外科医、午前二時十五分 4
…………あぁ、どうして?
暗い疑惑が頭の中でぐるぐると渦を巻く。
なんで、彼は助からなかったのだろう。
いや、なんで、助けられなかったのだろう。
本当に、私に非はなかったのだろうか?
闇の塊が鎌首をもたげて私に巻きついてくる。頭の中で走り始めた暗い思考を止めることはできなかった。
もっと何かできたのでは?
気づかずに何か失敗していたのでは?
あるいは何か見過ごしていたことがあったのでは?
やはり、彼が死んだのは運命などではなくて……私のせい、なのでは?
……ダメだ。
ダメだダメだダメだ。
考えてはいけない。
そんなことを考えたら、もう動けなくなってしまうのに。
「あー、まぁ、お疲れ!頑張った!」
「っ、はい」
ループする私の思考をぶった斬るように、部長は大きな声で労を労い、私の強張った肩を力強く叩いた。反射的に返事をした私の肩をぐっと強く握り、部長は淡々と続けた。
「今回は、できることは全部やれた。お前にも俺にも、何一つ恥じるところはない。落ち込んでも良いが、落ち込みすぎるな」
「はい……」
覇気の籠った声が胸の底に届く。ぐるんぐるんと底へ向かって落ちていくような気分が、少しだけ地上に引き戻されていく気がした。
「いいか、七海。……今回は、どうしようもなかったんだ。俺が執刀していても、おそらく結果は変わらなかった」
「ぅ、……はい」
部長が最初から最後までメスを取っていたら変わったのだろうかと考えていたのを見透かされたように、部長がじっと私の目を見て言った。
「いいか、術者によって結果が変わるようなモンはそうはない。というか、そんなオペは本来あっちゃならねえんだよ。わかるな?」
「……はい」
私は己を責めようとする心を抑えて、小さく頷いた。誰でもどこでも、一定の質が担保された標準治療が受けられる。それが我が国の誇る医療なのだから。
「いやまぁ、もちろんな、馬鹿みたいに珍しい難病とかな、術者が限られている手術も稀にはある。稀にはあるが、ある一定のレベル以上になれば、一定のクオリティのオペができるようになるはずなんだよ。今回は確実にその基準をクリアしていた」
部長は私から目を逸らさず、力を込めて語る。一言ずつ押し込まれる言葉が私の腹の底にずしりずしりと落ちていった。
「そんでな、そこからはどれだけ丁寧にやったかと、運だ。神頼みも必要だ。お前はとりあえず今日のところは反省も後悔もどっかに置いておいて、祈れ。反省はもう少し冷静になってからで良い」
「えぇっ!?祈れって……」
思いもよらない非合理的な助言に、意表をつかれる。久しぶりに「はい」以外の言葉を喋ったが、結局そのまま言葉を失った。
私の脳裏には、死んだ患者と家族たちが叫んでいた。
そんなことで誤魔化すな、と。
「神様なんかいませんよ!いたら、あんな若い人が死ぬわけない。そんな過ちが許されるわけ……ッ」
「神様が常に俺たちにとって正しいことをしてくれるとも限らねぇだろ?」
「なっ」
私が腹を立てて言い放った暴言を、部長はしれっと肯定する。
神は間違えると。
いや、神の正しさが私たちと一致しているとは限らない、と。
「でも、神様にとっての正義とずれてるなら戦うしかないさ」
そう言い切ると、部長はぐっと背筋を伸ばして、両腕をぐるりぐるりと回した。コキコキと首を左右に曲げて、体の凝りをほぐした部長は、固まっている私を見て小さく笑う。
「まぁ、そういうこった。宗教的な信念があるんじゃなけりゃ、どこの神様でもいいから神頼みしとけ。お前が救われるからな。ちなみに俺は定期的に神様にお願いしに行ってるぞ?」
「えぇっ、さすがに部長、非科学的では!?」
「やって損はないだろ。現代医学には、限界がある。俺たちは、しょせん人間だからな」
ははは、と肩をすくめて剽軽に笑うと、部長は私に向かってニヤリと目をすがめてからウインクした。
「ほら、俺の秘蔵ビールやるよ」
そして勝手に部長室に設置しているミニ冷蔵庫から、一本の缶を取り出して渡してきた。いつもガブ飲みしている安い酎ハイではなく、少しお高いビールだ。
