外科医、二十六時十五分 1
ピピ、ピッ
「はい、七海です」
甲高い音で鳴ったピッチをワンコール半で取り、明瞭な声で問うた。
「手術ですか?」
「……はい、わかりました。五分で行きます」
片耳で通話をしながら、もう片方の手でパジャマのズボンを脱ぎ捨て、仕事用鞄に鍵とスマートフォンを放り込む。
「十五分後オペ開始で大丈夫です!……っはぁ、よっし」
通話終了とともに気合いをいれて両頬を叩いた。
「今日は執刀させてもらえますようにっ!」
洗面台で時計を見れば午前二時だ。二時間ほどは寝たらしく、頭はそれなりに冴えている。
冷水で顔を洗って眠気を飛ばし、刺激の強い歯磨き粉で口の中から目を覚ます。パジャマからジャージに着替えたら髪を一つに括りながら家を出た。目の前の病院まで一分、手術室まで二分だ。
「外科の七海です!遅くなりました!」
「いや相変わらず早えよ、家からワープしてきたのか?」
全速力で手術着に着替えて手術室に駆け込めば、呆れたような声が飛んできた。顔は普通なのにやけに男前と評判の部長だ。
「ワープは流石に無理なんで、家からダッシュして来ました!」
元気満々に返せば、なおさら呆れた様子だ。
「さすが病院に住んでる女と言われるだけあるな。また幽霊と間違われるぞ」
「最近は家帰る時は白衣着てないから平気ですよ」
「白衣なんてきったねぇモン着て帰るなよ、マジで」
「考え事してると脱ぎ忘れるんですよねぇ。……それ、今日の患者さんのCTですか?」
「あぁ」
軽口を交わしながら近寄ってパソコン画面を覗き込めば、映し出されているのは、よろしくない状況が存分に示唆される画像だ。思わず無言で画像を見ていると、そんな私を見た部長が思案げに眉を寄せる。そして眺めていたCT画像から目を離し、部長は私の名前を呼んだ。
「おい七海。厄介そうだが……執刀、やれるか?」
「っ、はい!」
執刀できる!とテンションがあがって二つ返事をかえした私に、部長は片方の口角だけ上げてニヤリと笑った。
「浮かれんな。気合い入れていけ。この患者が助かるかどうかはお前にかかってんだぞ?」
口元は半笑いのくせに、部長は射抜くように私の目を見てくる。覚悟を問う強い眼差しを、怯まずしっかりと見返した。
「はい」
「患者は練習台じゃない」が信条のこのひとは、下の人間がポカをしたらすぐ蹴り飛ばしてメスを奪い取る。
だから実際は、私がどう臨もうが、患者さんにはきっと関係がないんだろう、けど。
「七海瑠花、気合い十分です!ご指導よろしくお願いします!」
こんな深夜に親切にも喝を入れてくれる部長に報いるため、私は拳を握りしめて元気よく言い切った。
「どんな難症例もドントコイです。なんせ私の目標は目指せ部長超え!ですので」
「調子に乗んな!」
「いてっ、へへ!」
べしっと膝に蹴りを入れられ、テヘッとマスクの下で舌を出す。
コミュニケーションが野蛮な部長だが、慣れたものだ。軽い一発を受けて、今夜はこれで終わりかと気を緩めていたら。
「あとな……目標が低いッ!」
「痛っ!」
追加で尻に思い切り膝蹴りが入った。思わず前のめりになって転びかけ、非難の目で部長を見る。
「ちょ、危ないじゃないですか!」
「足腰弱いんだよ!転んで周りを不潔にしたら即オペ室から叩き出すぞ!」
「アンタが蹴ったんでしょ!?」
あまりに理不尽な言い様に動揺して思わず敬語が取れた。だが部長は些細な敬意の喪失など微塵も気にした様子はなく、傲慢そうな腕組みのまま言い放った。
「あと俺を目指すな!俺を目指したら俺は超えられねぇからな!」
「……はーい」
愛がある。ツッコミに愛を感じる。俺を超えろという期待が込められている。クソォ、大人の余裕だぜ。
