ひねくれ者が遺した言葉4
「あーあ、いつになったらタダビトに戻れるのやら」
枕にもたれて嘆く師匠は、ぼんやりと宙を見る。
その顔に浮かぶ翳りは、疲れなのか呆れなのか、はたまた諦めなのか。僕には読みきれなかった。
だから僕は、単純に事実だけを明快に口にした。
「死んでも無理だと思いますよ」
「えぇー」
途端にうんざりとした呻き声が上がる。非難がましい視線に、僕は同じ答えを返した。
「無理だと思いますよ」
「なんでよ。死んだらただのひとつの魂よ」
死んだら安息の日々ではないのか、神の教えはどうしたと、この国の宗教を持ち出して騒ぎ立てる師匠に、僕は肩をすくめて返した。
「生きてる人間たちにとっては、死んでも師匠は世紀の天才にして天から遣わされた聖女ルイーゼですよ」
「ふふ、……稀代の悪女、じゃなくて?」
「はぁ?」
思い出したくもない最悪の二つ名に、僕は不愉快をあからさまにして眉を吊り上げた。
「ふざッッッけんなって話ですよ」
存分に悪意を込めて吐き捨てて、僕は皮肉っぽい笑みを浮かべる師匠をぎろりと見上げる。
「そんなこと言うのはね、物事をわかってない馬鹿と、誰かに責任を押し付けたい屑だけです」
「エディったら、王侯貴族の偉い様達相手に、随分と言うわね。不敬発言よ?」
「知りませんね」
僕は青筋を立てながら言い放った。不敬とか知るか。
僕が尊敬を捧げるのは、目の前の痩せた老女だけなのだから。
「頭の悪いやつを尊敬するのは無理なんですよね性分として」
「あっははは!」
師匠は面白そうに笑っているが、あの時のことは少し思い出しただけで腹が立つ。怒りのあまり吐き気すらしてきた。くそ、健康に悪すぎる。
「あのカスみたいな奴らが政治を取り仕切ってるのかと思うと、どこの国も碌なもんじゃないですね。さっさとくたばればいいのに。もちろん師匠の開発した薬は一切使わずに苦しんでのたれ死んで欲しいですね」
「あんた、ほんっとうに口が悪いわねぇ!?」
あの頃、師匠を追い詰め疲弊させたやつらを、僕は死ぬまで決して許さない。いや、死んでも許せない。
そう息巻いていたのに、師匠は笑い転げた後、涙まで浮かべてしみじみ呟いた。
「本当にイイ根性してるわねぇ、さすがは私の可愛い一番弟子だわ」
「……お褒めに預かり光栄ですよ」
そんな言葉で、僕の怒りはしゅんと簡単に鎮火する。
「でも、いい歳こいたジジイに対して、可愛いはないでしょ」
「あら、私はもっとバアサンなんだから別にいいでしょ」
「まぁたしかに師匠はババアですからね」
悔し紛れに呟く憎まれ口。
初めて出会った時から、僕はこんなふうに、師匠からたまに与えられる飴玉のような言葉に転がされてきた。
僕は照れ隠しに当然のような顔で飴玉をポンと口に放り投げて、ガリガリと噛み砕く。まんまと転がされているくせに、当たり前のようか顔で受け流して、ふざけた言葉で打ち返すのだ。
「こらエディ!そこは否定しときなさいよ。というか師匠を婆あ呼ばわりするのやめなさいよ」
「ははっ、自分で言い出したくせに」
「もー!やだやだ、可愛かった十五歳のエディがこんなクソジジイになるなんて」
「あんた、クソはないでしょ!?」
馬鹿馬鹿しい会話だ。
楽しくて無駄で無意味で愉快な、他愛ないおしゃべり。
こんなことばかりして、僕らはもう半世紀以上経ってしまったのだ。
「あのね師匠、僕は本気で心底怒ってるんですよ。師匠に専門外のことやらせようとした奴らのこと。あんな余計な仕事増やさなければ、師匠はもっと仕事ができたはずなのに」
「えー?もういいわよぉ、十分でしょ?私、医学分野では空前絶後の仕事人だったはずよ」
「まだ行けました」
「もう行きたくないわよー」
ぐだぐだと背もたれのクッションに沈んで管を巻く師匠に、僕はキッパリと断言する。師匠はもっともっと偉大な仕事が出来たはずなのだ。あの意味不明な言いがかりで、師匠の時間と気力と体力が消費されなければ。本当に悔しい。
