11 イザベルの夢
熱い。イザベルは細いY字路に立たされていた。地獄の釜の上に架けられた橋のような真っ黒のそれは、肩幅ほどの細さしかなく、そこに立つイザベルの身体のすぐそばを炎の舌先がかすめていた。熱せられた空気が陽炎のように揺らめき、遠くの様子はわからない。全身が焼けるように熱く、高温の空気を吸い込むたびに、喉が焼けるような感覚があった。
『ベル、助けて』
左側の道の先から少女の声がした。
「リリ……」
イザベルはそちらに向かおうとしたが、足の裏が地面に張り付いてしまったかのように一歩も動かない。おかしい。力を込めてみるが、やはりびくともしない。
『ベル、熱いよ。死んじゃう。お願い』
か細い声で声が弱弱しく嘆願してくる。鼓膜を覆うようにして揺らしているのは、炎が燃え盛る音と、何かが爆ぜる音ばかりだが、少女の声はイザベルの頭の中で直接響いているかのようにはっきりと響いていた。
『駄目、そっちにはいけない。もう戻れなくなる』
少女の声がするのとは反対側の右の道から別の誰かの声がした。相変わらず足は動かない。
「でも、行かないと。今助けられなければリリが死んじゃう」
イザベルは全力で足を動かそうとするが、上半身をばたつかせ、空中を泳ぐような恰好になっただけだった。足の感覚はまるで自分のものではなく、地面に固定された木の棒のようにびくともしない。まるで自分が案山子になったかのようだった。
『どうしてすぐ立ち上がらなかったの? 私を選んでくれなかったんだね』
目の前が真っ赤な炎で覆われ、頬の半分くらいが鱗で覆われた少女の顔の形をした影が一瞬、イザベルをにらみつける。
「そんな! 違う! 私は動けなくて」
一瞬のうちに目の前の炎は消え、またイザベルの前にはY字路が現れる。
『イザベル、こっちにおいでなさい。お母さんと一緒にいきましょう』
左の道の先から、今度は女性の声がする。
『いや、イザベル、こっちに来なさい。父さんと来た方がいい』
右の道からは男性の声がする。
『黙って! あなたは娘のためにならないわ。あなたみたいなクズに子供が育てられるはずない。イザベル、そんな男といっしょにいったら駄目。あなたは賢いからわかるでしょう』
『うるさいそっちこそ黙れ。イザベル、あの女の言うことを信じるな。あんな馬鹿には娘を育てる資格なんかない。甘い言葉を言っても全て嘘だ。父さんを選びなさい。さあ早くこっちへ』
2人はお互いを罵りながらイザベルにどちらかを選ぶように迫る。足は依然として棒のように動かない。イザベルは首を弱弱しく振りながら両手で顔を覆う。2人の罵る声はどんどん大きくなり、罵倒の語彙も相手をより傷つけるために選ばれた悪意が増していった。聞きたくないと耳を塞いでも、頭蓋骨の内側から響いていて逃げられない。トンネルの中で叫ぶように、しだいに声は頭の中で不快に反響し、言葉を聞き取ることもできなくなった。
『ああ、ぐずぐずしているうちに手遅れになってしまった。早く選ばなかったせいだ』
2人の声が混ざったようなざらざらとした不気味な声がした。目の前に炎の壁が現れる。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
イザベルは唱えるように吐き出し続ける。いつの間にかY字路は消え、視界はどこまでも燃え盛る炎で覆いつくされていた。
イザベルはがばっと上体を起こした。息が荒い。全身に汗をびっしょりとかいていて、パジャマとシーツが湿っていた。指先が少し震えている。イザベルは周囲を見渡す。見慣れた自分のアパートのベッドルームだった。カーテンの隙間から朝日はまだ無い。
「またこの夢か……」
寝ている間に食いしばりすぎたのか顎の筋肉が硬直していた。それを無理にほぐしながら風呂場に向かう。イザベルは手早く冷たいシャワーを浴びた。とっくの昔にお湯の出なくなったシャワーはイザベルの熱を洗い流し、古いタイルの継ぎ目と汚い排水溝に吸い込まれていった。あまり眠れなかったせいで落ちくぼんだ目が、鏡の向こうからイザベルを見返していた。風呂場から出ると、イザベルは太ももにベルトを巻き、そこに護身用のナイフを挿した。
ポットに湯を沸かし、お茶をいれる。それを待っている間、イザベルはダイニングテーブルの上に置かれた、使い込まれた木製の筆箱を開ける。その中には何本かの鉛筆と、古く、透明度を失った人魚の鱗が一枚入っていた。鱗が無くならずにまだそこに存在することを確かめ、イザベルはまた筆箱を閉じる。
夢のせいで早く起きすぎてしまったので、することも無く、イザベルは紅茶をすすった。朝は嫌いだった。
紅茶を飲み終わり、いつものパンツスタイルではなく、普通の街の女性として溶け込みやすいシックなスカートとブラウスに着替え終わり、出発の時間までどう過ごそうかと手持無沙汰になった時、電話が鳴った。
