5.記憶の海に、手作りチョコの思い出を
再び、愛美は板チョコや生クリームなどの材料を取り出した。失敗することを考えて、もうひと揃え買ってあったのだ。
拓がここへ来るのは、7時を上回るころだという。
夕飯は、得意な肉じゃがにする。得意といっても、普通に美味しい程度だと思う。他にうまくできる料理がないので。……いや、まだない、と言っておく。
とにかく、あと4時間程度。肉じゃがとトリュフチョコレートを作る。逆算して計画しないと、間に合わない。
愛美は時計を眺めつつ、考え込む。
「どうしよう……」
拓の、少し茶色くて癖のある髪、優しいまなざし、小さく微笑んでいる口もとが思い浮かんだ。
恋人の面影に、愛美は心を決める。
午後7時過ぎ。インターホンが鳴り響く。事前にラインでやりとりしていた。
拓が来たのだ。
足早に玄関へ向かい、出迎える。扉を開けると、紺色のコートを着込んで、黒いマフラーを巻いた拓の姿があった。
「拓、お疲れさま」
「うん。いい匂い、するね」
拓はにっこり笑う。肉じゃがを作ったのはもう分かっているらしい。
料理をしている間は夢中だったので、気づかなかった。しょうゆやみりんの甘辛い匂いが確かに部屋に充満している。
「温かいうちに食べて」
「そうだね。外、寒かったよ」
拓はマフラーを取り、コートを脱いで、いつも同じ場所にあるハンガーにかけている。
その間に、愛美は食卓を整える。ご飯とみそ汁と肉じゃがを。恋人と会えたふわふわとした高揚感を胸に抱えながら。
拓も器を運ぶのを手伝う。二人揃ってローテーブルに着いた。
「いただきます」
拓はじゃがいもを箸でつつく。
「体が温まるね」
その言葉に愛美も「うん」と応じつつ、にんじんを口に入れる。薄切りの豚肉も、じゃがいもや玉ねぎも、いつものように柔らかく味も沁みていていい感じ。
他の料理もこうだったらいいのに。
愛美がうまく作れるのは肉じゃがだけだった。他にも少しずつできるようになった料理はあるけれど、今のところ肉じゃがのレベルに達したものはない。
互いの仕事の状況など軽く話すが、愛美は気が気でない。
それより、チョコレート、だよね。うまく言えるのかな。
結婚も決まっている相手の前で、今日ばかりは落ち着かず、どきどきしてしまう。
夕飯を食べ終えて、二人でひと通りテーブルを片づける。
そこで愛美は、戸棚にあった紙袋を取り出す。なかには有名メーカーのチョコレートが入っていた。
実は、市販のものを以前から準備していたのだ。
「あの、今日はバレンタインデーだから、チョコレート、受け取ってくれる?」
「用意してくれたんだ。ありがとう」
拓も予想していた通りなのだろう。それなのに、愛美は手に持ったままだ。
「あのね、拓のこと、好きだからね。でも、これは義理チョコなのかな」
「え?」
拓が目をぱちくりしている。
思ったよりあがってしまい、愛美の口からはなかなか次の言葉が出てこない。
「あの、こっちだけ先に渡しておくから」
愛美は拓の前に紙袋を差し出す。
「ありがとう。遠慮なく受け取るよ。えっと、義理チョコ?」
本命じゃなければ義理チョコだと思うのだけど、それでいいのだろうか。
拓の疑問にもうまく答えられない。ただ促すだけ。
「開けてみて」
拓は袋を開き、テーブルの上で箱を取り出して、金色の蓋を開ける。
ハート形のチョコレートがひとつ、他にも上質なチョコレートが綺麗に収まって入っていた。
「これは義理チョコのつもりなの。市販のチョコレート」
「それなら、手作りが別にあるってこと?」
愛美は力なく答えた。
「……そう思うよね」
座りながら、二人で話す。
「チョコレートの匂いがしていたから、分かるよ。融かしたり何か混ぜたりするとか?」
「あ、やっぱり分かるのね」
肉じゃがだけでなく、チョコレートの匂いや気配も残っている。
愛美にも、それは感じられることだった。
何の飾り気もなく告げる。
「実はね、失敗しちゃったの」
「そうなんだ。そういうこともあるよね。でも、初めて手作りしたんだよね? 作ってくれただけでも嬉しいよ」
拓はこうやっていつでも優しく受け止めてくれる。
それがいつまで続くのか、いつこうした拓との関係が壊れるのかと考えてしまって、何を言われても心を閉ざしたくなったときがある。
でも、自分の今の気持ちを信じている。昔の失敗や自己否定の言葉が記憶につきまとっているとしても。
過去の記憶の海に流され、波に呑まれて生きるより、未来の記憶の海を豊かな色で染めたい。穏やかな波ときらきらした輝きに満たされて生きたいと願う。
観覧車から見た夜景の、煌めく街を思い返す。
拓がわたしを選んでくれたように、わたしも拓と一緒に生きていく未来を選ぶ。
プロポーズのとき、拓は自分を抱きしめて、愛していると言ってくれたのだ。
愛美は思い切って、問いかける。
「本命チョコは、これから一緒に作ってもらってもいい?」
拓は答えた。
「もちろん、いいよ。愛美、甘えてくれたんだね」
「うん」
笑顔を見せる拓に、愛美はそっと体を寄せる。ささやくように言葉を添えて。
「拓のこと、愛してる。ずっと一緒にいて、ずっと愛しているから、いつか本命チョコ、わたしが作って渡すね」
愛美は、拓の温もりに包まれていく。
「愛美……待ってるよ。来年でもいいし、何年先でもね」
「うん」
拓にちゃんと伝わった。
愛美の心が弾む。
二人で生きていくということは、それだけ二人にたくさんの時間と機会があるということ。
来年か再来年かいつになるか分からないけど、一人でできるまで見守ってもらうのだ。
拓は、わたしの過去を受け止めて癒してくれたし、今のわたしを肯定してくれる。それに、未来のわたしも信じてくれた。信じて、一緒にいようと言ってくれた。
だから、わたしも自分の未来を信じよう。
結婚していろいろあっても、わたしは大切な拓を愛し続けて、一生を共に暮らせるようにする、と誓う。今は甘えてばかりだけど、きっと少しずついい未来を作れるようになる。
だからいつかは、美味しい手作りチョコも渡せる日が来るはず。
「材料はあるからね」
「そうなんだ」
愛美は拓と一緒にキッチンに並ぶ。
どんな過去を持っていても、幸せになることを思い描いて信じていく。その一歩を恐れずに踏み出そう。
いつか記憶の海が、二人の温かい思い出で満ち溢れるように。
これから二人で作る甘いチョコレートは、記憶を鮮やかに彩るに違いない。
最後までお付き合いくださいまして、ありがとうございました。
本作は、香月よう子様・楠結衣様主催『バレンタインの恋物語企画』に参加させていただきました。
香月よう子さんとは、2019年12月からのお付き合いで、ほぼ5年間にわたってずっとメッセージ交換させていただきました。
本当に親しくしていただいて、大変お世話になりました。
気持ちの整理も必要でしたし、しばらく何も投稿していなかったので、こんな時期になってしまいましたが、企画のタグをつけさせていただいています。
しかも、完全な新作は難しかったので、「タイムマシンは想いに揺れる」https://ncode.syosetu.com/n3986in/のスピンオフになっています。
香月さんは元のお話をとても丁寧に読んで、何度も感想をくださいました。
それで、拓と愛美のバレンタインデーなら、と考えました。
香月さんが読んでくださるといいなと思います。