16 クリスティーナ
「ねえ、あなたには仲間はいるの? 家族や、愛する大切な人」
クリスティーナは縛られたままの人魚を、横たえられた状態から手を貸して座席に座らせ、さるぐつわと目隠しを解いた。青い目がクリスティーナをまっすぐに捉える。
レインが研究所に取引をしに向かった直後、ヴィクターの運転する車に乗ってクリスティーナはそれを追った。ヴィクターは可燃性のオイルを持って研究所に行ってしまい、待っている間退屈だったので、前の車に移動して人魚と話をすることにした。
大きな海運業者の社長だった父の屋敷には、海や人魚に関する物語を綴った本がたくさんあったので、そこからなんとなくの知識を得ていたが、人魚を実際に見るのは生まれて初めてだった。
「いいえ、私には家族も大切な人も一人もいない」
人魚は無表情で言った。口が動くたびに顔に何枚か生えた透明な鱗が動くので、そこにばかり目がいった。
「そう。家族のいない天涯孤独なのね。それ、私といっしょだわ」
クリスティーナの両親は、父の会社の倒産とともに離婚し、娘と屋敷を残してどこかに行ってしまった。
「天涯孤独ということは、他の人魚とはあまり交流が無いのかしら? ずっと研究所に閉じ込められていたみたいだし。でもせっかく人魚と話ができる機会だし、聞いておくわ。私、噂を聞いたの。20年前の一斉駆除の甲斐なく、まだ海には人魚の集団が生き残っているって。あなたは何か知ってる?」
人魚は首を振る。
「そう。まあいいわ。所詮非科学的な噂よ。海の深いところではさすがに人魚も生きていけないでしょうね」
「深海に人魚がいるの? どうしてその噂が?」
会話のすべてに興味が無いような顔をしていた人魚が、急に真剣まなざしで質問をしたので、クリスティーナは少し驚く。
「噂っていうか、私の父の潜水艇が全て帰ってこなかったのよ。父は最新技術を駆使して、黒いウミユリという新たな資源の採取事業を立ち上げていたわ。でも原因不明の事故によって、一隻も潜水艇は帰還せず、会社は倒産へ。深海にはきっと人魚が潜んでいて、潜水艇を沈めたんだと私は思ってる。私は人魚が憎い」
人魚は何も言わずにクリスティーナを見ている。
「でもね、私は人魚を人間にする薬の設計図を得て、それを人間になりたいと思う人魚に売りつけることで会社を立て直そうとしてる。人魚は憎いけれど、私のしようとしているビジネスにとってはなくてはならない存在でもある。まったく、皮肉なことよね」
クリスティーナは落ち着かなげに指をいじった。むしりすぎたささくれが血を出していた。
「でも私は構わない。私は人魚だろうと何だろうと、利用できるすべてを利用して私の望みを叶える。金を稼いで、会社を立て直し、パパとママを元通りにできるのなら、悪魔とだって取引するわ。ずっと研究所にいて、一番近くで薬の完成を見守って来たあなたには申し訳ないけれど、でも、あなたにも超高額で薬を売りつけてやる」
人魚は表情を変えずに青い目でクリスティーナを見ている。その目の奥に、呆れのようなものを見た気がして、クリスティーナはかっとして人魚のワンピースの胸倉を掴んだ。
「あなたのその生意気な視線も、すぐに媚びに変わるわ。なんて言ったって、市場すべての薬を掌握するのは私なんだから。私の一存であなたが助かるか助からないか決めることだってできる。私は薬と同時に、人魚の遺伝子を持つすべての人の人生を握っているのよ」
「私は薬を望んでいない」
人魚はすばやく首を伸ばしたかと思うと、クリスティーナの手に噛みついた。
「痛っ」
「私は深海に行きたいだけ」
クリスティーナの手には軽く歯型がついていた。クリスティーナは人魚の頬に平手を見舞った。
「いいわ、あんたなんか知らない。気に入らないわ。深海でもどうぞ勝手に行きなさいよ! 今すぐ私の目の前から消えて!」
人魚は縛られている身体をゆすった。腕に生えている鱗は硬く鋭く、簡単にロープを切ってしまった。いつでもこの人魚は逃げようと思えば逃げられたのだった。人魚は車のドアを開け、不自由な下半身のひれをうねらせ、這うようにして道路に出た。そして、近くのマンホールの蓋をこじ開けると、中に身を滑りこませて消えた。
いらいらした気持ちを抑えながら、海水臭さも煙草臭さもない後ろの車に戻ると、ほどなくして顔半分が醜く焼けただれたレインが戻って来た。車の窓越しに覗き見ると、闇夜でもそれとわかるほど黒々とした煙が廃墟の方から立ち上っていた。
レインに指摘されて、やはりこの段階で研究所に火を付けて、完成品の薬を全て焼き払ってしまうのはよくないことだったのだろうか、と一瞬不安になるが、その不安をかき消すようにクリスティーナは首を振った。不安になるようなことばかりを騒ぎ立てるレインに札束を押し付け、目の前から消えてもらう。もう火事は起こしてしまったことだ。この手の中に設計図があるのだから、いくらでもやりようはある。そう心に言い聞かせ、本を胸に抱きしめながらヴィクターが戻るのを待った。
「お待たせしました、クリスティーナ様」
窓がコンコンとノックされて、クリスティーナが顔を上げると、ヴィクターが戻ってきていた。少し顔が灰で汚れてはいるものの、全体的に黒い服は汚れを目立たせず、その様子はまるで何事も無かったかのように平然としていた。少し芝居がかった動作でヴィクターがお辞儀をする。
