表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/5

1.観覧車のイメージ

 幼いころ、愛美(まなみ)は観覧車に乗れなかったことがある。

 記憶の海からすっと(すく)いとれるような浅瀬に、その思い出は漂っていた。


 遊園地に行く当日、妹のはしゃぐ様子に、父も母も笑顔を見せていた。それなのに、自分だけは何か嫌なことがありそうで、塞いだ気持ちになっていたのだ。

 

 巨大な観覧車には大勢の人が列をなしていたものの、両親はためらうことなく最後尾に向かっていった。並んで、じりじりと列の進むままに待ち続け、前の人が観覧車に乗り込んだそのときだった。

 突然言いようのない不安が湧き起こった。


 どうしてなのか、今でもよく分からない。


「乗りたくない。乗らない」


 自分の順番が来たとき、愛美は全身で両親に訴えた。

 不安で怖くてどうにもならなくて。結局、母と妹だけが乗って、父と一緒に観覧車の下で待つことになった。


 そのあと、両親からひどく責められた。


「あんなに苦労して並んだのに、何でだめになったの。愛美はいつもそう。もう一緒に連れて行かないから」


 いつもそう、というのはどういうことなのか、理解していた。


 心のなかが真っ黒に塗りこめられていく。

 自分は本当に悪い子なんだと思った。この先もきっと両親にとってだめな人間のままなんだと考えると、どんな小さな希望も潰えた。




「だけど、今も愛美が観覧車に乗れないってことはないよね?」


 (たく)は、静かに話を聞いていたが、唐突にそう尋ねた。


 観覧車が怖くなって、乗れなかった。両親から咎められた。

 子どものころの記憶から、愛美はそんな話をしたのだ。あまり感情を交えなかったつもりなのに、彼には何となく伝わっている。


「うん。あのとき、何で急に怖くなったのか、分からないくらいだし」


 愛美が低い声で返答すると、拓は再び問いかけた。


「そのあと、観覧車に乗ったことある?」

「ううん。一度もないと思う」

「そうなんだ。じゃあ、近いうちに二人で乗ろうよ」

「えっ」


 拓はスマホで検索して、にこりと笑う。

 

「夕方から夜にかけてもやっているところって、この辺にもあるよ」


 こちらへ傾けた画像には、夜空を背景に観覧車が弧を描き、幻想的な光を放っていた。




 愛美は拓と婚約している。

 2年の付き合いの末に、拓がプロポーズしてくれたのは10月のこと。今は年も改まって、すでにひと月になろうとしていた。


 年末には、双方の両親にも挨拶に行っている。

 どちらの家も、31歳の二人の婚約を受け入れてくれた。挙式の日取りもそろそろ決めようと話が出ているところだ。

 それでも、愛美はまだこの幸せが本物だと、信じることができなかった。




 愛美は、拓と一緒に観覧車に乗りに行くことに決めた。

 互いに仕事の遅くならない日の夕方を選び、二人で待ち合わせた。2月初旬のその日はよく晴れて、真冬にしては暖かかった。


 コートを着ていれば、しばらくじっとしていても冷え込まない。列にしばらく並び、時々は言葉を交わしながら待っていると、その瞬間はやってきた。


 係の人が「どうぞ」と示すままに、愛美は小さく揺れる入口へ。

 不思議なほど何事もなく、観覧車の座席に腰をおろしていた。


「やっぱり大丈夫だった」


 あとから乗り込んだ拓に教えたら、彼は優しく微笑んでくれた。


 かすかな金属音がして、二人の乗る観覧車は緩やかに上昇していく。

 日はすっかり沈み、地上には無数の明かりが灯っている。夜空へと上るにつれ、その光はますます広がっていった。


 自分たちの住む街もこの夜景のどこかにある。それに、拓とこれから住む街もきっとあるに違いない。

 そう思ったら、煌めく地上の光景が自分たちの世界だと感じられて、愛おしくなった。

 

 愛美はじわじわと感じている。

 それは、きっと愛しい人と一緒にいるからだと。


「いい眺めだね」


 拓の言葉に愛美は頷く。


「とても綺麗だね。来て、よかった」

「僕も」


 言葉もなく、二人で宝石のように輝く街を眺める。

 やがて、頂上にたどり着き、観覧車は徐々に降下を始める。機械の音は規則正しく響き、少しずつ日常に戻っていくようにも感じられた。


 降りたら、観覧車のことは二人の思い出になっていくはず。だから、愛美は地上に着く前に口を開いた。


「拓は、わたしの観覧車のイメージを変えてくれたんだね」

「イメージ?」

「うん。家族で乗れなかった子どものころのイメージを、拓と一緒に乗ったイメージにしてくれたよね」

「そうしてもらえたら、嬉しいな」


 その気遣いに、愛美のなかから温かい気持ちが溢れていく。


 記憶の海に浮かぶ観覧車の思い出が、ゆっくり深く沈んでいく。思い起こしては心を暗い闇に呑み込んできた水の塊が、ようやく居場所を見つけたようだ。


「観覧車、好きになったかも。拓と夜景のことも一緒に覚えていられるから」

「よかった。それに」


 拓がこちらを見つめて続ける。


「愛美が過去のことを一人で背負わないで、僕に話してくれたのも嬉しかったよ」


 その言葉で、愛美の心の温度はさらに上がっていった。

 


 愛美にとって、過去の記憶は暗い海のようなもの。

 そんな記憶に、今日のことは明るい色彩をもたらしてくれるだろう。一面灰色に淀んだ海がきっと。


 少しずつ少しずつ、拓と一緒に暮らしていく未来が信じられるようになっていく。

 幸せが自分の目の前にあることを、そのとき愛美は確かに感じ取っていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
バレンタインの恋物語企画 ←クリック!↓検索
バレンタインの恋物語企画
― 新着の感想 ―
幼い頃の悲しい観覧車の思い出から、大切な人と過ごす夜の、煌めく夜景の思い出に塗り替わってホッとしました。 言葉選びが美しく、一文一文が優しく染み込んでくるようです。 タイトルからバレンタインの恋物語企…
タイトル、そして冒頭の「記憶の海」という言葉が印象的で、続く幼い日の観覧車の苦い思い出に、胸がしめつけられました。幼い頃の、何となく感じた不安や怖さ、ありますよね。 そうした苦い記憶を抱えつつも、拓…
観覧車に乗れない幼児。 でも、小さい子ってこういう反応することありますよねー……。 (遊園地でジェットコースター見て全力逃走した次男を思い出して笑ってしまった) 遊園地でそんなことで怒るなよ。何しに…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