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深海  作者: 岡倉桜紅
1/16

1 ニコル

これをアップする前に、ChatGPTに読んでもらった。

AIの胸を打ってもしょうがないのかな。

 紙の上でインクが掠れて、ペンを置いた。今朝からずっとペンを握り続けていた手は少ししびれていた。ニコル・エバンスはペンを置いて一つ伸びをした。彼の目の前の机には大量の本と今書き終えたばかりの論文の紙束が山を作っていた。牛乳瓶の底のように厚いレンズの眼鏡をはずして眉間を揉み、凝り固まった首を回すと、ゴキゴキと骨の鳴る音が静かな図書館に響いた。窓の外にちらりと目をやる。紙が湿気を帯びてきたことからも薄々わかっていたが、外はどんよりと灰色に曇り、細い霧雨が降っていた。

 ニコルはペンとインク壺を片付け、紙の束をまとめて革製の書類ケースに入れ、肩掛け鞄に突っ込むと、山積みになった本を一気に抱えて立ち上がった。返却カウンターにどんと置く。

「返却ですか?」

 カウンターにいた図書館員が聞く。

「ああ」

 ニコルはぶっきらぼうにそれだけ言って、出口へと向かった。ひそひそと背後にささやき声がまとわりつく。

「今は卒論の時期なので、一度返却してしまうと他の誰かがすぐに借りてしまって、もう一度読むことは難しいと思いますけど、大丈夫ですか?」

 図書館員の声が追いかけて来たが、論文は既に完成してしまったので、これ以上資料を借りておく必要は無かった。ニコルは図書館を後にし、霧雨の中を歩いた。赤レンガで作られた大学の建物の間を抜け、校門を出る。校門を出るまでの間、すれ違う学生たちがちらちらと皆ニコルの方を見てひそひそと噂話をしており、まとわりつくような不快感がずっと消えなかった。

 平均よりも低い背丈と、女の子よりも細い骸骨のような手足、本やノートでパンパンに膨らんだ鞄を手放さない。これがニコルの姿だった。この容姿のせいか、他人と積極的にコミュニケーションを取りたがらない性分のせいか、幼いころからニコルは学校という場所において、ノートとインクに向き合う以外の青春を送ったことがなかった。どこか不機嫌そうな物言いと、猫背の下からねめつけるような視線が、学校のいわゆる陽キャと呼ばれる集団にとっては鼻に着くらしく、いじめや陰口はもはやニコルの中で日常になっていた。大学に進学してからは、学生同士の距離も広くなり、あからさまないじめは無くなったと思われたが、ここ数週間ほど、覚えのある嫌な視線の矢が背中に刺さるのをなんとなく感じていた。テストで自分よりも良いスコアが取れもしない癖に、学校と言う勉強をする場で、勉強以外に時間を割くなど愚かなことだとニコルは内心彼らを冷淡に蔑んでいた。

 校門を出てすぐに視界に現れるのは、この国の主要な港、オールドヘイヴン港だった。強い潮風と、風に交じった灰の匂いが鼻腔を冷やす。エンジンの主要動力である石炭をふかす臭いのせいで、大学校舎のレンガはいつも黒っぽく汚れていた。大気の汚れを吸着したかのような灰色の雨に打たれ、ニコルは少し背をかがめて速足で港の横を歩いた。この国の人間は皆、陰気か陽気かに関わらず、ニコルと似たような歩き方で街をゆく。ニコルの生まれたこの国はアンブランといい、海に囲まれた島国だった。海流の影響で一年中空はどんよりと灰色で、十数年前から蒸気機関が発達してからは排気ガスでどこもかしこも煙っていた。

 大きな船の汽笛が鳴って顔を上げると、隣の大陸へこの国の主要生産物である工業製品を届けに、大きな船が港から出ていくところだった。煙った霞の向こうで、巨大な門がゆっくりと開いていく。アンブランのほとんどの港や海岸には大きな壁がぐるりと取り囲むように建てられており、港に出入りする船がある時のみ、海門を開くことで外海とつながる。この壁はマリドールと呼ばれ、何百年も前から存在し、壊れた個所を修繕しながら現在まで利用されている。海門のところでは船が厳しい検問にあっているのだろうとニコルは思いながら少し立ち止まり、霞の向こうのその影を眺めた。

