14 脅迫
走りながらニコルは何度も、これでよかったのだ、と自分に言い聞かせた。自分は研究員の一人としてなすべきことをした。もしこれを守りきることが出来なければ、研究所の研究員たちが長い時間かけて積み上げてきた努力が無駄になってしまう。研究員の仲間の顔が次々に思い浮かんだ。薬が完成したときの、泣き出しそうな、しかし幸福そうな、感極まった表情が脳裏に焼き付いていた。行くところのなかったニコルに居場所を与え、研究員のひとりとして信頼を寄せてくれた仲間を失望させるわけにはいかなかった。
ニコルは何度目かわからない転倒をした。今までの人生の中で、全力疾走というものをした経験があまりにも少ないせいで、四肢の動かし方が壊滅的にちぐはぐだった。汚れた石畳に頬がつく。目を閉じると、アイリーンの青い瞳がちらついた。
『私を愛さないで』
目を開ける。水の中にまるで青のインクを一滴垂らしたときのように、アイリーンのことばかりが頭の中を占めていく。今、自分が背を向けたせいで、アイリーンは侵入者に殺されるかもしれない。それとも、アイリーンを人質にして設計図を要求してくるだろうか。その場合、研究員たちは理性的にアイリーンよりも薬を優先するだろう。そして、何より気がかりなのは、アイリーン自身がその決断を肯定し、犠牲になることを厭わないだろうということだった。自分の運命を諦めきったような顔で、涙一つ流すことなく冷静に受け入れるのだろう。
さほど長いとは言えない人生の多くを、あの薄暗い部屋の狭い水槽に閉じ込められ、痛みと孤独に耐えながら生きて、その結末が殺されることなら、そんな悲劇はない。誰も味方がおらず、助けに来る者はいない。
そんなのまるで、あの日の僕じゃないか。ただひたすらに自分を押し殺して学校と家を往復し、いじめられても手が痛んでもペンを握り続け、そしていつの間にか立たされていたステージで観客席の大衆に襲われた僕に。声を上げても誰も助けに来てくれない絶望を、僕は今アイリーンに味わわせている。
ニコルは立ち上がった。遠くで最終列車らしき汽車の汽笛が聞こえていた。
「アイリーンを助けられるのは僕だけだ」
つぶやくと、ニコルは落ちた本を掴み、踵を返した。そして、元来た研究所の方へ駆け出した。
研究所の入り口の破壊されたドアのところに、カードのようなものが落ちていた。ニコルははっとして拾い上げる。
『人魚はいただいた。一時間に一度ずつ拷問する。返してほしければ薬の設計図を寄越せ。電話番号はXXX-XXXX』
さっと血の気が引いていくのが自分でもわかった。ニコルは壊れた扉を蹴破るようにして開け、一直線に試料保管室へ向かう。試料保管室の扉も、研究所入り口と同じく爆破され、大きく開いていた。階段を駆け下りる。そこにはただ、派手に割れた水槽と千切れたチューブがあるだけだった。レコードプレイヤーは水に濡れ、壊れていた。アイリーンは攫われていた。時計を見る。ニコルが研究所を飛び出してからまださほど時間は経っていなかった。
ニコルは迷いなく休憩室に向かい、通信機を用意した。そしてカードに書かれている番号にダイヤルする。
『思ったより早かったな。実は研究所にいたとか?』
ざらざらした音質の向こうで男の声が聞こえた。
「アイリーンを返してくれ」
『へえ、この人魚はアイリーンというのか。まあそんなことはいい。設計図は用意してあるんだろうな』
「ああ、僕が持っている。これと引き換えにアイリーンを返せ」
『よし。ではこれからアイリーンを連れてそちらに向かう。ただし、そちらが武装していたり、大人数で待ち伏せなどしていたらそれを確認した段階で人魚は殺す。引き渡し場所は研究所のある廃墟の一階部分だ。今からきっかり一時間後に一人でそこに設計図を持って立っていろ。繰り返すが、武器を持っていたら即座に人魚を殺すぞ』
「わかった」
ぶつりと通信が切れる。ニコルはひとつ深呼吸をした。
ニコルはランタンを持って廃墟のがらんどうに立った。もう一方の腕には本がしっかりと抱えられている。もうすぐ約束の時間になる。ニコルはごくりと唾を飲みこんだ。この取引は研究所の誰にも知られるわけにはいかなかった。今夜、自分がすべてを解決し、何事も無かったかのように朝を迎えるのだ。
「よう、研究員さん」
暗がりから一人の男が現れた。闇に溶けるような黒づくめだ。銃口は下ろしているが、銃を手に持っている。
「アイリーンはどこだ」
「人魚なら近くに停めた車の中にいる。さあ設計図をよこしな。その本に書いてあるのか?」
「そうだ」
ニコルは本を男に向かって差し出した。男が一歩ずつ近づいてくる。緊張が高まる。あと三歩、二歩、一歩……今だ!
ニコルはランタンを持っている方の腕を思い切り振った。ランタンは足元に落ちてガラスが割れ、あたりは一瞬で暗闇に変わる。ニコルの手首に巻き付けられていた細い糸は天井近くのフックを通って男の背後に仕掛けられていた罠が作動する。火傷と目つぶしを引き起こす薬品が入れられていたビーカーが宙を舞い、パリンと音を立てて男の後頭部からかかる。男は一瞬、背後の気配に反応して身をひねりかけていたが、ビーカーは命中していた。
ニコルは想定していた通りによろめいた男を組み伏せようとした。しかし、男の筋力の方が一枚上手だった。とびかかって来たニコルを地面に転がって躱し、ニコルの首を掴むとそのまま地面にたたきつけた。頭と背中に衝撃が走り、息が出来ない。
「痛ってえなあ!」
男は叫ぶと、ニコルの頭を銃のグリップ部分で殴った。耳鳴りがし、視界は暗いはずなのに、目の前で火花が散った。
男はニコルが動かなくなるまで殴ると、よろめきながら立ち上がった。顔の右半分に薬がかかり、煙を出しながら皮膚が焼けていた。
「クソ、手こずらせやがって」
男は本を拾い上げ、中をしっかりと確認してから踵を返した。
「ま、待て。アイリーンを返してくれ」
ニコルは立ち上がろうとしたが、平衡感覚が保てず、地面を這った。男は立ち止まる。
「はあ? お前は馬鹿か? お前は武器を持ってこないという約束を破って俺を殺そうとした。俺はマーメイドハンターだ。人質の役目を終えた人魚は殺す」
「お願いします。アイリーンの命だけは助けてください。あなたに薬をかけたことは謝ります。お願いします、大切な人なんです」
ニコルはうずくまり、額を地面にこすりつけた。
「大切な人?」
男は拳を強く握る。入れ墨の入った手の甲に血管が浮いた。男はニコルの方へ戻って来て、うずくまるニコルの顎を思い切り蹴り飛ばした。
「お前のその感情はな、人魚に妖術によって誑かされているだけだ。お前は人魚に操られている。あいつらは人の感情をもてあそぶ畜生なんだよ!」
「アイリーンは違う! 彼女はただ巻き込まれた被害者だ。彼女は僕を誑かしたりなんかしない。むしろ悲劇的な運命を受け入れようとさえする。だから僕が救いたいんだ。僕が勝手に彼女を救いたいと思うだけなんだ」
「そう思わせることが妖術だって言ってんだろ!」
男はニコルを蹴り、踏みつけた。脆く骨が折れる音がした。
「どうか、どうか彼女の命だけは……」
血まみれのぼろ雑巾のようになってなお、掠れた声で懇願する声を無視して男は廃墟を出た。