「はぁ、あんたまでそんなこと言って。もう死ぬだけなのに、まだ仕事しろってあちこちから言われるし。ただの呆けた老女になりたい」
「無理ですね」
「無理なの?」
「あなたは生きた伝説ですから」
本当にそう思う。
無理なのだ、この人をだだびとにすることは。
人々の脳裏に焼きついた鮮烈な生き様は、さながら神話だ。
ほとんどの人間にとって、師匠はとても同じ人間とは思えないだろう。
目の前のこの人は普通に生きているのに。
「嫌ですか?」
「嫌……じゃないけど、嬉しくもないわ。私は、お伽話の天使様みたいな、奇跡の力なんて使えない。非力な……いいえ、無力なひとりの人間の女なのに、そんなに持ち上げられてもね」
独り歩きする名声を嘆く声にこめられたのは、どこか後悔を感じさせるような、諦念と自嘲。
「私だって完璧だったわけじゃない。手に入れられなかったものだってたくさんあるのに」
「そうなんですか?」
「当たり前よ、ちっぽけな人間だもの」
ふぅ、と深い息を吐いて、師匠はぼんやりと宙を見つめる。あったかもしれない未来と、選択し続けた過去を思い返すように。
「全てを得ることはできない。何かを求めれば何かを諦め、何かを手に入れれば何かを失う。そんなこと、当たり前なのにねぇ」
「……師匠ったら、贅沢ですねぇ!地位も名声も富もこんなに手に入れて、数えきれないほどの偉業を果たしたのに、まだ人生に後悔があるんですか?」
励ますのも違う気がして、わざと揶揄うように問い掛ければ、柔らかい苦笑が返される。
「うーん、……だからこそ、かもねぇ」
「……師匠」
軽口を叩き合う普段とは違った様子に、思わずひそかに息を飲んだ。
何がこの鮮烈な人の心に影を落としているのだろうか。
白い炎のようだった眩い人生に、何か取りこぼした夢があったのだろうか。
手のひらに載せられていたのに、自ら手放した願いがあったとでも言うのだろうか。
「師匠、……もしかして」
思いもしなかった望みが思いついて、ごくりと唾を飲んだ。
「ただの女、に、なりたかったんですか?」
もしそうだとしたら、神はなんて過酷な運命をこの人に与えたのだろうか。
なぜか何千何万の他人の人生まで背負ってしまうくらい、責任感の強い師匠が。
他人ために自分の命を削り出して与えてしまうような、異常に優しい大馬鹿者が。
天賦の才と並外れた能力を与えられながら、この道以外を選べるはずがなかったのに。
「そうねぇ、……でもそうしたら、」
固唾を飲んで返事を待つ僕の前で、師匠は静かに目を伏せて、吐息のような言葉を落とした。
「……った……、からね」
「え?」
いつもの聞き取りやすさだけは抜群な師匠の声とは違って、風に溶けるような声だった。ほとんど聞き取れず思わず問い返せば、師匠はふふ、と小さく笑って、僕を優しく見つめた。
「そうだとしたら、アンタとも会えなかったから、ね」
「……え、っと、まぁ、はい」
「アンタ死んでたもんね、私がいなかったら。私と会えずにいたら、怪我して死んでたか、疫病でくたばってたもんね」
「そう、ですね」
話の展開についていけず、戸惑いながらも頷けば、師匠はくすりと笑った。そして、目尻に綺麗な皺を寄せる。
「だから、まぁ、いいわ」
「……そ、うですか」
「ええ。……でも」
「でも?」
ふわりと言葉を止めた師匠に続きを促せば、老いてなお美しいひとは、静かに笑ってから柔らかく頬を染めた。
「あのね、来世では、ね」
「……し、しょう?」
見たことのない表情に見惚れて、息を止めた。
出会った時にはもう、師匠はとうに大人だった。
ずっと奇天烈で変人で、けれど僕より先をゆく先達であった師匠が、見たことのない少女のような表情を浮かべている。
「ねぇ、エディ」
甘やかに僕を呼んだ師匠は、はにかみながら僕を見て、内緒話のような声音で囁いたのだ。
「来世では、ただの女に生まれて、……アンタの子供を産んであげるわ」
と。