 人魚がさかさまに吊るされている銅像がニコルを見下ろしていた。人魚伝説。それが、マリドールが古くから建造され、存在し続けてきた理由だった。アンブラン島と大陸の間の冷たい海流が流れるこの海域には、昔から人魚が出るという言い伝えがあった。人魚とは、船乗りを魔法の歌で幻惑し、船を沈めるという化け物だった。この国の歴史書には、出港した船が行方不明になったり、原因不明の沈没をする伝説がいくつも残されており、歴史上数度にわたって人魚を絶滅させるために海に毒を撒く駆除が行われていた。天候が悪く、農作物も満足に作ることができず、石炭くらいしか採れるものが無いアンブランにとって、海の道を閉ざされることは長年死活問題であったためである。

「ただいま」

 ニコルはレンガ造りの同じ見た目の家が立ち並ぶ集合団地の家のひとつに帰って来た。外の潮風の臭いとは対極の、豊かで新しい茶葉の匂いが身体を包み込む。

「まあ、お帰りなさい。外、雨だったの? 傘を持って行かなかったのね。大事な論文は濡れてない?」

 奥から母が駆け寄って来て、煤の雨に濡れた上着を甲斐甲斐しく脱がせた。

「平気。書類ケースに入れて来たから」

「そう。進捗はどう?」

「今日でほぼ書き終わった。研究室にいくつかのデータ集計したノートを置いてきているから明日取って来て、空欄に書き込んで、サインを入れれば完璧だよ」

 ニコルは分厚い書類ケースを鞄から出して掲げて見せた。ニコルが取り組んでいる論文のテーマは、人魚についてだった。 人魚は現代でもこの国では単なる都市伝説ではなく、実際に目撃した人が数少ないのにも関わらず、政府が大真面目に討論するくらい現実味を帯びた害獣として認識されている。一番最近に行われた人魚駆除はたった20年前の出来事である。近代の技術発展により人間が潜水艇を発明し、海底の研究が進んだ結果、海底には人魚を殺す毒性を持ったウミユリが生えているということが発見された。船でそのウミユリの上まで進み、魚雷を利用してその植物を海中にまき散らす作戦で海中の人魚はほとんど死滅したとされている。真っ黒なウミユリは爆散し、流れ出した血のように海を三日三晩どす黒く染め、いかにも人魚が生存できなそうな有様になったという歴史的写真は、いまやどの教科書にも載っている。

 ニコルはこのウミユリについて研究をし、ウミユリは人魚にとって毒というより、人魚から鱗やひれを奪い、人間のような肺呼吸にする効能があるということを発見した。海中で肺呼吸を強いられた人魚たちは溺れるため、駆逐する毒として有効であるという結論だった。

「人魚駆逐の研究なら国が認めてくれるし、お父さんも満足するはずね。すばらしいわ。さ、今日のおやつを用意してあるからいらっしゃい」

 人魚駆除に役立つ研究をすると、政府が研究費用を援助してくれたり、特別褒賞をくれる可能性もあり、人魚駆除の研究はすればするだけ得だった。母に命じられるまま高校へ行き、大学へ行き、特に自主的にやりたい学問も無かったニコルにとって、国が推奨しているという特徴は、数多あるテーマから一つを選ばなくてはならない状況で指針として大いに役に立った。

「今年は僕の研究室の中で、ウミユリをテーマに選んだのは僕だけだから、良い評価をもらえると思う。この研究は人魚を人間に戻すメカニズムの解明にもつながるから、すぐに陸上の人魚も駆逐されるはずだよ」

 母は頷き、ニコルの顔から眼鏡を取り、上等そうな生地を使ったスカートのすそでレンズを拭った。ニコルはぼやけた視界の中でリビングへ向かい、椅子に座る。匂いからして、今日はレーズンの入ったビスケット、ガリバルディらしかった。今日の母の機嫌は良い。ニコルの帰宅後、今日の勉強の成果を尋ね、お菓子を出すのはニコルの幼い時から絶え間なく続く母の習慣だった。

