10 アイリーンの過去
「あまり広くなくて申し訳ないけど、人魚警察の息がかかってないから安全だと思う」
イザベルはニコルにアパートの鍵を渡した。街はずれの忘れ去られたようなボロアパートの廊下に2人は立っていた。郊外の山裾に建てられた空室だらけの古いアパートで、海と工場の排気ガスの臭いが遠い。5階のフロアなので、廊下からは灰色に煙る街が一望できた。薬が完成し、研究所では大量生産をする必要が生まれ、物置のスペースが必要となったため、そこに寝泊まりしていたニコルは、研究所の外に新たに生活拠点の部屋をもらうことになったのであった。
「家賃や光熱費はどのくらいですか?」
「いや、あなたは薬の開発にすごく役に立ってくれた。ずっと行き詰っていた開発が三か月弱で見る間に解決するなんて、いくらお礼をしても足りない。給料が出せないのが申し訳なくなるくらいだよ。給料は薬が売れないと出ないけど、それまでの生活費は私が持つ。もちろん、薬が売れたらそれ以上に今までの働きのことも含めてお礼をする」
「何から何まですみません。ありがとうございます」
ニコルは頭を下げた。ふと、自分以外の研究員も無給で働いていたことに気づく。イザベルは彼らに対しても自分にするように、生活の面倒まで見ているのだろうか。それなら、その資金はいったいどこから捻出しているのだろうか。
「あの、お給料とか、僕には本当に少しで大丈夫です。眼鏡も新しく買ってもらいましたし。他の長く研究してきた皆さんに還元してください」
「あなたは金の心配をする必要ない。あなたの状況に付け込んで無理やり引き入れたのは私だし、私は私がやりたいから薬を作ってる。だから私が研究以外の問題は解決する」
突き放すような声色に返すべき言葉が思い浮かばず、ニコルは黙った。
イザベルは手すりの上に腕を組むようにして街を見下ろした。霞の向こうでマリドールがゆっくりと開いていくのが見えた。今日も秘密研究所ではやるべき仕事が山のようにあり、全員が鬼気迫る表情でピリピリしていたが、遠くから見下ろしてみれば、遠くの世界の出来事のように感じられた。それほどまでにこのアパートは、俗世から切り離されているような静けさに包まれていた。
ニコルもイザベルの横に立ってしばらく街を見た。ちらりと横目で見ると、イザベルの横顔は隈が目立ち、実年齢よりいくらか老け込んで見えた。ニコルの頬をゆるやかな風が撫でた。久しぶりに出た外は、あいかわらず天気が悪く、空はどんよりと曇っていたが、雨は降っていなかった。
「あの、この鍵、試料保管室のものなんですが、返したほうがいいですか?」
鍵束としてアパートの鍵とまとめるか迷ってニコルは聞いた。
「まだ持っていたい理由でもあるの?」
「アイリーンと深夜にレコードを聴くルーティンが出来ていて」
「ああ、被検体Iね」
「被検体Iって、もう薬はできたんだから彼女は被検体を卒業してもいいじゃないですか。今度は彼女は薬を提供される患者の一人になるんですよ」
イザベルの言い方にむっとしてニコルは言った。
「彼女を愛してるの?」
イザベルは街の方へ向けた視線を逸らすことなく聞いた。
「え、あ、愛してるかですか? ぼ、僕はただ、彼女を一人の人として扱っていたいだけで、実験道具として必要以上に身体や尊厳を傷つけられたり、精神的に辛いことを味わって欲しくないと思うだけです」
ニコルは一息に言った。耳が少し熱かった。
「そう。あなたは人魚の恋歌の伝説を知ってる?」
「恋歌?」
「人魚は海中に潜み、人間の心を惑わす歌を歌う。そして人間を操ったり、船を沈めたりする。船乗りの中では今でも有名で、実際に歴史上ではいくつもの船が行方不明になったり、原因不明の沈没事故に遭っている」
