第4話 愛の蜜
ダークエルフの皇子は、<慈愛の会>に送り込んだ暗殺者たちが失敗したと聞いたとき、最初は単に敵が強力な護衛を抱えているものと考えた。しかし、報告を聞くうちに、彼の考えは大きく揺らぎ始めた。暗殺者たちは護衛に捕らえられたわけでもなく、戦いで負けたわけでもなかった。彼らは一切の抵抗を受けず、ただ自らの殺意が、何か不思議な力によって完全に掻き消されてしまったというのだ。
「皇子、申し訳ございません。どうしても、あの場に近づくと……殺意や悪意が、胸の奥で散らされてしまうのです。まるで心そのものが掻き毟られるような……耐えられない感覚に襲われます。」
暗殺者の声は震えていた。彼らは無慈悲な戦士であり、数々の命を奪ってきた者たちだ。それにもかかわらず、<慈愛の会>の前では、殺すという意志そのものが砕かれてしまうという。
「きひひひっ……面白いではないか。これはただの奇妙な魔法か、それとも……奇跡とでも言うべきものなのか?」ダークエルフの皇子は皮肉めいた笑みを浮かべた。「だが、どちらにせよ厄介なことには変わりないな。こうした集団は規模が大きくなると、必ず内部で派閥争いが起きるものだ。だが、それもないとなれば、手を打たねばならぬか……。」
<慈愛の会>は日に日にその規模を拡大し、ハルセイヌの多くの人々が救いを求めて集まっていた。元々は教会の小さな分派であった組織が、今や都市全体を覆い尽くそうとしている。人々はその教えに心酔し、日常の苦しみや絶望を癒してくれる<慈愛の会>に救いを求めて集まっていたのだ。
しかし、これは皮肉にもダークエルフたちの行動がその拡大を助けているかのようであった。ダークエルフたちの破壊工作や暗殺が都市を混乱に陥れ、その混乱の中で苦しむ人々が<慈愛の会>へと引き寄せられているのである。だが、皇子がそのような意図で行動していたわけでは決してない。彼の目指すのは恐怖による支配であり、慈悲の名を借りた救済ではなかった。
「まるで蟻の女王が蜜を垂らして兵隊蟻を支配するようなものだな……」
皇子は呟くように言った。
彼は<慈愛の会>をじっくりと観察し、その背後にあるカラクリを理解し始めていた。<慈愛の会>の「聖母」と呼ばれるリーダーが、女王のように君臨し、幹部である伝道者たちがその指示を受けて下層の信者たちに愛と救済の教えを伝えている。その教えは甘美な麻薬のようなものであり、人々の心を蝕み、信者として取り込んでいく。
「奴らの愛とやらに近づけば、信者でなくとも虜になるだろう。まったく愚かしい。愛などという抽象的な概念にこれほどまで依存するとは……。」
皇子はその仕組みを理解し、内心では嘲笑を抑えることができなかった。だが、それが強力であることは認めざるを得ない。愛という感情は、人々の心を動かし、結びつける。今や、都市の半分以上が<慈愛の会>に支えられている状況だった。慈愛の母はまるで神のように崇められ、その教えに従う者たちは都市の荒廃をものともしない。
魔導騎士たちの一部も取り込み始めており、傲慢で利権争いに邁進していた彼らの心を入れ替えさせたのだから、その教化力は確かなものだろう。ダークエルフたちが行う拷問よりも遥かに効率的でスマートなやり方ではあった。
だが、ダークエルフの皇子は認めない。
「魔導都市の方陣を利用した複合術か……、その慈愛とやらも、結局は幻術の一種に過ぎない。くだらん……くだらんなっ!」
皇子は悪態をついた後、冷たい笑みを浮かべたまま、部下に命じた。
「ルーン・ゴーレムを動かす。準備は怠るな。聖母とやらは、俺自らが引き裂いてやる」
暗殺や破壊工作では打ち破れない。本来ならば力尽くとやり方は彼の流儀ではなかったが、<慈愛の会>のやり方は、主義を変えさせるだけの嫌悪感があった。




