愉快な男の威嚇に屈したとは思われたくなかった。
「そいつは残念だな」
突然背後のドアが開いて、四人のこれまた柄の悪い男が入って来て瞬く間にニコルを取り囲んだ。金属バッドを持っている者もいる。ニコルは身を素早くかがめて一人の男の股の間を通り、廊下に逃げようとしたが、首根っこを掴まれて軽々と放り投げられた。机に背中がぶつかり、机の上に積まれていた本がなだれ落ちる。強烈な痛みに動くことができない。
「おい、何してるんだ」
近くの教室で授業をしていた講師の声がする。
「あ、本棚をひっくり返しちゃって。大丈夫でーす、授業を邪魔してすいませんっしたー!」
アーロンは良く通る声で返事をする。まるで暴力などとは無縁の爽やかで真面目な学生の声に聞こえる。
「残念だよ、もうちょっと友達作っとけば助けてもらえたかもしんねえなぁ」
アーロンはニコルの鞄をひったくり、迷いなく革製の書類ケースと鍵束を取り出して、鞄をぽいと放り捨てた。ニコルの行動パターンや持ち物まで監視されていたのだろうか。昨日論文が完成したことも、もしかしたら見張られていたのかもしれない。滑らかで躊躇いなど微塵も感じさせない動作で、アーロンはニコルの個人の机の抽斗の鍵を開ける。アーロンは中からデータの書き込まれたノートを取り出すと、その中身をぱらぱらとめくって、満足気に頷いた。どこまでも用意周到で汚い男だった。
「学生課に相談とか、教授に報告とか無駄なこと考えんなよ? こっちはお前が一生懸命論文を書いてる間、しっかりと根回ししてあるに決まってんだからな」
そう言うとアーロンは高笑いしながら仲間と共に引き上げていった。背中の痛みが引くのを待ってから、よろめきながら研究室を出る。衝撃を受けた時頬の内側を噛んでしまったらしく、口の中は血の味がしていた。
まっすぐ事務室の学生課に向かい、今しがた論文を取られたと主張したが、「毎年直前になってからすべてのデータを犬に食われたとか言う学生が続出するんですよ」とまともに取り合ってくれなかった。
「本当なんです。ほら、暴力も振るわれて」
必死になって口の裏側の流血を見せると、職員は不快そうに顔を背けた。カウンターの奥で職員たちがあのお決まりのひそひそ話をする。ニコルの周りには子供も大人も問わず、皆こうするのだった。ほとんど涙目になりながらアーロンの名前を出しても、「あの学生がそんなことをするはずがない。見た目で判断して彼に濡れ絹を着せるのは卑劣だ」と説教された。
「そもそもあなた、あんまり顔を見たことがないけど、本当にうちの大学の学生? 私は事務員歴が長いので、毎年すべての学生の顔は覚えられるんですよ」
ニコルがどんどん世界の音が遠ざかっていくような感覚を覚えた。周りを見渡しても、大学では誰とも話さず、勉強しかしてこなかったために、丁度よく助けてくれそうな知り合いの顔は一つもなかった。
論文の発表会まであと一週間もない。これから別の研究をするのはあまりにも無謀だった。かといって取り返すことはできない。ふらふらと校舎から出ると、中庭のベンチにアーロンと仲間がたむろしてこちらをにやにや笑って見ていた。アーロンの前を通りかかった学生の一人がアーロンに軽く挨拶する。アーロンがニコルの方をちらりと見て数言その学生に何か言った。学生がニコルの方を見て、視線がぶつかる。少し距離があったが、唇が動くのが見えた。
『とうさく』
頭がくらくらするような気がしてニコルは大学を出た。
「ただいま」
紅茶の香りが出迎える。
「お帰りなさい。まあ、今日は早いのね。論文はもう書き終わったんだからそうよね。これからおかしを用意するわ」
母が出してくるスコーンと紅茶を、今日は食べてはいけないような気がして一瞬手が止まる。
「発表会は来週でしょう。私も見に行くわ。今週はもうやるべき勉強がないみたいだから、資格の勉強とかしたらどうかしら。私買っておいたから部屋の机を見てね」
スコーンの味がしない。口内の出血のせいだけではなかった。なんとか飲み下すと、背中を嫌な汗がゆっくりと流れていった。