「おとぎ話ですよね」
「そうかな? 人魚は死体が溶けてしまうから解剖できない。科学がこれだけ発展していてもまだまだ解明されていない謎は多いんだよ。100年に一人のペースで、恋歌の術を使える人魚が生まれると言われている。人間に自分を愛させることができれば、陸上の人魚として生きやすくなるだろうし、進化の過程としても十分納得感がある」
「アイリーンがそうだとでも?」
「さあ、わからない。あなたが彼女を愛していないならそれでいい。ただ、感情の深入りはやめておきなさい」
イザベルは廊下を曲がり、アパートを出ていった。ニコルは黙ってその背中を見送った。
アイリーンの歌が静かな試料保管室に響く。今日も『深海』を口ずさんでいた。薬が完成したらしいことは、今朝、鱗を剥ぎに来たイザベルによって知らされていた。おそらく自分が薬を注射されるのは、薬を大量生産し、販売し、その売上が入って、全てが落ち着いた後だろうということはわかっていたので、イザベルの報告は、大まかな将来の見通しが見えたという程度の価値でしかなかった。
アイリーンはすっかり結合しきった両足をうねらせるように動かして水槽の中を泳いだ。スピード感を持って、まるで熟練の服飾氏が裁ちばさみで布を切り裂くがごとく身体が水を割って進んでいく。陸上で生きていられる時間はもう長くないのだろうということが自分でもわかる。水槽の中を大きく使って泳いだせいで、身体につながれた点滴のチューブが絡まる。
チューブを丁寧に解きながら、アイリーンは3年前のことを思い出していた。3年前の、両親を失い、被検体としてこの秘密研究所に来た悪夢のようなあの日のことをアイリーンは今でもありありと思い出せた。
アイリーンが物心つくころには、人魚である父のロドニーはすでにかなり人魚化が進んでいた。硬い鱗が皮膚を破って出てくる痛み、骨格や内臓が変化していく身体の不調など、薬で紛らわさない場合、人魚化はかなりの苦痛が伴う。アイリーンが覚えている父の姿は、苦しみながらベッドに臥せっている姿の記憶ばかりだった。発作のように苦しみがランダムな間隔をおいて起こるため、一度よくなっても安易に外に出たり、仕事をすることは難しかった。人間である母は父をいつも甲斐甲斐しく世話していた。女手一つで家族を支えるだけの生活費を稼ぎ、帰って来てからは氷嚢を取り換え、ペンチで鱗を抜いていた。アイリーンの記憶の中で母とは、夜に一人ですすり泣いている姿ばかりが残っている。
まさに禁断の恋だった。シレーンのコミュニティで生まれ、出自を隠して建設現場で肉体労働者として働いていた若き父と、たまたまその現場の近くの大学に通っていた母は恋に落ち、その燃え上がるような愛の結晶としてアイリーンが誕生した。永遠の愛を誓い合った2人は、家族全員ずっと一緒にいるために人間になる薬の開発を夢見るようになる。2人はお互いの家族に迷惑がかからないように縁を切り、2人で秘密研究所を立ち上げた。ここから人間の社会からも、人魚の社会からも隠れるような生活が始まった。しかし、ノウハウのない素人にとって新薬の開発はすぐできるようなものではなく、やきもきしているうちに父の人魚化が激しくなってしまい、そんな時にアイリーンの腕に鱗があることを発見して2人は絶望した。もはや、のんびりと薬を開発している暇はない。薬の開発をいったん休止し、対処療法的に人魚化の症状を少しでも軽くすべく、家族でその道で有名な医者の元を訪ねることにした。
「お医者さんがきっと治してくれるわ」
列車で遠くの街に向かいながら、母が祈るように何度も父にそう言っていたのを覚えている。