「紅茶入れるわね」

 テストの点を見せ、満点以外だとひどく怒鳴られ、時には頬をぶたれることもあった。おやつ没収だけならまだいいが、夕食も出してもらえない日もあった。ニコルが大学生になってからは母に勉強の内容を見てもらうことはなくなったが、ニコルの帰りが少しでも早かったり、インクの減る速度が気に入らないと同じことが起きた。

「ありがとう、美味しいよ」

 母はいつも新茶を戸棚から切らすことはない。一口飲んでから眼鏡をかける。一口目はまだ冷めていないのでレンズが曇る。甘ったるい紅茶が口の中に広がる。ニコルはカップの水面に浮かんだ細かい泡を見つめる。泡はニコルの見ているうちに消えた。

 人間がウミユリを海底から発見したことで、晴れて人魚の脅威から人間が解放されたかと言うと、必ずしもそうではなかった。海中の人魚はほぼ死滅したが、陸上の人魚はまだ生き残っていた。人魚は生まれた直後は人間の赤ん坊とほとんど同じ姿かたちをしており、時間経過とともに、鱗が生え、髪の色が真っ白に変わり、顔のパーツのバランスが変わり、最後に左右の足がつながってひれになり、完全な人魚の姿となる。海中の人魚はこの人魚化と呼ばれる変化が生後数週間で劇的に起こるが、大昔に陸に上がった人魚は進化の過程で、およそ13歳から23歳の間に半年から一年ほどかけてゆっくりと変化するようになった。若いうちは人間と人魚は区別がつかず、陸上社会に溶け込むことができるというわけだった。しかし、人魚は人魚化が始まると、本来の生息場所である海への帰巣本能が急激に高まり、海に入ることで人魚になる。一度人魚になればもう人間の容姿に戻ることはない。一方、海に入れないとだんだん身体が泡になって溶けて弱っていき、容姿が完全に人魚になると同時に泡になって消える。

 ニコルはもはや自分の中では常識のように染み付いた教科書の知識を頭の中で諳んじる。

「きっと皆があなたを褒めて、あなたはお父さんみたいに立派な学者になれるわ。今日はこの後、何を勉強するの?」

 ニコル自身はこの22年の人生で一度も本物の人魚に会ったことはない。人魚が出たというニュースは時折この街で耳にすることはあっても、人魚は死ぬと身体が泡になって溶けてしまうので、死体が写真などに残ることはなかった。研究対象として科学者目線で文献を調査してきたニコルの脳内には、人魚は人の形をした化け物ではなく、たまたま人と形が似ていただけの別の種族だというイメージが出来上がっていた。同じく人魚を見たことが無い人々の多くが信じている人魚像は、科学的とは言い難く、その信じ方はおよそまだ見ぬ怪異を想像した都市伝説のようだった。それは、母が滅多に会うことのない父のすばらしさを脳内で補完しているのとよく似ていた。父と母はニコルが2歳の時に別居をし、今まで状況は変わっていない。事実上離婚のようなものだった。父はニコルとニコルの母に連絡も寄越さなければ、顔を合わせることも無い。ちくりと胸の奥が痛む。こんなことを考えてはいけない。母を傷つけるようなことは言葉に決して出さなかったとしても、心のうちに思っているだけでも罪深い。

「誤字脱字のチェックと、念のため提出する論文の写しを作るよ」

「いい子ね。さすがエリートだわ」

 母の笑顔にほっとする。良かった、今日は間違えなかったようだ。母の言葉で胸の中が安堵で満たされ、まるで紅茶の中の砂糖で身体中が脳の中まで満たされるかのように、今日一日の疲れが消える。ガリバルディをできるだけ早く口に放り込み、ぼうっとするくらい甘い紅茶で流し込むと席を立った。

「それじゃ、勉強してくる」

 ニコルは自分の部屋に入る。ドアはいつも細く開けておく。

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