「隠してるやつじゃないですか、事務の大婆にバレますよ」
「退勤を見計らって大婆にも献上してるさ」
「うわ」
あまりにも露骨な賄賂に思わず眉を顰めてから吹き出す。こうやってこの人は碌でもない悪さを容認されてきているのだなと思った。これからの時代、隠しビールを見習うわけにはいかないが、まぁ生き方を参考にさせて頂こう。
「じゃあ、……っし、ありがたく飲んじゃいます!」
「いけいけ、一気にいけ!その後は裏の店に飲みに行くぞ!」
バシンと背中を叩かれて、一息に飲み干す。私の荷物まで勝手に背負って、財布片手に立ち上がった部長に私は口を尖らせた。
「格安居酒屋かぁー、こう言う時くらい高い店連れてってくださいよぉ」
「総合病院の安月給を舐めんなよお前」
調子に乗ってくだを巻く私を、部長は侘しい給与明細を見せつけて殺した。本当に私とそう変わらなくて笑うのも難しかった。
「もぉーさぁー……寝ずに働いてさ、必死に救おうと歯を食いしばってさ……ほんと報われないわぁー。……でも今回はいけるとおもったのに…………いやぁ……助けられたと思ったんすけどねぇ……なんで死んじゃうんすかねぇ……」
「そりゃあお前、だから神様に聞くしかないってよ」
ぐでんぐでんに酔って机の上で頭をローリングさせている私に、部長はケラケラ笑いながら言い切った。
「まぁ、後からこうすればよかったかも、なんてのはいくらでも言えるけどよぉ。昨日からの経過をみても、お前は何もやらかしてないんだ。やり直したとしても、たぶん同じ選択をするだろうなってくらい、この状態でのベストを選んでる。どうにもならなかったさ」
部長の言葉に、口をへの字にした私は恨めしげに見上げた。
「でも、ご家族は絶対に納得してないですよぉ」
「理解と納得はまぁ、別だからなぁ。頭でわかっても、感情がおいつかねぇこともある」
それはわかる。分かるのだ。
でも多分、私も感情が追いついていないのだろう。
「……あんなに頑張ったのに……何も失敗してなくて、悪いことは何もしていないのに……ご家族の気持ちもわかりますけど、でも……」
喉の奥に熱が込み上げてくる。唇を噛み締めて、泣き出しそうな心を飲み下した。
「私のせいじゃ、ないのに……人殺しとか鬼とか……憎悪を塊でバコーン!とぶつけられて……もう、もう……やってらんないですよ……」
「あー、こういう家族説明は、お前初めてか」
ぼそぼそと泣き言を呟く私に、部長は苦笑いしながら天を仰いだ。
「まぁなぁ……ダメージ食うだろうから、呼ぼうか迷ったんだけどな」
ぼそりとひとりごちてから、部長は私を見下ろして言った。
「でも、これからも医者をやってくんなら、助けられないってことも、経験しろ。これは俺たちにどうにかできることだけじゃない。どうにもならないこともあるってのを、学ぶのが……いや、叩きつけられ続けるのが、医者の人生だ」
「そんなぁ……って」
励ますでもなく、非情な事実を突きつけてくる部長に、私は体から力が抜けてガンッと机に頭をぶつけた。痛い。普通に痛い。泣きっ面に蜂すぎる。
「あーー!もう、外科医やめたい!」
「辞めたきゃ辞めろ」
「部長が冷たいぃいいい」
辞職願望を叫んだ私を引き留めるでもなく、部長は軽くあしらう。冷たすぎると喚けば、部長は鼻で笑って私を見下した。
「外科医なんて、切った張ったの野蛮な商売なんだ。繊細メンタルじゃやっていけねぇぞ。道変えるなら早めにしろよぉ」
「うわぁあああ!その自信たっぷりの顔、めっちゃ腹立つー!部長のナルシスト傲慢ジジイ!」
「はん、のぞむところだ」
私のガキくさい暴言をいなして、部長は口の端をあげて笑った。まるで親に甘える反抗期のガキのような口の悪さを、この荒っぽいけれど度量の大きなオッサンは受け止めてくれるのだ。そしてついでに、煽り返してくる。
「自信がなくてどうする。科学で寿命を引き延ばして、運命に逆らおうとする仕事だからな、医者ってのは。傲慢じゃなきゃやってらんねぇよ。己に自信も持てねぇ無能はいらねぇ」
「……くそぉ!」
