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深海  作者: 岡倉桜紅
12/16

12 襲撃

「明日、最終チェックを済ませてイザベルが許可を出したら、ここから契約先の病院に薬を運び込むんだ。今日は薬を梱包するので一日中忙しかったな」

 ニコルはアイリーンとレコードを聴きながら話していた。山裾のアパートに新居をもらったニコルだったが、試料保管室に一晩中いてほとんどそこで寝泊まりするような日が続いていた。レコードの音に身体を預け、水槽に背中をつけて座り込んでまどろむのは、翌日腰や肩がかなり痛んだが、それでもニコルは、家に帰るよりも、少しでもアイリーンと時間をともに過ごすことを選んだ。

「そう。お疲れ様」

 アイリーンはつぶやくように言った。昼間のあわただしい作業が嘘のように、梱包作業がひと段落下研究員たちは皆家に帰り、夜の研究所は静かだった。アイリーンは水槽の中を泳ぐ。その姿は内側から発光でもしているかのように、目をくぎ付けにする美しさだった。

「イザベルはなぜ一番最初に君に薬を打たないんだろう」

 ニコルはアイリーンにつながる痛々しい点滴のチューブを見ながら言った。

「それは私が、一番最後でいいと言ったから。万が一、薬に致命的な欠陥があった場合、薬の研究を続けないといけない。そのとき被検体がいなければまた一から都合のいい被検体を探さなくちゃならなくなる」

「薬は完璧だよ。設計図は僕が作った。設計図を見れば、今研究室に行って、ほんの夜食を作るくらいの手軽さで君に薬を調合することだってできる」

「わずかな可能性を無視するのは科学者としてよくないんじゃないかな」

 そう言われてニコルは黙った。同じタイミングでレコードも終わる。ニコルは立ち上がってレコードの針をまた最初から落とそうとした。しかし、バタンと奇妙な物音がしたような気がして手を止めた。秘密研究所には今ニコルとアイリーン以外誰もいないはずだ。薬も完成しているので、いつも以上に戸締りはしっかりとしてあるはずだった。

「ちょっと様子を見てくる」

 ニコルはレコードプレーヤーの電源を切り、試料保管室の階段を上った。厚い扉に耳を押し当て、廊下の気配を探ってから細く扉を開けて外を覗く。廊下には誰もいないようだった。ニコルは音を立てないように注意しながら慎重に試料保管室を出て、忍び足で廊下を進む。微かにごそごそと何かを探すような物音がしている。研究室を細く開いたドアから覗いた時、ニコルは声が出そうになって慌てて両手で自分の口を押さえた。一気に緊張感が身体を駆け巡る。

 研究室の棚の前には、黒づくめの服装をした知らない男が懐中電灯を口にくわえながら立っており、何かを探すように棚に手を突っ込んでいた。男の腰には銃が挿してある。

「ん~、設計図、設計図はどこかな?」

 男はつぶやきながら棚を探る。なぜかしきりに棚の中と自分の手のひらに視線を頻繁に行ったり来たりさせている。

 まずい、まずいまずいまずいまずい。身体が勝手に震えだす。泥棒だろうか。いや、泥棒ならばもっと金になりそうな金品を探すはずだ。わざわざ研究室の棚を中を探っているとしたら、薬に興味があるということだ。人魚警察だろうか。今ここには自分とアイリーンしかいない。通信機を使って誰かを呼ぶか? いや、物音が聞こえればきっと殺される。どうしよう、せっかく作り上げた薬があるのに。

 そこまで考えた時、まずしなければならないことに思い至り、ニコルは慌てて金庫のある部屋に向かった。震える手でダイヤル式の錠を開け、中から古びた本を取り出す。本の中には最新の薬の設計図とサンプルが一本入れられている。非常時はこれを持ち出せば、今まで積み重ねてきた技術は守れるというものだった。ニコルは本を抱え、廊下に戻る。そして、試料保管室の扉の前まで戻った。とりあえず今はこの扉に鍵をかけておいて、本を安全なところに隠したらまたアイリーンを迎えに来ればいい。

 鍵穴に鍵を差し込んだ時、本当にそうだろうか、とニコルは手を止めた。秘密研究所の入り口の扉も、この扉と同じくらい頑丈で破りにくいものを取り付けられていたはずだ。それに鍵も閉めてあった。それなのに賊が侵入している。あの賊にとってはこの扉を開けることも造作もないことだとしたら? アイリーンが危ない。化学的に調べればすぐにわかることだが、現段階では使用用途や調合方法が不明の薬が大量に保管してあるだけで、しらを切りとおせる可能性もわずかにある。しかし、アイリーンが見つかってしまえば、人魚の研究と言うことは明らかになり、アイリーンも殺されるだろう。

 ニコルは夢中で試料保管室の扉を開けて階段を駆け下りた。

「どうだった? 上には誰かいた?」

 アイリーンが穏やかな声音で聞いてくる。

「侵入者だ。研究室で棚を漁って何かを探してる。きっと人魚警察だ。いますぐ逃げないと」

「ならあなたがまず来る場所はここじゃないでしょう。研究成果を持って遠くに行かないと」

 ニコルは水槽に梯子をかける。

「研究成果を守るためにも君はここにいちゃ駄目だ。侵入者が君を見つけたらきっと殺すよ」

 ニコルは梯子を上ってアイリーンに手を差し伸べる。

「さあこっちに来て。僕が背負って逃げるよ」

 アイリーンは眉を寄せる。

「そんなのどう考えても無謀。私を置いて行って」

「置いていけない。さあ早く」

 アイリーンは水槽の反対側に泳いで行ってしまう。

「あなたはまず研究所の一員として技術を守ることを優先すべき。設計図を奪われればあなた以外のたくさんの人の努力も無駄になる」

「いいからこっちに来て。人魚がここにいることがバレたら人魚の研究をしていたってことが明らかになる。僕は研究を守ろうとしてる。君の言う通り研究員としての役目を果たそうとしてるんだよ」

 ニコルは背後のカーテンの奥を気にしながら自分の行動の理屈を説明した。

「あなたが守ろうとしてるのは研究員の一人としての研究成果じゃない。私個人だよ。盲目になり、リスクを正しく比較できなくなっている」

 アイリーンは少し寂しそうな顔をする。

「私を愛さないで」

 アイリーンはそう言うと、息を吸い込み、水槽深くに沈んだ。そして、水槽の底で胎児のように膝を抱えた格好になり、動こうとしなくなった。

「アイリーン!」

 ニコルは水槽を叩いたが、アイリーンは無視した。また上の階から物音がした。侵入者が部屋を移動しているのだろうか。ニコルは本と水槽を何度か見比べたが、アイリーンの様子を見て抱えて逃げることは諦め、本だけを持って階段を上った。試料保管室の扉に音を立てないように慎重に鍵をかけ、研究所を出る。研究所の出入り口の扉は小型の爆発物のようなもので破壊されていた。

 とりあえずは自宅のアパートに本を隠そうと決め、ニコルは本を上着に隠すようにして街を走った。体力のない身体では、数十メートル走っては膝に手を置いて息を整えることを繰り返さなければならなかった。足と横腹が痛みだす。足がもつれて何度も転んだ。道端で公衆電話を見かけたが、他の研究者の自宅の電話番号を把握していなかったので、応援を呼ぶことはできなかった。

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