むむむと唸って己の胸の前で拳を握りしめる私を、部長はフンと鼻で笑う。そして時計をチラっと見ると、私への興味など失せたかのようにオペ室内を忙しげに動き回る手術室看護師に尋ねた。
「なぁ、さっきの話だと、そろそろ上がってくる頃だよな?」
「はい、十分後と言われましたので間もなくかと」
夜間も見事な美貌が翳らない手術室の頼れるお姉様は、作業の手を止めずに返事をする。部長は「おし」と一言返すと周りに向けて声をかけた。
「んじゃ、そろそろ手洗ってくるわ。行くぞ七海」
「はいっ!」
私の気合が入った返事に、部長とお姉様は軽く笑っていた。
手洗いから戻り、清潔なガウンを身に纏えば緊張感が体を痺れさせる。手術台の枕元では、麻酔科のベテラン医師が、今日も無言で準備を万全に整えていた。患者が来たらすぐに始められるようになっている。それだけ今日の患者はヤバイのだろう。
高まる緊張感に少しだけ手が震え、ぐっと掌を握りしめる。これは武者震いだと念じていれば、部長はいつもの声でオペ看に指示を出した。
「ちょっとカルテ開いて。そろそろ採血結果出ただろ」
「はい」
すっとカルテが開かれ、採血結果が表示される。部長はさっと目を滑らして、最後の方で少しだけ目をすがめた。
嫌な予感を抱きつつ、私も部長の視線を追う。途端に目に入る赤く表示された異常値。思わず「うやぁ」と妙な声が出た。こんな異常値は見たことがない、かもしれない。これはこれは……本当に、頑張らないとまずそうだ。そう気を引き締め直した、ちょうどその時。
「お願いします!ERでショックになって、輸血2本目いれてます!」
ガラガラという、けたたましいストレッチャーの音とともに、患者が入室した。顔色は生きているのが不思議なほどの土気色だ。
ドクン、と心臓が嫌な音をたてた。意志とは無関係に体が震える。
目の前の人間の命を自分の手で救わなければならないのだという重圧に飲み込まれそうだ。
あぁ、いつもこうだ。
助けたくて外科医になったのに。
情けなさに押しつぶされそうになっていた私の耳に、低い声が届く。
「おい、七海」
「はい、……いけます」
静かに私の名を呼んだ部長の声に、咄嗟に返事を返す。渦巻きそうな感情を気合いでねじ伏せて、まっすぐ見返した。
「冷静に落ち着いてやれ。焦るな。必ず助かる」
「はい」
患者に「必ず」と「絶対」は御法度の時代と言うけれど、部長はわりと言う。それは大体こういう危険な時で、自分に、いや、自分たちに言い聞かせるように。
「いけます。怖気付いてたら、部長を超えられませんもんね」
私の強気な言葉に軽く瞠目して、部長はふっと笑った。
「その意気だ、若い奴らは目標を高く持て」
「患者番号xxxxxxx、名前××××××。××××に対して××××手術を行います。よろしくお願いします」
緊張に張り詰めた空気の中、手術の開始を宣言する。しかし皮膚にメスを入れる瞬間、ピーと血圧低下を知らせるアラームが鳴り、思わず手を止めた。動揺して指が震えそうになるが、ベテランの麻酔科医は淡々と対応している。数値が落ち着いていくのを目の端で捉え、感情の揺れを押さえ込むためにふぅと息を吐いた。
「……よし」
小さく呟いて視線を上げれば、部長はそんな私を急かすことなく、じっと見て待ってくれていた。ありがたい上司だ。ほんの十秒、けれどその時間を待ってくれる指導者がどれだけ少ないか知っている私は、今日組むのが部長でよかったと心から感謝した。
「七海」
名前だけ呼んで、いけるな?と目で問う部長に、私は唇に笑みを作ってから尋ねた。
「私、いつも通りですよね?」
「あぁ、小憎たらしい笑い顔が想像できる」
私の言葉に、マスクの下で部長がふっと笑う。
