1.観覧車のイメージ
幼いころ、愛美は観覧車に乗れなかったことがある。
記憶の海からすっと掬いとれるような浅瀬に、その思い出は漂っていた。
遊園地に行く当日、妹のはしゃぐ様子に、父も母も笑顔を見せていた。それなのに、自分だけは何か嫌なことがありそうで、塞いだ気持ちになっていたのだ。
巨大な観覧車には大勢の人が列をなしていたものの、両親はためらうことなく最後尾に向かっていった。並んで、じりじりと列の進むままに待ち続け、前の人が観覧車に乗り込んだそのときだった。
突然言いようのない不安が湧き起こった。
どうしてなのか、今でもよく分からない。
「乗りたくない。乗らない」
自分の順番が来たとき、愛美は全身で両親に訴えた。
不安で怖くてどうにもならなくて。結局、母と妹だけが乗って、父と一緒に観覧車の下で待つことになった。
そのあと、両親からひどく責められた。
「あんなに苦労して並んだのに、何でだめになったの。愛美はいつもそう。もう一緒に連れて行かないから」
いつもそう、というのはどういうことなのか、理解していた。
心のなかが真っ黒に塗りこめられていく。
自分は本当に悪い子なんだと思った。この先もきっと両親にとってだめな人間のままなんだと考えると、どんな小さな希望も潰えた。
「だけど、今も愛美が観覧車に乗れないってことはないよね?」
拓は、静かに話を聞いていたが、唐突にそう尋ねた。
観覧車が怖くなって、乗れなかった。両親から咎められた。
子どものころの記憶から、愛美はそんな話をしたのだ。あまり感情を交えなかったつもりなのに、彼には何となく伝わっている。
「うん。あのとき、何で急に怖くなったのか、分からないくらいだし」
愛美が低い声で返答すると、拓は再び問いかけた。
「そのあと、観覧車に乗ったことある?」
「ううん。一度もないと思う」
「そうなんだ。じゃあ、近いうちに二人で乗ろうよ」
「えっ」
拓はスマホで検索して、にこりと笑う。
「夕方から夜にかけてもやっているところって、この辺にもあるよ」
こちらへ傾けた画像には、夜空を背景に観覧車が弧を描き、幻想的な光を放っていた。
愛美は拓と婚約している。
2年の付き合いの末に、拓がプロポーズしてくれたのは10月のこと。今は年も改まって、すでにひと月になろうとしていた。
年末には、双方の両親にも挨拶に行っている。
どちらの家も、31歳の二人の婚約を受け入れてくれた。挙式の日取りもそろそろ決めようと話が出ているところだ。
それでも、愛美はまだこの幸せが本物だと、信じることができなかった。
愛美は、拓と一緒に観覧車に乗りに行くことに決めた。
互いに仕事の遅くならない日の夕方を選び、二人で待ち合わせた。2月初旬のその日はよく晴れて、真冬にしては暖かかった。
コートを着ていれば、しばらくじっとしていても冷え込まない。列にしばらく並び、時々は言葉を交わしながら待っていると、その瞬間はやってきた。
係の人が「どうぞ」と示すままに、愛美は小さく揺れる入口へ。
不思議なほど何事もなく、観覧車の座席に腰をおろしていた。
「やっぱり大丈夫だった」
あとから乗り込んだ拓に教えたら、彼は優しく微笑んでくれた。
かすかな金属音がして、二人の乗る観覧車は緩やかに上昇していく。
日はすっかり沈み、地上には無数の明かりが灯っている。夜空へと上るにつれ、その光はますます広がっていった。
自分たちの住む街もこの夜景のどこかにある。それに、拓とこれから住む街もきっとあるに違いない。
そう思ったら、煌めく地上の光景が自分たちの世界だと感じられて、愛おしくなった。
愛美はじわじわと感じている。
それは、きっと愛しい人と一緒にいるからだと。
「いい眺めだね」
拓の言葉に愛美は頷く。
「とても綺麗だね。来て、よかった」
「僕も」
言葉もなく、二人で宝石のように輝く街を眺める。
やがて、頂上にたどり着き、観覧車は徐々に降下を始める。機械の音は規則正しく響き、少しずつ日常に戻っていくようにも感じられた。
降りたら、観覧車のことは二人の思い出になっていくはず。だから、愛美は地上に着く前に口を開いた。
「拓は、わたしの観覧車のイメージを変えてくれたんだね」
「イメージ?」
「うん。家族で乗れなかった子どものころのイメージを、拓と一緒に乗ったイメージにしてくれたよね」
「そうしてもらえたら、嬉しいな」
その気遣いに、愛美のなかから温かい気持ちが溢れていく。
記憶の海に浮かぶ観覧車の思い出が、ゆっくり深く沈んでいく。思い起こしては心を暗い闇に呑み込んできた水の塊が、ようやく居場所を見つけたようだ。
「観覧車、好きになったかも。拓と夜景のことも一緒に覚えていられるから」
「よかった。それに」
拓がこちらを見つめて続ける。
「愛美が過去のことを一人で背負わないで、僕に話してくれたのも嬉しかったよ」
その言葉で、愛美の心の温度はさらに上がっていった。
愛美にとって、過去の記憶は暗い海のようなもの。
そんな記憶に、今日のことは明るい色彩をもたらしてくれるだろう。一面灰色に淀んだ海がきっと。
少しずつ少しずつ、拓と一緒に暮らしていく未来が信じられるようになっていく。
幸せが自分の目の前にあることを、そのとき愛美は確かに感じ取っていた。