「論文発表会ですもの、お父さんもきっと来てくれるわ。お父さんにいいところをちゃんと見せて頂戴ね。ニコル、期待しているわ。私の自慢の息子よ。大丈夫、あなたはエリートなんだから」
普段は心が満たされる母の言葉も、まるで底の抜けたカップに水を注ぐみたいに無意味にニコルの中を通り抜けていった。
それからはあっという間だった。一週間の間、どう過ごしていたのか思い出せなかった。気づくとニコルは母が選んだ仕立てのいいジャケットを着て、講堂のステージに立っていた。拍手が鳴りやむ。静寂がじわじわとニコルの首を絞めていった。
「わ、私の研究は、」
観客から背を向け、黒板に向かう。震える指でチョークを掴む。発表用の模造紙も、手元の原稿も無しに手ぶらな状態でなかなか動かないニコルの様子に、観客たちはひそひそと騒めきだす。まばゆい照明に照らされたステージには逃げられるところも隠れられる場所もなく、まるで実験台で今にも原を割かれそうになっているラットのような気持ちだった。暗い客席全体が巨大な化け物になって背後からニコルを笑いながら追い詰めていく。息が上手くできず、視界が徐々に端から暗くなっていく。耳の中は自分の血流がごうごうと流れる音と嘲笑が入り混じって、不協和音が響いていた。
発表会のプログラムはアーロンの方が先だった。記憶はないが、アーロンはおそらくニコルの研究を、さも自分が汗水たらして研究したかのように観客にプレゼンしたことだろう。
「私のけ、研究は、ぬす、盗まれました」
何とか喉の奥から絞り出す。耳の中のざわめきが大きくなる。
「私は黒いウミユリについて研究しました。資料を用意し、実験し、データを取りました。人魚駆逐に対する有効な手立てを自分の力で発見しました。しかし、その結果は今ここにありません。なぜなら……、なぜなら、同じ研究室のアーロン・ベイカーに盗まれたからです」
暗くなりかけていた視界がそこで急に揺れて、舞台袖に引きずり込まれたことが分かった。
『発表プログラムを続けます。盗作の申請については大学が学校関係者の皆様に誠意をもって事実関係を調査し、後日お知らせします。大変失礼いたしました』
アナウンスが入る。次に発表を控えている学生が、発表資料を両手に抱えながら様子をうかがっている。
「集団で僕をはめて、論文を奪ったんです! 学生課に相談しましたが、取り合ってもらえなかったのでこの場で言ったんです!」
ニコルは声を張り上げた。
「おい、静かにしなさい。あとできちんと調査する。アーロンにもきちんと話を聞かないとわからない。証拠もないのに一方的にあんな場所で言うなんて、たとえ真実だとしてもあり得ないことだ」
ニコルはそこで初めて自分を羽交い絞めしている人が、自分の研究室の教授だということに気が付いた。教授はアーロンのことをひいきしており、進級テストの時も点数をごまかしてS評価を与えていたのを知っていた。
「この大学の職員は皆腐っています! 調査なんかきちんとするはずがない! あれは僕の成果だ!」
普段大声を出さないので、声は裏返り、酸欠で頭の奥が鈍く傷んだ。眼鏡が落ちて片方のレンズがフレームから外れてステージに転がる。
「やかましい!」
雷が落ちたかのような一言でニコルは口をつぐんだ。ざわついていた観客席も一瞬でレンズが転がる音が聞こえるくらいに静まり返る。
「ニコル、研究成果を発表する場でなんと恥ずかしい態度だ」
観客席には一人の男が立ち上がっており、それはニコルの父だった。本や新聞の媒体を介すことなしに父の顔を見るのはほとんど初めてだった。父は別の大学で数学の研究をしており、その学問の道では権威と呼ばれるほどで、教育者としても名高く、各地で公演をしたり、本を書いたりと露出が多かった。会場にいるほとんどの人が父の顔を知っていたはずだが、ニコルと家族だということはおそらく誰も知らなかっただろう。ニコル自身もとっさには、その怒鳴っていた人物が、自分が盲目的に目指してきた人物だと認識することができず、ただ、有名な学者が自分の身内かのように話しかけてきたという違和感に呆然としていた。
父はそのまましんとした会場を出ていった。床がぐにゃりと歪むような激しいめまいを感じ、ニコルはがくりと膝をついた。