返す言葉もなく、ウーウーと犬のように唸ってからバタンと机に突っ伏した。私はバンバンと安物机を叩いて、子供のように抗議する。
「傷ついた部下に寄り添う心のない対応!パワハラでクレーム入れますよ!?」
「俺、ハラスメント対策委員長だから」
「暴行部長のくせに!この病院狂ってますね!」
若い外科医や研修医たちを我が子のように可愛がる親分肌のこの人は、面倒臭がられつつも一応人望があるので、そういう役職についているのだ。可愛がり方が乱暴極まる暴力野郎のくせに。
私がダラダラ不満を呟いていると、部長はケラケラ笑って肩をすくめた。
「まぁ安心しろ。こんなことは、滅多にないからよ」
「そうすかねぇ」
不信感丸出しの私に、部長はゴリラのように胸を叩いて頷いた。
「おう!また救って救って救いまくる、医者のやりがいを取り戻して行け」
「部長、ポジティブぅ……」
「言霊だ!信じてけ!」
力強く能天気な言葉に、私はわりと安心した。
なんだかこれからは、全部うまくいくような気がしたのだ。
さて、しかし。
残念ながら、部長のポジティブな言霊は実現されなかった。
そこからしばらくは、厄年なのかってくらい、そんなことばかり続いたのだ。
いや、私だけじゃない。
手術中に突然機械が壊れたり、停電になったり、もう大丈夫と思われていた患者が急変したり。
さすがにそろそろ医局総出でお祓いに行くべきか、なんて話題が出てきた頃。
私が厄をまとめて引き受けることになった。
「飲んでいなきゃやってられないわ!」
いろんな不運が重なって、院内を駆けずり回る羽目になった七十二時間連続勤務明け。
もうやってられっか!と、医局に隠されている部長のビールを勝手に三本空けた。
「明日から二連休!飲むぞ!」
飲みまくって何もかもパーっと忘れるぞと気合を入れて飲み屋に向かっていた、その時。
「走らないで、やめてぇーーー!」
甲高い絶叫。振り向けば、お腹の大きな女性が買い物袋を放り出して走り出していた。その先には、二歳ほどの男の子。
「え、なっ……バカかッ」
女性の声に振り向くことなく、子供はそのまま道路に飛び出した。思わず全力で子供を追いかけて、引きずり戻し、そして。
ガンッ……ドンッ
聞いたことのない鈍い衝撃音の後で、体に大きな衝撃が走った。
「ぅ……」
アスファルトのくすんだグレーの上を血液が赤黒く流れていく。自分の体から命がダラダラと出て行くのを見ながら、私は左目だけで空を見上げてうめいた。
「……まさか、……これ、死ぬのか……?」
体が動かず、意識は朦朧とする。
遠くに飛んでいった眼鏡を無駄に視線で探し、諦めた。
「まぁ……じ……かぁ……」
号泣する子供と悲鳴をあげる大人。遠くから聞こえるサイレンの音。幸いなのはここが病院の真裏ということか。いや、どれだけ近くてもちょっと無理かもしれない。だってもう体動かないし。ほぼ意識ないし。
「まだぜんぜ、ん……一人前の……いしゃじゃない……のに……」
睡眠も娯楽も放り出して頑張ってきたのに。悔しい。悔しすぎる。もし目が覚めたら絶対、……。
『大丈夫ですか!?意識あります!聞こえますか?お名前は?言えますか?』
「とりあえず……ぶちょおは……こえたかったな……ぁ……」
『会話できません!……だめだ、意識なくなりました!あ!この人裏の病院の医師みたいですよ、首から職員証下げてます!』
『ってか外科の先生ですよ、その人!先週会いました!てか昨日も救急にいました!』
『ここの病院、搬送可らしい!急ぐぞ!』
返事をしたくても口が動かない。
慌てる救急隊員の声をぼんやりと聞きながら、勤務先に搬送されるのちょっと恥ずかしいなどという呑気な考えが浮かぶ。
ついでに、「これで死んだら、私の辞世の句は部長かぁ」なんてことも思った。
「……ふっ、」
笑いたかったのに、喘ぐような息が吐き出された。肺がやられているのかもしれない。
体の感覚はないまま、ふわり、と体が浮いてストレッチャーに固定される。
音すらも遠のいていく世界の中で、私は意識を手放した。




