15 ヴィクター
レインは廃墟を出た。薬品で焼かれた顔が焼けるように熱い。強いなんらかの酸だろう。しかし、薬品の威力からするに本気で殺すつもりは無かったのか、致命的な傷にはなっていないようだった。瞼は焼けているが、眼球は無事だ。道端に唾を吐くと、その色は真っ赤だった。唾を吐いた程度では胸の中の怒りは収まらず、レインは手近な壁を殴った。先ほどの研究員はピンポイントにレインの神経を逆なでした。人魚だけを確実に取り戻したいならおとなしく設計図を渡せばよかったし、人魚と設計図をどちらも本気で守りたいならあの場で手加減した毒ではなく、もっと一撃で命を奪うような罠を張るべきだった。薬が自分にかかってしまうリスクを考慮したのかもしれないが、あの場面でそれを考えるのは臆病以外の何物でもない。自分の意思と言いながらも何かに依存し、自ら操られることを迎合するような芯のない甘い態度が、見ているだけでイライラした。
手の甲に視線を落とす。車に戻ったらすぐに人魚を殺そう、とレインは決めた。しかし、皮膚の痛みがひどく、自分がいつ失神してもおかしくないと判断できるだけの理性は残っていたので、停めていた車へ向かう前に、とにかくドブ川でもいいから近くの水場で、大量の水で薬品を洗い流すことにした。本を腰のベルトに挟み、速足で歩きだした時、目の前に誰かが立ちふさがった。
「ひどい顔ですね。作戦は順調ですか?」
足元から視線を上げると、そこには背の高い男が立っていた。男は小奇麗なスーツに身を包んでおり、丁寧に撫でつけられた黒髪はオールバックにセットされていて、一見そこらの役所か何かのまともな職についているかのような雰囲気をまとっている。しかし、よく見るとその黒いスーツはまるで舞台衣装のようにスパンコールが縫い付けられていて、胸元には布をたっぷり使ったジャボがあしらわれており、ただの一般労働者ではない異質さが感じられた。手には何かオイルのようなものが入ったタンクを持っている。
「誰だあんたは。俺は今忙しいんだよ。痛みでトびそうだ」
男はレインの顎を掴んで傷の状態を観察した。
「私はヴィクター。あなたと同じくクリスティーナ様に雇われた者だ」
吊り上がるように開いた口の端から尖った八重歯がのぞく。わずかな身体の動きで、煌びやかな衣装の下には鍛えられた筋肉が隠されていることにレインは気付いた。
「あのお嬢様、俺が気に入らないからって別のやつを雇ったんだな」
レインはヴィクターの手を振り払う。
「そうかもしれませんね」
「ただ、それには及ばないぜ。ほら、戦利品はここにある。報酬を分けてやることはできねえが、あんたも夜勤の時給くらいは貰えるだろうし、いっしょに屋敷に帰ろうぜ」
「その本が設計図ですか?」
「ああそうだ。すぐ近くに人魚を乗せた車を停めてある。俺は顔を洗ってから行くから、その間車で待っていて人魚を殺すなり遊ぶなり好きにしてたらいい」
「帰りの足については心配していません。私は別の車で来ました。ただ、」
ヴィクターは言葉を切る。
「ただ、なんだよ」
「まだ研究所でやることが残っているのに帰るわけにはいきません」
「はあ? もう設計図は奪ったって。もう後はトン面するだけさ」
ヴィクターはレインを押しのけてずんずんと研究所の方へ向かっていく。
「おい! ちょっと!」
ヴィクターは廃墟の入り口で振り返る。
「研究所を焼きます。薬の完成品がここに残っていると面倒です」
言うなりヴィクターは持っていたタンクからオイルを撒き始めた。てきぱきとスムーズに廃墟に撒いていく。廃墟の真ん中の先ほどレインが殴り倒した研究員は完全に気絶しているのか、近くにオイルの臭いが充満してもなお、ぴくりとも動かなかった。ヴィクターは研究員の横を抜け、研究所内にもオイルを撒きに入っていってしまった。
