とある名医が師匠と呼ぶ女についての述懐2
「……これは、手遅れだわ」
「そんな!」
青白い顔で、だらんと力なく四肢を垂らした子どもを前に、師匠はいつもよりも静かな顔で短く告げた。淡々とした冷酷な宣告に、子を背負って山を越えてきたという母親は半狂乱で師匠に取り縋った。
「お願いです、この子を治療してやってください!遠い村から、やっと聖女様のところまで来たのです!どうかお願いです、お金も後で必ず」
「違うわ、お金なんて関係ない。……この子の命は、もう尽きているの」
「そんな……っ!」
絶句した母親は、子の亡骸を抱きしめて声にならない悲痛な悲鳴をあげる。
「だって、さっき、あの、丘のところで…この子は笑ったんです。もうすぐ聖女様のところに着くよって、言ったら」
「……それは」
きっとそれは、最後の吐息であり、笑ったわけではないのだろう。思わず僕はそう言いかけたが、静かに母親を見つめる師匠の横顔を見て口を閉ざした。こういう時に弟子が出しゃばるべきではないだろう。
「私が走ってこればよかったのでしょうか?走って走って、もっと早くここまで辿り着けば、間に合ったのですか!?」
間に合うわけがない。揺らせば損傷が増え、出血が悪化しただけだろう。家で見守っていた方がマシだったかもしれないとすら思うが、さすがにそんなことを口には出来なかった。
内心で憐れむしかできない僕の横で、師匠は淡々と首を振った。
「いいえ、おそらくそれでも難しかったわ。山中で狼の牙に裂かれた時点で、この子の命運はほとんど決まってしまった。……あなたにできることはなかったわ」
だからあなたのせいではないのだと、師匠は静かに繰り返す。
「でも、でも笑ったのです!この子は、さっき、これで助かるよって、言ったら……っ」
現実を受け入れられず、髪を振り乱す哀れな母親は、存在しない希望の糸に縋って胸を掻きむしった。
「……この子はきっと、あなたの背中が温かくて、あなたの声が弾んだのが嬉しくて笑ったのよ」
絶望のあまり、呼吸すらおぼつかない母親の背を、隣に腰を下ろした師匠がゆっくりと摩る。そして冷静な声で、ただただ静かに告げた。
「大好きなお母さんが嬉しそうだったから、嬉しかったのよ」
「あっ、あぁ、……あぁあああああアアアッ」
師匠が告げたのは、ただの想像、いや、妄想だ。
けれど血に濡れた白衣を纏ってもなお静謐な空気を湛えたこの女性に言われると、あたかもそれが真実かのように聞こえた。
「生を終える直前に聞いたお母さんの声が、悲痛なものでなくて幸せだったでしょう」
息のない子に覆い被さって号泣する母親に、師匠が淡々と続ける。慰撫というよりは、むしろ託宣のように。
「こんな、こんな哀れな姿で……痛々しいこの子を抱いて、私は帰らなければならないのですね……ッ」
虚ろな目で我が子を見つめ、聞き取れぬような声で呻く哀れな母親は、果たして山を一つ越えた先にあるという家まで帰れるのだろうか。僕はそう怪しんだ。
「……あぁ、もう……この子と共に……死んでしまいたい……」
虚ろな呟きに危機感を抱いたのは師匠も同じだったのだろう。
師匠は小さく息を呑んでから、子供の横に腰を下ろし、痛々しい傷をそっと手で撫でた。
「ねぇ、お母さん、私はとっても手術が上手なの。この傷も、まるで眠っているみたいに、綺麗に縫い合わせてあげるわ」
「え……?」
そんなことをしても、もう死んだのに、と切れ切れの掠れ声を絞り出す母親に、師匠は「死んでいてもよ」と笑った。
「神の御許で綺麗な姿で、元気に走り回れるようにしてあげるわ」
「……神の、もとで」
思考を失った母親の暗い瞳に、ほんのわずかに光が宿った。