無理矢理でも笑えば、落ち着いてくるものだ。一つ息を吐いて、私はもう一度部長の目を見た。揺らぎのない眼差しに背を押され、ぐっと手に力をいれる。
「いきます」
何度目かの宣言とともにメスを走らせれば、部長がすっと介助してくれた。部長の手で美しく示される道を無言で切り進める。あっという間に開かれた腹腔内は想像通りの惨状で一瞬息が詰まったが、部長は私からメスを取り上げなかった。
「大丈夫だ。……さっさと助けるぞ」
「はい」
そこから四時間、私がメスを止めることはなかった。
「朝日が眩しいー!」
さて、今回の手術は、なんとかうまく行った。あとは患者さんの生命力と運に任せるしかない。集中治療室の先生に任せたところで、ひとまずは肩の荷が降りた。
「もうすぐ八時かぁー!今日が土曜日でよかった!お家に帰って寝れる!」
「はっ、若いくせに体力ねぇな。俺が若い頃は朝までオペして、そのまま次のオペに入ったもんだぞ」
「いや私も先週はそれでした。クソしんどかったです」
「情けねぇな」
気の抜けた休憩室で、ぐてっと机に突っ伏してゴロゴロしていると、カンッと頭で硬質な音が鳴った。
「痛った!」
「おい、だらけてないで手術記録の記載をしろ」
「……はーい」
ノロノロとカルテの前に座った私に、部長は手に持つ缶コーヒーを押し付けた。自分はソファにふんぞり返ってココアを飲んでいる。寝る気だ。私にはカフェインを与えておいて、自分はリラックスして寝る気だ。
下の人間の仕事とは思いつつも、わずかに恨めしく思いつつ私はかたかたとキーボードを走らせた。しばらくして。
「あ、そうだ。来月、五年目が異動してくるぞ」
「え?」
唐突に放り投げられた発言に驚き、思わずぐるりと体ごと振り向く。
「え?え?このタイミングでですか?人手不足すぎるから人員増やせー!て意見通ったんですか!?奇跡!」
残業減少万歳!と思って握り拳を突き上げたが、浮かれる私に向かって部長は平然と続けた。
「おぉ、なんか急にな。なんでも前の病院でトラブル起こして居られなくなったらしくてな」
「ええぇ……」
なにその情報怖すぎる。
「五年目同士、同期として頑張れ」
「そんなやつと症例取り合うの嫌ですよぉ」
病院に居られなくなるほどのトラブルって何。どんなトラブルメーカーが来るんだ。
わんわん嘆いて机に突っ伏していたら、部長は苦笑いして首を振った。
「いや、外科医としてはヤバくねぇよ。ただ女癖っつうか、女運が悪いだけだ」
「絶対クソ野郎じゃないですか」
病院に居られなくなるような女性問題起こすなんて、運だけで済ませられるか。絶対本人に非があるに決まっている。
そう目で訴える私に、部長は「はは」と乾いた笑いをこぼした。
「いや、まぁ、本当に本人は悪くないらしいぜ?深夜も早朝もいつもにこやか、物腰柔らかで外科医にあるまじき清潔感、パーソナルスペースが近くて常に相手を肯定するスタンスなもんだから、オペ看が何人も参っちまって、オペ室で仁義なき争奪戦が繰り広げられたとかって」
「クソ女誑しじゃないですか」
真顔で返した私に、部長はニヤリと笑って言った。
「安心しろ、男にもだ」
「全く安心できないです」
そんな人誑しが来たら病棟もオペ室もカオスになるのでは。
うんざりと顔を歪める私をよそに、部長はスマホで連絡用SNSを開く。おそらく医局のお偉い方からの連絡なのだろうが、画面にはポップな骸骨のスタンプが「ヨロシク!」と吹き出し付きで踊っていた。人事連絡が気安すぎる。
「えーっと、名前は……大瀧瑛士、知ってるか?」
「オオタキ……エイジ……あぁああああっ」
部長の口から出た、無駄に聞き覚えのある名前に、私は思わず机に突っ伏した。
もうちょっと調べて書けというお声が聞こえてきそうですが……ふんわりでお許しを……。