「おい、俺が依頼されたことは設計図の強奪だけだ。あんたはここを燃やすことまでが依頼だったのか? 火事なんか起こしたら警察もここの存在を知る。本物の人魚警察にも薬の存在が知れ渡るぞ」
レインは追いかけて行ってヴィクターの背中に言ったが、ヴィクターは黙って淡々と作業をこなし、タンクが空になるとそれを放り捨てた。ポケットからマッチを取り出し、躊躇うことなく擦る。暗闇を照らし、一気に炎が燃え上がる。ヴィクターは廃墟の中から拾って来たのか、鉄パイプのようなもので梱包された薬を叩いて回り始める。
「クソッ、正気じゃねえ」
レインは急いで駆けだした。廃墟の外に出る直前、倒れたままの研究員が視界の端に入る。だんだん炎が辺りを取り巻いているのに、研究員はまだ気を失ったままだった。開いた扉から地下から上がってくる煙が出始める。早く逃げなければすぐに丸焦げになってしまうだろう。
レインは一つ舌打ちをして、研究員を肩に担いだ。そして廃墟の外に引きずり出す。道端に研究員を放り捨て、振り返ると、闇夜の中でもはっきりとその黒さがわかるほどの不気味な色をした煙が空高くへと上がっていた。顔の皮膚がただれてところどころ肉が剥がれ落ちている感覚がしていたが、一旦顔の痛みのことは諦め、レインはまっすぐに車へと走った。
レインがクリスティーナから借りていた黒い車の後ろに、もう一台の別の車が停まっていた。その車のドアが開き、ドレスを着た少女が出てくる。クリスティーナだった。
「設計図はどこ?」
レインは本を差し出した。クリスティーナは中を確かめると頷き、札束を取り出して渡した。
「ご苦労様。あなたの仕事はこれで終わりよ。最後に車だけは屋敷に戻してから帰ってくれるかしら」
レインは札束を数える。当初の約束通りの額だった。
「なぜ研究所を燃やした? あんたの望みは薬を大量生産してビジネスすることだろう。火事がニュースになれば、警察や人魚警察が薬の存在に勘づいて、闇市の警戒を増やすかもしれない。設計図を盗むだけでやめておいた方が賢明だと思う。競合を恐れるにしても、こちらに設計図はあるんだし、いくらでも金を踏んだくれる算段はあったはずだ」
「それがヴィクターを雇う条件だったのよ。別にもう私たちは雇用関係ではないのだし、余計なことに口を挟まないでくれる?」
「俺はあんたの計画に従って怪我をしてるんでね。突然聞かされていないやつが登場して焼き討ちを始めたら、それについて疑問に思う権利はあるだろ」
「何? 労働災害の手当が欲しいって言うの? じゃあ追加であげるからさっさと失せなさい」
クリスティーナはもう一つ札束を出してレインに押し付けた。フリーの貧乏マーメイドハンターが、半年は働かずに食べていけるだろうというほどの額を、この少女はぽんとポケットから取り出す。レインが札束の重みに目を見張った隙にクリスティーナは車に乗り込み、ドアを閉めた。話は終わり、とばかりにツンと顎を上げ、すました顔で前を見ている。話が通じないことを悟り、レインは前に停めてある方の車のドアを開けた。
「おい、人魚はどうした」
レインはクリスティーナに聞く。後部座席で縛られていたはずの人魚が忽然といなくなっていた。
「捨てたわ。話をしようとしたら私を噛んだから。マンホールに入っていったから今頃地下水道で汚水に塗れているはずね」
クリスティーナは平然と答える。
「問題ないでしょ? もう設計図は手に入ったし」
辺りを見渡すと、少し蓋のずれたマンホールが見えた。この国には地下に迷路のような地下水道が敷かれていて、地下に逃げられると再び見つけ出すのはほとんど不可能と言えた。
「……ああ、問題ないな」
レインは車に乗り込み、乱暴にドアを閉めて車を出発させた。ハンドルを握る手の甲の入れ墨が目に入る。アクセルを踏むたびに、今夜人魚の命を狩ることのなかった銃が腰のホルスターで存在を主張していた。