『副所長、信頼できる人魚の医者が見つかりました。医者の過去の経歴まで調べたから大丈夫だと思います。患者リストを所持しているので、そのネットワークを使って効果的に薬を流通させることができますよ』
「ありがとうモーガン。薬の売値の交渉についてはどうなってる?」
『それは今日これからシリルとイーサンが行く予定らしいです。値段の最低額とかあればそこで作業してるんで伝えますよ』
「いや特に最低額などは考えていなかった。ただ、今シレーンのスラムで流行している民間療法やきな臭い薬と同じか、それより安いくらいの値段設定にしてほしい。あまり安すぎると信用が失われるけど、それよりも重要なのは、高いからと使用を渋る人が出ないようにすること」
『まだテスト段階で手に取りやすい値段にするのは少し早すぎるような気もするけど……、まあ、わかりました』
モーガンはイザベルの答えにやや驚いたように言ったが、すぐに了承した。
「生産の状況はどう?」
『物置が全部と休憩室の半分を埋めるくらいには出来上がってますよ。小さなスラム一つなら全員に薬を打つことも可能な量です。あとは副所長のゴーサインひとつで一気に流通させることができる状況です。副所長の計画通り、まずは治験ということで狭い地域で様子を見て、その後で問題なければ別拠点でも大量生産を始めるということで進んでいます』
「そう。ありがとう。今日の夕方には研究所に顔を出す予定。2人には交渉を頑張ってほしいと伝えて」
『わかりました。……ああ、あと別件なんですけど、いつになったら被検体Iに薬を打つんですか? 流通の前に彼女に打って、薬の接種後にどんなことが起きるのか詳しく観察すべきでは?』
「それは……」
イザベルは唇を噛んだ。被検体Iに薬を打ってしまったら、新しい鱗はもう生えてこない。新しい鱗を借金取りに提出できなければ、人魚である被検体は死んだということになり、それは返済の期限ということになる。まだ薬を打つわけにはいかなかった。
「倫理的側面からだよ。彼女は自分の身を実験体として差し出したけれど、治験の同意までしたわけじゃない。今まで頑張ってくれたし、薬の安全性が確かめられてから打ってあげたい」
かなり苦しい言い訳だった。今までさんざん人権を無視したような扱いをしてきたのにも関わらず、今更倫理など筋が通らなかった。
『でも、被検体Iの人魚化はかなり進んでいますよね。手遅れになるのが一番よくないことなんじゃないですか?』
「とにかく、被検体Iの処遇は私が決める。あなたたちは流通の準備に全力を注いで」
イザベルはやや強引に電話を切った。時計を見るとまだ少し予定よりも早かったが、アパートを後にした。
秘密研究所がロドニーの手で作られた時、発足当時は被検体であるロドニーとイザベル、エドガーともう一人の4人しか研究員がいなかった。研究に必要な費用は必要になるごとにメンバーに相談し、ロドニーが少し多く払う形で割り勘していた。細々とした研究の日々が3年続き、ロドニーの状態が悪化したことで一時解散した。そして解散から1年後、ロドニーの娘であるアイリーンが研究所を訪れた。その時、発足メンバーの一人は考え方の違いから疎遠になっていたが、イザベルとエドガーで新たにメンバーを集め、再び研究所を始動させた。各地の同じ志を持った学のある人と人脈を作り、連携をした。メンバーが増え、すぐに金が足りなくなった。皆、正業の傍らで研究員をしていたが、研究にのめりこみすぎたイザベルは人間の社会の職につくことはできなかった。資金不足でたびたび研究が止まり、資金を作るために皆が働くと、時間が奪われ、さらに研究のスピードが落ちた。そこで、研究を進めたくて仕方なかったイザベルはメンバーに内緒で金を借りることにした。研究に必要な費用はすべてイザベルが借りた借金で賄い、研究を前に推し進めたのだった。
イザベルは駅に到着した。切符を買う。切符を買っている間も、落ち着きなく周囲を警戒して視線を配ってしまう。借金取りがいつでも自分を見ていて、返済不履行として殺しに来るのではないかという漠然とした不安がこの4年間常に胸の中にあった。
ホームに出た時、イザベルの前を白い帽子をかぶり、白い手袋をして、白い杖をついた少年が歩いていた。少年は目が見えていないらしく、杖で足元を探りながら、ふらふらと危なっかしく蛇行して歩いていた。ホームから今にも線路に落ちてしまいそうで、イザベルは声をかけるか迷う。ふらふらはしているが、杖のつき方には慣れが感じられ、蛇行しながらの移動は、彼が彼自身の人生を生きる上で身に着けてきた知恵で、彼なりのいつも通りなのかもしれない。無駄に心配される経験を繰り返し、同情じみた偽善行為に飽き飽きしている可能性もある。イザベルは彼と一定の距離を保ちつつ、様子を見守った。その時、柱の陰から射抜くような視線を感じたような気がして、イザベルははっとして立ち止まる。まさか借金取りだろうか。身体中の産毛が逆立つのを感じ、無意識に太ももに手が伸びる。次の瞬間、少年がホームから足を踏み外した。
