第5話 痛みの王
魔導都市ハルセイヌを舞台にした物語も終わりを迎える。
<慈愛の会>という平和主義者たちの集団が、心無いルーン・ゴーレムの軍勢に制圧されていく。<慈愛の会>は「人を傷つけない」という教義を強く守っており、そのため、自衛の手段としての武装すら最低限に留められていた。ダークエルフたちが操るルーン・ゴーレムは無機質で冷酷な殺戮マシンであり、彼らの無慈悲な攻撃が、<慈愛の会>の防衛をあっという間に崩壊させていく。
ルーン・ゴーレムたちは、都市の外壁を破壊し、建物を踏み潰し、避難する民衆を容赦なく追い詰めた。街は血の海となり、恐怖と絶望が支配する。しかし、都市の中心に佇む<慈愛の会>の拠点には、まだ強大な力を秘めた存在がいた。
<慈愛の会>の聖母である。
聖母は、荒廃した都市で多くの人々に希望を与えてきた象徴的な存在だった。彼女は、その強大な癒しの力と慈愛で知られ、あらゆる争いを対話と理解で解決しようと努めてきた。しかし、今回の敵は、心を持たない機械兵であり、対話も理解も通じない。ダークエルフたちの陰謀により、この都市は破滅の危機に瀕していた。
しかし、聖母は絶望しなかった。彼女は、都市の中心部から静かに歩み出て、まるで祈るかのように手を差し伸べた。驚くべきことに、彼女の前に現れたルーン・ゴーレムたちは、次々とその動きを停止し始めた。心を持たないはずの彼らが、まるで聖母の持つ慈愛の力に引き寄せられ、機能を停止していくのだ。
「どうして……」
誰もがその光景に驚愕した。冷酷無比な魔導兵器が、まるで生命を持ったかのように彼女の前で沈黙していく。聖母は一歩一歩前進し、彼女が進むたびに、敵の軍勢が次々と力を失っていった。ダークエルフの皇子も、その場にいた他の敵兵も、この奇跡のような光景を見て、言葉を失った。
しかし、ダークエルフの皇子は直感していた。ルーン・ゴーレムだけではこの戦いを決めることができない。彼女を止めるためには、自分自身が動かねばならない、と。皇子は、今まで常に陰謀を巡らせ、裏から世界を操ってきた。しかし、この瞬間、自らが毒の魔力が満ちた短剣を取り、彼女の命を奪うべき時が来たことを悟った。
彼は闇と共に、静かに聖母に近づいていった。しかし、彼女に近づくにつれ、彼の心に異変が生じ始めた。心の奥底から湧き上がるような、温かい愛と平和への渇望が彼の内面を侵食し始めたのだ。それは、自らの心に長年封じ込めてきた痛みや憎しみを溶かしていくような感覚だった。彼の胸に広がるのは、ただただ平和を望み、誰も傷つけたくないという純粋な感情だった。
「きひ、きひひひ、こんな感覚は……、許せないなぁ」
皇子の心は乱れ、激しく揺さぶられた。彼が長年抱いてきた憎しみと野心、それらすべてが、彼女の慈愛によって無意味に感じられてしまう。彼は自らの心が溶かされ、無力化されていくのを恐れた。自らの決意を取り戻すために、彼は鋭い牙で自分の舌を噛み切り、激痛をもって意識を強制的に引き戻した。
(きひ、ひひひっ、こんな、虫唾が走るような安らぎ、俺に何の価値がある!!)
彼の口の中は血で満たされ、激しい痛みに襲われながらも、皇子は最後の一歩を踏み出し、聖母の胸に深々と短剣を突き立てた。
聖母は、刺された瞬間に目を見開いたが、その表情は変わらず、穏やかで優しい笑みを浮かべていた。彼女は、何も怖くないとでも言うように、痛みを感じることなく、ただ静かに微笑んでいた。その微笑みは、皇子にとって、何よりも耐えがたい屈辱だった。
(終われぇえええ!)
皇子は短剣を引き抜くと、すぐにその場を離脱した。彼は、聖母の死を確認することなく、自らの命を守るためにすばやく退いた。彼は、噛み千切った自らの舌の一部を、聖母の遺体の隣に吐き捨て、彼女の微笑みを無視して立ち去った。
聖母の死は瞬く間に都市中に伝わり、彼女の信徒たちは嘆き悲しんだ。彼女を守ることができなかった罪悪感と失望から、多くの信徒たちはその場で殉死した。彼らにとって、聖母は神に等しい存在であり、彼女の死は信仰の崩壊を意味していた。生き残ったわずかな者たちは、都市を放棄し、魔導都市ハルセイヌを後にした。もはや都市の復興を担う者はおらず、廃墟となったハルセイヌは、二度と再建されることはなかった。
ダークエルフの皇子は、彼の恐ろしい行動によって<痛みの王>と呼ばれるようになった。彼の姿は、人々に恐怖と絶望を植え付け、その名は未来永劫、恐れと共に語り継がれることとなる。




