4.バレンタインデーを迎えて
火事に遭った方の記憶だと、愛美は不安を訴えることで、拓からプロポーズの言葉を無理に引き出したような気がしてしまう。でも、自分のこれまでの態度や心の持ちようだとそんなことがあり得そうだった。
それどころか、愛美は拓からプロポーズの言葉をもらうことさえ、疑念を抱いていた。
記憶を探れば、拓と一生を共にしたいと願いながらも、自信がなくてプロポーズされない自分も何度も思い描いていた。
だから。むしろ、火傷をして不安を訴えてでも、拓から言葉を引き出したかった。本音はそうなんだと思っている。
現実のほうがあまりにも幸せすぎて、嘘のような気がしてしまう。
記憶の海がさざめく。
その暗い大海には、さまざまな自分がいる。
プロポーズされないわたしも。火事に遭ったわたしも。
過去が変われば現在も変わり、未来も変わってしまう。
ある日突然、くるりと夢と現実が反転する。
そうして、自分が思い込んでいたほうが現実になってしまうのではないか。現実よりもやや不幸そうな自分に納得してしまいそうな。
そんな思いに捉われそうだった。
10月のあのときから、すでに3か月以上が過ぎ去っているというのに。この現実を信じていいのか時々分からなくなる。
けれど、愛美はふと気づいた。
拓が自分に与えてくれたほど、わたしは拓に気持ちを込めた言葉を贈っていないのでは。何かしてあげるよりも、言葉をしっかり伝える方が先なのでは。
急に視界が開けたような気がする。
もうすぐ2月14日だ。
バレンタインデー。女性から男性へチョコレートを贈って、愛を告白できる日。
こんなに率直に想いを告げられる機会はない。
だんだんとその日が近づくにつれ、愛美は幾度も考えに考えを重ねた。
この日こそ、自分の気持ちをきちんと告げよう。
肉じゃがを食べたあとに拓がプロポーズしてくれて、結婚の決まっている現実を心配なんかしない。改めて、拓と一緒に生きていきたいという想いを伝えよう。
「でも、うまくできるのかな」
思わず呟いてしまう。
愛美の自信のなさや要領の悪さが頭をもたげる。
それなら、これまでとは違うチョコレートを添えてみよう。
不器用な愛美は、いつも市販のチョコレートを拓に渡していた。手作りなんていかにも失敗しそうだから。
何とかして、今回は頑張って作ろう。特別に作ったチョコレートと自分の心からの気持ちを、バレンタインデーに贈る。
そう決意して、手作りチョコの作り方を調べた。
バレンタインデーは、土曜日。
愛美は仕事の休みの日だが、拓はそうではなかった。
「今度は14日に、家に来てもらえるといいんだけど……」
観覧車に乗った日の帰り道、ようやく口に出すと、拓は答えた。
「それじゃ、事前に夕方用事があるって周りに話しておくよ。急な仕事が入らなければ何とかなると思う」
「うん。ありがとう」
愛美はほっと胸をなでおろした。
拓もバレンタインデーだと分かっていて、わざとそれを言葉にしなかったのだと思う。
昨年も、その日は待ち合わせて、少しばかり高価なチョコレートをさりげなく渡していた。
だけど、これまでとは変えなくては。
たとえ別のわたしが本当にいるとしても、そのわたしとは違うわたしでありたい。
早くから準備しよう、と決めたつもりだった。それなのに、あっという間に当日になっていた。
転勤のため、ひとり暮らしを始めて10か月。
いつまでたってもこの生活に慣れない。適当に朝食をとり、たまった洗濯物を干したり、ちょっとした雑用に気を取られたりするうちに、すぐに時間が経ってしまう。
急いで作らなくては。
愛美は、狭いキッチンでトリュフチョコレートの材料を並べ、慌ただしく取りかかる。
板チョコを適当に刻んで、湯煎する。融かすだけなのに、あちこち焦げ茶色でべとべとになる。なぜ写真はこんなにきれいにまとまるのやら。
作り方のレシピとにらめっこする。
愛美としては、その通りに進めているつもりだった。
生クリームを鍋で温めていたら、突然カタカタと蓋が鳴り、いきなり噴きこぼれてしまった。沸騰する前に火を止めなければならなかったのに。
量が少なくなってしまったかも。コンロの周りがところどころ白く汚れている。
泡立て器で混ぜながらも、何だか不安が。
だんだんレシピの写真とずれていく。
きっと、写真はきれいに撮ってあるだけ。わたしのチョコレートと同じに決まっている。
冷蔵庫で冷やすけれど、レシピどうり固まってくれない。
時間は充分経っている。手順を進める。何だか写真と随分違うようだけど、取り出して手でまとめなければならない。
ぐちゃぐちゃで、とても丸めた気がしない。これに、別のチョコレートをコーティングするのって、どうなんだろう。
疑いを持ちつつ、もう一つのチョコレートを融かしたり冷ましたり、レシピを確認しながらやってみる。
あとは冷蔵庫に入れるだけになった。
時計は、いつの間にか正午を上回っていた。
2時になって、何度目かの冷蔵庫を開く。
チョコレートはうまく固まっていない。何か間違えたかもしれない。
どろどろで正体不明なものが。これを紙カップに入れるのは無理。入れる前に、いびつな形を成すどころか零れてなくなってしまいそうな。
ひとつ、掴んでみたらぐちゃっと潰れる。チョコレートのついた指先を舐めたら、変だった。味が全然しなくて食べられない。
「あーあ」
愛美はため息をついた。
ただの板チョコだったほうが絶対にいい。結局食べられないようなものになってしまった。
窓から降り注ぐ冬の淡い日差しが、傾いてきている。
すでに3時を過ぎていた。
どうせわたしなんて……。
卑屈な自分が顔を覗かせる。すぐに頭を振って、切り替えた。