「あ、危ない」
口の中で小さく声が出る。
少年は柱の陰から駆け出してきた男によってすんでのところで抱き留められた。
「間に合った。大丈夫かい?」
男は借金取りなどではなく、きちんとした身なりでネクタイを締めた社会人だった。胸元に名の知れた一流の銀行のバッジが光った。通勤の途中なのか、文庫本を片手に持っていた。
「ありがとうございます。僕、この駅は初めてで」
少年は笑顔で礼を言い、頭を下げた。男は少年の持っている切符の座席を確認し、少年を腕に捕まらせると、その場所まで案内するために歩き出した。一部始終をそこに突っ立って見ていたイザベルは、列車がホームに入ってくる汽笛で我に返った。石炭臭い風が髪を吹き上げた。
「リリアスに会いに来たんですが」
イザベルは丘の上にぽつんと立つ石造りの建物の戸を叩いた。このあたりには草原と、石を積んで作られた低い壁に挟まれる、ややぬかるんだ道があるだけだった。時折、薄汚れた羊が草を食んでいた。
「ああ、あんたか。どうぞお入りなさい」
腰の曲がった老人が出てきてイザベルを招き入れた。建物に入った瞬間から、気分が悪くなるような奇妙な臭いが鼻をつき、動物のようなうめき声や奇声が聞こえてきた。この建物は古い病院で、主に身寄りのない要介護老人や、他では収容を断られた精神疾患の患者、そして人魚を受け入れていた。ここには、社会から排斥された者たちが流れ着いていた。
「おお神よ、私は地獄に行きたくない……。どうか、どうか……」
口の端からよだれを垂らし、目の焦点があっていない男がうわごとのようにつぶやきながら、イザベルたちとすれ違った。
この国に根強い宗教では、人は死後、天国化地獄のどちらかに行くとされており、人魚は地獄に棲む悪魔の手先という世界観を持っていた。人魚と関わることで地獄に行くと信じる者もあり、人魚の不浄を恐れるがあまり気が触れることもあるという。
「この部屋だ」
老人はひとつの部屋のドアを開けた。
「ありがとう」
「ごゆっくりお見舞いくだされ」
イザベルは老人に頭を下げ、部屋に入った。別の部屋や廊下の騒然とした様子とは打って変わってその部屋はしんと静かだった。ベッドが六つ並んでおり、イザベルは一番奥の窓際に置かれたベッドへ向かった。大きな窓があったが、空は曇っていて、気持ちの良い陽光がさしこんでくるということはなかった。六つのベッドに寝かされている患者は皆、虚ろな目をして口をぽかんと開けており、イザベルの靴音がしても、彼らの身体は枯れた植物のようにぴくりとも動かなかった。
「リリ、久しぶり」
イザベルはベッドに横たわるリリアスの顔を覗き込んだ。椅子を持ってきて枕元に座る。リリアスの顔は鱗に覆われ、顔のパーツのバランスは、人間と言うよりもむしろ魚類のそれに近い。ベッドの上に投げ出された腕も鱗で覆われ、透明な鱗の上から、鱗の下の皮膚が荒れて炎症を起こしているのが見えた。手の指の間には水かきのようなものが生えていて、その皮膚もひどく荒れていた。髪は真っ白で、虚ろに開いた青い目はぼんやりと空中を見つめている。目ヤニなのか血なのか、得体のしれない液体で目の周りは汚れており、口の端からは泡が出ていた。イザベルはハンカチでそれを丁寧に拭った。
「私、人魚を人間にする薬を開発したよ。7年もかかってしまったけれど、ようやく完成した」
リリアスは何も言わない。
「これで私、あなたのためになれたかな。あの日の罪を償えたかな」
そっとリリアスの手に自分のものを重ねる。リリアスは消毒液と唾液、それと微かに腐った魚のような臭いがしていた。部屋中に立ち込めるその臭いは、普段から混ぜられることもなく堆積し、埃のように降り積もっていた。
「ごめん、そんなはずないよね。ただ、この報告を聞いてほしかっただけ。ううん、勇気が欲しかったのかも。私の指示一つで早ければ明日、薬は世の中に出回り始める。まだ確認していない潜在的リスクも山ほど思い浮かぶし、被検体として協力してくれた女の子にいつ薬を打ったらいいかのタイミングも決まらなくて、わからないことだらけなのに。あんなに人の上に立つ立場や責任を持って決断する立場を嫌がっていた私が、今や実質的な所長だよ。おかしいよね。でも、これ以上あなたみたいな不幸な人魚を出したくない」
手から伝わってくるぬくもりが全くなく、鼻の奥がつんとしてイザベルは立ち上がった。
「じゃあ今日はこれくらいで帰る。また来るね」
イザベルは逃げるようにその部屋を出た。
「もう帰るのか」
老人が声をかけてきたが、無言で会釈だけ返し、建物の外へ出る。風の中に今にも雨が降り出しそうな湿り気が含まれていた。