「よかった、無事に戻ってきてくれて。さあ、車を出して。屋敷に帰りましょう」
急に安堵がこみ上げ、クリスティーナは言った。ヴィクターは素早く運転席に乗り込み、車を発進させた。
燃え盛る廃墟の前を通るとき、道端に人が倒れているのが見えた。消防車の音が近づいている。
「ヴィクター、あれは?」
「設計図を持ってきた研究員です。まだ息はありますが、気絶しています。計画に問題ないと思ったので放置しましたが、始末しますか?」
「ちょっと停めて」
クリスティーナは運転席にヴィクターを待たせたまま車から降りて、研究員の元に駆けよった。服がどこもかしこも血まみれで、触れるのに一瞬躊躇したが、身体を揺さぶると研究員は細く目を開けた。
「あなたが設計図と引き換えに人魚を助けに来た研究員ね?」
「ア、アイリーンは……?」
研究員は掠れた声を絞り出した。どうやら人魚の名前らしい。
「人魚なら地下水道に逃げたわ。あなたに聞きたいことがある。なぜ人魚を助けに来たの? 恋歌の術のせい?」
腹立たしいことにレインの言った通り、人魚は人質として機能した。その理由を知りたかった。
「術なんかじゃない……。僕は彼女を、愛しているから」
そこまで言うと、研究員はまた気を失った。クリスティーナは研究員を放置し、車に戻った。汚れた手をヴィクターが差し出したハンカチで拭く。胸の中に嵐の前の風のような、ざわざわと首筋に鳥肌が立つような気持ちの悪い感情が吹き荒れ始めていた。
屋敷に戻ると、この屋敷のたった一人の使用人が屋敷の門を開けてくれた。レインはきちんと車を返していったらしく、車庫に車は戻されていた。
「もう部屋で休むわ。あなたも休みなさい」
クリスティーナは年老いた使用人にそう言った。この使用人はクリスティーナがまだ両親とともにこの屋敷で暮らしていたときに庭師として雇われていた男だった。会社の倒産とともに多くの使用人が解雇されたが、この男だけは他に行くところも無く、この屋敷にとどまった。元庭師で、家事や身の回りの世話について至らないと感じる部分はあるが、良家の使用人としての基本的な作法は完璧で、屋敷の中で行われていることや、クリスティーナが目論んでいる計画の事などを決して口外しないという点においては信頼できる男だった。
使用人が屋敷を出て、庭の隅の小屋に行ってしまうと、クリスティーナはヴィクターを自分の部屋に招き入れた。少女のプライベートな部屋にしてはシンプルで、天蓋付きベッドとドレッサー、戸棚と書き物机の必要最低限の物しかない。
「今日はありがとう。今日のお礼よ」
クリスティーナはヴィクターに札束を差し出した。
「ありがとうございます」
ヴィクターは恭しくお辞儀をする。
「クリスティーナ様がもうお休みになるのでしたら、私は別の部屋に移動いたします。本来ならば自宅に戻るところではありますが、今晩のクリスティーナ様の身の安全のためにも、一晩この屋敷のどこかに留まらせていただきたく思います」
着ている服装もあいまって、ヴィクターはまるで演劇舞台の上の騎士のふるまいのようにも見えた。ヴィクターは部屋を出ていこうとしたが、クリスティーナは引き留めた。
「待って。もう少しここにいて」
クリスティーナは戸棚からヴァイオリンを取り出した。弦と弓の調子を確認する。かなり高級そうな造りのヴァイオリンで、頻繁に弾いているのか、よく手入れが行き届いていた。
「ヴァイオリン、私の趣味なの。いつもは一人で夜に弾いていて。もし疲れていなければ聞いていってくれない? ここ最近はいろいろなことがあって、なんていうか……」
「わかります。どうしようもなく寂しい夜もありましょう。ぜひ聞かせてください」
クリスティーナはヴィクターの言葉に花がほころぶように笑顔を見せる。そして窓辺に立ち、ゆっくりと音色を奏で始めた。音色はのびやかで、しかし、震えるような切なさが滲む小夜曲。ヴィクターは天蓋付きベッドの端に腰かけて、軽く目を瞑り、それに聞き入った。一曲弾き終わると、ヴィクターは拍手をした。
「素晴らしかったです」
「そう? 最近はこの曲ばかり弾いているの」
「まるでプロのコンサートを独り占めしているかのようでした。よければもっと弾いてください」
クリスティーナの顔はぱっと明るくなる。そしてまた別の曲を弾き始める。今度はヴィクターは立ち上がり、踊り始めた。急に踊り出したヴィクターにクリスティーナは少し驚いたが、演奏を止めることなく弾き続けた。ヴィクターはその大きな体に見合わず、重力を感じさせないふわりとした優雅な体運びをした。たちまち部屋はミュージカル舞台かのように変わる。それは美しい踊りだった。
「ヴィクター」
クリスティーナはその曲が終わるやいなや、窓の傍にヴァイオリンを置き、ヴィクターの腕の中に飛び込むようにして倒れこんだ。ヴィクターはその身体を抱き留める。自らをすっぽりと覆いつくすように抱きかかえる太い腕は、何者からでも守ってくれるような底なしの安心感があった。ヴィクターの両頬を挟み込むように捕まえて、クリスティーナはむさぼるように口づけをした。
「愛して」
切なさに涙を浮かべながら懇願するクリスティーナを、ヴィクターはしっかりと抱きしめた。