悲劇はその後すぐに起こった。父は全身を覆うようなマントを着ており、その隙間から鱗を見られたのか、それとも列車内での会話が聞かれていたのか、降り立った駅には人魚警察が待ち構えていた。二人組の若い青年が素早く眼前に走り出て来たかと思うと、拳銃で父の胸に銃弾を撃ち込んだ。悲鳴が上がる。細かい泡と何枚かの鱗が宙に散り、父が倒れこむ。フードの下から現れた真っ白な髪と、顔を覆うように生えた鱗に、周囲の人々はパニックになって逃げまどった。
「ロドニー! 嫌! 目を開けて!」
目の前に広がるショッキングな光景に呆然として立ち尽くすアイリーンとは対照的に、母はすぐに父に駆け寄って胸に抱く。硬い鱗のおかげかまだ息はあるようで、少し身体が動き、うめき声のような音が聞こえる。
「退いてください、奥さん。人魚をかばうのは悪魔をかばっているのと同じですよ」
人魚警察の青年が2人で挟み込むようにして父に銃口を向ける。彼らの腕に、人魚が逆さ吊りにされている図象が簡略化されたものであろう入れ墨が彫られているのが見えた。人魚警察のシンボルだった。
「誰か! 誰か助けてください! 夫が死にそうなんです! お願いします、愛する人なんです!」
母は泣きながら叫んだが、周囲の人間たちは誰一人一歩も動くことはなく、ただ遠巻きに見ていた。誰もが、少しでも音を出したら自分が厄介ごとに引きずり込まれるとでも思っているのか、あたりはたくさんの人がいるにも関わらず、ぞっとするほど静かだった。
「退いてください! 人魚はあなたを惑わしていただけだ。人魚は我々人間に害をなす悪魔の存在だ! ゆえにそれを守ろうとするならば同じく粛清する!」
人魚警察は声を張り上げる。固まったままのアイリーンは、半狂乱になって血走った目であたりを見回す母と目が合った。
「退くのか退かないのか! これが最後の警告だ!」
母はくしゃりと顔をゆがめ、最後に笑ったような顔をした。唇が動く。
『巻き込んでごめんね』
母は父に向き直ると、その身体を強く引き寄せ、抱きしめた。母の意思を確認した2人がほぼ同時に発砲し、乾いた銃声が鳴る。母の肉は千切れて飛び散り、父のものと混ざり合った。すべてがスローモーションのように見えた。瞬きすらできないまま、2人は混ざり合うように折り重なって倒れ、やがて父の身体だけは溶け、服だけを残して母と混じりあい、赤黒い泡になった。
「人間を粛清すると片付けが手間だな」
人魚警察はぼやきながら、人一人分がちょうど入るくらいのサイズの黒い袋に母の死体と父の服を手際よく詰めこむと、一人はそれを担いでどこかに消えた。もう一人はモップとバケツを持ってきて血だまりを綺麗に掃除した。そのころにはもう、先ほどの凄惨な出来事が嘘のように駅構内には人々が往来していた。血が拭い去られた床は、何事も無かったかのようにたくさんの人々の靴で踏まれ、すぐにどこが現場かもわからなくなった。
人魚警察は速やかに手際よく、目立つことなく異端者を粛清して人間社会の平穏を守っていた。
アイリーンは通行している人にぶつかられてはじめて金縛りから解放された。よろけながら駅の外に出る。不思議と涙は出なかった。涙を出すための蛇口の栓がすっかりどこかに消えてしまったかのようだった。ただ、愛が招く悲劇を淡々と噛みしめていた。
アイリーンは丸二日かけて徒歩で自分の生まれた街、アンブラマーシュまで戻って来た。人魚警察が来ている可能性を鑑み、自宅に戻ることはしなかった。アイリーンにとって、生きることが許された場所はたった一つだった。アイリーンはまっすぐに父の作った秘密研究所に向かい、ドアを叩いた。
「私を被検体としてここに置いてくれませんか」




