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「……悪かったわね」
「構わないよ」
淡々と、そして唐突に告げられた言葉に、僕はおかしさを噛み殺してさらりと返す。
「あの子、泣いていたでしょう?」
「泣いていたね。もう少し言葉を選べば良いのに」
可哀想なくらい落ち込んでいたことを思い出して、少しばかり非難する。すると目の前の美しい顔が気まずげに歪み、視線が逸らされた。
「イライラしてしまったのよ。身勝手だから」
「ふふっ」
その短い言い訳に、思わず吹き出した。
僕の小さな恋人は確かに無知で少々考えが足りないかもしれないが、身勝手ではない。身勝手なのはむしろ。
「たしかに、君はいつも身勝手だね」
「……うるさいわね」
本人もよく分かっているだろう。
天使やら聖女やらと呼ばれている目の前の女性は、僕から見れば大層身勝手で傲慢なおひとだ。
「まぁ、歴史に残る偉人というのは、総じてどこか身勝手なものだからね」
「あら、嫌味かしら?」
長い付き合いの気安さで、僕はくすくすと笑いながら軽口を叩いた。
「まさか、ただの本音だよ」
「どうだか」
包帯を巻き直しながらジロリと僕を睨むのは、白衣を纏う元婚約者だ。今は患者たちも落ち着いているらしく、わざわざ軽傷の僕の処置を請け負ってくれたのだ。
きっと、妹のことが気になっていたからだろう。時たま垣間見られるそんな人間臭さが、外に知られる豪胆さや、あまりにも輝かしい業績と乖離していて面白い。
伯爵家とその領地を、まるっと任せてしまえるくらいには、ルイーゼはメアリーを評価し、信じているのだ。自己評価がやけに低いメアリーには、ちっとも伝わっていないようだけれど。
「賞賛をこめて言っているのさ。君に救われる人は多い。それこそ数えきれないほどに」
「ええ、そうよ。私は医師になるべくして生まれたのだもの」
高らかに歌い上げるように、ルイーゼはかつて僕に婚約の破談を申し入れてきた時と同じことを言った。
「私は、かつて救えなかった人たちを救うためにこの世に生を受けたのよ」
「かつて?……君が昔言っていた前世とやらの話かい?」
懐かしい昔話に、僕は首を傾げる。
「えぇ。私は前世も医者だったわ。とってもポンコツで使えない医者」
「君が?ポンコツ?」
「前世の私は、今ほど能力が高くなかったの」
「信じがたいなぁ」
「ふふ、でもそうだったのよ」
昔から二人だけの時に見せる悪戯っぽい表情で、ルイーゼが笑う。
「前世じゃ毎日寝る時間もなく仕事に追われて、なんで医者になんかなったんだろうって思っていたけれど、うっかり死んでこちらの世界に生まれてみたら、前世の知識が物凄く使えるじゃない!びっくりしたわ」
目をキラキラさせて続けるのは、かつて彼女が生きたという世界での物語だ。僕には御伽話にしか思えないそれを、ルイーゼは事実として懐かしそうに語る。
「それで思ったの。……あぁ、この世界で多くの人を救うために、前世で私はあの学びを得たのだ、って」
「うーん、僕にはやはり、何を言っているのかよくわからないや」
「ふふふっ、良いのよ。聞いてちょうだい。……他に話せる相手もいないのだもの」
家族にすら伝えていないという彼女の昔話は、ひどく奇怪だ。たしかに敬虔な彼女の家族には受け入れ難い話だろう。
そんな話を聞かせてもらえる程度には信頼を勝ち得た己に、僕は満足している。
「私の業績は、私の力ではないわ。魔法でもお告げでも何でもない。前世の知識を持ち込んで、この世界の科学や医学の進歩を無視して、私のやりたいように……それこそ身勝手をしているだけよ。でも、神様が私をこの世界に放り込んだのならば、それが神の意思だと信じているの」
強い決意と確信を秘めた目で、ルイーゼは言い切る。見ている僕も、きっとその通りなのだろうと思った。こう言う時のルイーゼはまるで、神様そのもののように、光り輝いて見えるから。
「だから私は、一人でも多くの、たくさんの人を救いたいのよ。身近な人を幸せにするだけでは満たされない。なすべきことが分かっているのに、なせるだけの力があるのに、それを無視して生きていくなんて……ありえないわ」
「そうだね。昔から何度も聞いていたから、よく知っているよ」
人を救いたい。
それがルイーゼの原動力だ。
彼女が願うのは『人を救うこと』の一点のみだ。
たとえ戦場で捕虜となったとしても、敵国で傷ついた人々を救い続けるだけ。
彼女にとってはその地がどこであれ、関係がないのだから。
「助けたい、救いたい、私にはそれができるのに!前世には出来なかったことも、魔法があるこの世界なら出来る。救うことができる!それなのに、それをしないだなんて……そんな飢餓感に震えながら生きていくことはできないわ」
「飢餓、ね……」
善意でも、慈悲でもない。彼女にあるのは、人を救いたいという欲望と飢餓だ。清々しいほどにグロテスクなそれを、彼女は追い求める。
「言葉が激しいかしら?」
「いや、君の生き様をよく表していると思うよ」
「何よそれ」
鮮烈に笑うルイーゼに、幼子のまま大人になったような、狂人の純粋さを感じる。
彼女は決して己を偽らない。
偽る必要がないと信じているから。
「君は欲深い人だからね。その欲が、人を救いたいという、我々人類にとって正しく明るい未来を導くものでよかったよ」
「ふふ、破滅に導く情熱だとしたら、あなたが討ち取ってくれるでしょう?」
「幼馴染を手にかけることはしたくない、気をつけて生きておくれ」
「ええ、肝に銘じるわ。……さて、終わりよ」
処置を終えたルイーゼがあっさりと席を立つ。
「あの子のことは任せたわ。……家族を泣かせようと、誰に何と言われようと、私は私の正義を行く。そう決めているの。私の幸せはこの道の先にあるのだから」
「……そうだろうね。君はそういう人だ」
愛する人を、愛してくれる人を苦しめ泣かせようとも、自分の道を歩まずにはいられない。
きっと英雄となるのは、君のような人なのだろう。
けれど僕は、愛する人に英雄となって欲しいのではない。
「僕はメアリーと平凡で幸せな家庭を築いていくよ」
「ふふ、それがお似合いね」
ルイーゼが楽しそうに笑い、僕も笑い返す。
「僕らは凡人だからね」
僕は、愛する人には僕だけを見つめ、愛して、微笑んで欲しいのだ。
そして僕も、相手を守り、愛し、何不自由のない日々の中で笑っていてほしいと願うのだ。
何か偉大なことを成さなくてもよい、幸せに平凡に暮らしてくれたら、と。
幸いにも貴族として生まれただけの凡人である僕が人生に望むのは、それだけ。
とても平凡で、けれどとても得難い幸福だ。
「お幸せに、かつての婚約者さま」
「あぁ、もちろん。これからもよろしく、未来のお義姉さま」
初恋であった、気高い人と握手する。
振り向くことなく颯爽と去っていく君の頭の中には、きっともう僕の姿はない。
「ルイーゼ、君に神の守護と幸運を」
君は僕を戦友にもしてくれないけれど、幼馴染として、君の未来を祈ることだけはさせてくれ。
どこまでも気高い君の幸福はきっと、この国の美しい未来に繋がっていくのだろうから。
続く「天才と〜」は、主に短編として投稿した「愚かで甘ったれ〜」に頂いたコメントや感想などからフワフワと広がった前日譚やその後の話でしたが、どちらが本編か分からなくなりました。