「だから辛いでしょうけれど、どうかこの子を抱きしめて帰って、みんなでお見送りをしてあげて」
「みんなで……」
闇に澱んでいた目はうっすらと涙の膜が張り、汚れた頬を水滴が次々と伝い落ちる。母親は声もなく、淡々とした師匠の言葉に聞き入った。
「そうすればきっと、この子は穏やかに天へ昇れるわ」
「ねぇ、師匠」
日課の備品のチェックや明日の診療の準備をしながら、僕は顔を上げる。そして、普段はやりたがらないくせに、今日はやけに作業に協力的な師匠に声をかけた。
「あなた、死体の傷を縫い合わせるなんて、無駄なこともするんですね」
「……たまにはね。暇だったし」
「へぇ」
直情的で露悪的な表現しかできないこの人が、意外と人情味のある性格をしていると、僕は知っている。方向性と表現が相当ズレているから、人には伝わりにくいだけで。
「人間味がないことばっかりやらかすくせに、たまにやけに人間臭いことしますよねぇ、師匠って」
僕なりの褒め言葉のつもりだったのだが、皮肉だと捉えたのか、師匠は気まずそうな顔で目を逸らした。
「……遺族の悲しみのケアも、医療者の仕事、という考え方もあるわ」
「へぇ、僕はてっきり、そのへんは宗教の範疇かと思ってました」
「うるさいわね、今日はそういう気分だったのよ!」
似合わないことをすると揶揄われていると思ったのか、はたまた、善行を気づかれたくない子供のようなものなのか。
やけに感情的な師匠は、畳まれたガーゼを乱暴に箱にしまいながら、声を荒げて僕を睨んだ。
「ここは戦場ではないのだもの!そこまで厳しく優先順位をつけなくてもいいでしょう?今日は私じゃなくてはいけない処置なんて、何もなかったじゃない」
「そうですね」
今日はくだんの子ども以外は軽傷者ばかりだったから、なんの問題もなかった。
「まぁ、師匠のおかげであの母親は救われたと思いますよ」
感情を波立たせている師匠を横目に、僕は作業をしながら淡々と続ける。
「聖女様に綺麗にしてもらえたのならば、きっと天の国でも綺麗な体で走り回ってくれるって言ってました」
「……あ、そう」
真顔で淡々と単純作業をする師匠の横顔に、僕は目を細める。わざと何かに集中している時は、何かが頭を占めそうな時だ。
「ねぇ、もしかして、もし回診に出るのが一刻早ければ、道中であの子を見つけられたかもしれない、……とか考えてます?」
「考えてないわよ」
嘘ばっかり。
この顔は絶対そういうもしもを考えている。
「無駄ですよ」
「わかってるわ。それにその時間の差によって、別の患者が不利益を被るかもしれない。考えても愚かなことよ」
己に言い聞かせるように語る師匠の口調が淡々としていればいるほど、その内面の嵐が想像された。
「子どもが死ぬのが、そんなに辛かったのですか?」
「…………こどもは、死ぬものではないでしょう?」
沈黙の後で苦々しそうに返す師匠に、僕は首を傾げる。
成人できる子は四人に一人と言われる村で育った僕からしたら、師匠が子供の死にここまで感情を乱されるのは謎だった。子供は大人よりも死にやすい、それは僕にとっては当然の摂理であったから。
「……みんな、天寿を全うできれば良いのにね」
ポツリと落とされた祈りのような呟きに、今度は僕が無言を返す。
死んだ時が天寿なんじゃないかな、と僕は思っていたので。
ある冬。
悲痛な噂を聞いて、僕らは北はずれの村に向かった。
「……これは、酷いわね」
口元を布で覆ったまま、師匠がうめく。
便や吐瀉物がそこかしこに放置されたままの、死臭がする村だった。
僕たちは無言で髪をひとまとめにして布帽子を被り、口と鼻を分厚い特殊布で覆う。師匠が東の国で共同開発したという頑丈な手袋を嵌め、僕らは村に乗り込んだ。
「この村はもう終わりですわ……」
力なく語る村長によると、作物の不作による栄養不足のうえに、流行病が猛威を振るい、子どもは半数以上が死んだのだと言う。
その流行病は、都の貴族ならば、感染してもよほど幼く不運な赤子でもなければ死なないものだった。
けれど、その村の子はすでに半数が死んでいた。
「……吐瀉物と便は、適切に処理しなければダメよ。どんどん広がってしまうわ」
「便所まで行くのもしんどいのに、どうしろと言うんだ。看病の人手も足りない。仕方ないだろう」
「それでもよ!このままじゃ悪化の一途だわ。あなたは長でしょう、村民に指導するべきよ」
「……そんな余裕はないわっ」
師匠はもどかしそうに無言で村長を睨んでいるが、苦しげに吐き捨てる村長の言いたいことも分かる。
清潔の概念がなく、栄養も足りない田舎では仕方のないことだ。
清潔な場所で、十分な水分と栄養がとれれば治る病でも、この場所にはどちらもないのだから。
「あぁ、なんでこんなに人が死ぬの……!」
貸し出された村外れの小屋。
なんとか確保した水で全身をくまなく洗い終え、火を囲んで暖をとっているときに、師匠が呻いた。
「ただの胃腸風邪で、こんなに人が死ぬなんて、あってはならないわ」
濡れ髪を布で拭きながら、吐き捨てる師匠に、僕は苦笑まじりで首を振った。
「いや、よくあることですよ」
田舎ではよくある光景なのだ。地元でも定期的に似た病が流行り、多くの人間が死んだ。
「師匠が昨年改良した薬があれば、少しはよかったかもしれませんけれど、そんなに大きく変わらなかったと思いますよ」
「分かっているわ。根本的な対応が間違っているのだもの、消化管の働きを多少補助しても、大した助けにはならないわ。……はぁ」
「はは、仕方ないですよ。知らないんだから」
僕だって、師匠に弟子入りするまでは、そんなこと考えたこともなかった。
手を洗うなんて考えたこともなかった。川の水を飲む時の危険性を聞かされた時などは目が飛び出るかと思った。村では神童と呼ばれた僕の知識ですらその程度なのだ。
「田舎はこんなもんです。仕方ないですよ。まずは衛生観念を教えるところからですよ、師匠」
「道のりは長いわね……」
長く重いため息が、師匠の口から漏れた。
予防は治療に勝るとは師匠の口癖だが、そのための教育は困難を極める。
「人が無駄に死なない世界にしたいだけなのに」
ポツリと呟く師匠は、いつもより小さく見えた。思わず肩を抱きたくなったけれど、他の兄弟子たちの手前もあり堪える。そしていつも通り、僕は皮肉っぽく肩をすくめた。
「そんな難題、神様でも無理ですよ」
投げやりな僕の台詞に、師匠はため息を一つ返すと、静かに目を伏せた。
「でも、私は……その世界を求めているのよ」
切実な響きを帯びた小さな呟きは、死の村の闇に紛れて溶けた。
感想を頂いて考えていたら、天才というよりも「天才と呼ばれた」の方がイメージに近い気がしたので、タイトル変更しました。
一つの分野に秀でた天才と呼ばれる人も超人ではなく、ただの不完全な(一つ飛び抜けているがゆえに他はポンコツだったりする)人間だよねぇ、みたいなイメージです。
そして「ルイーゼの挫折」「救えない・救おうとしても死んでいく人に絶望するルイーゼ」なども考えていたらこうなりました。
いろいろなご感想を頂くたびに脳内で話が膨らんできます。ありがとうございます。最初は書く予定のなかった人たちの話なので、前作のイメージを崩していたら申し訳ありません……。