ひねくれ者が遺した言葉3
「え?」
「あ、いや」
ポツリと、思いついた言葉は気づけば口から転がり出た後だった。驚いたように首を傾げた師匠に、僕は慌てて言い訳のように言葉をつなげる。
「いや、だって、子供が好きでしょ、師匠。今だって妹さんのお孫さんたちと楽しそうに遊んでたじゃないですか」
「なぁにそれ、適当ねぇ」
僕の一足飛びな結論を、師匠は「論理の飛躍よ」と笑い飛ばす。そして年に似合わず若々しい顔で、にやりと片方だけ口角をあげて肩をすくめた。
「私みたいな偏屈婆さんを、物知りの愉快な身内、くらいの気軽さで慕ってくるあの子達が変わり者なのよ」
「いや、まぁ、相当変わり者なのは否定できないですけどね」
師匠の妹さんは子沢山だから孫も多いのだが、その中でもあの二人はやけに師匠に懐いていた。将来は医師になりたいと言って、侯爵様たちを困らせているらしい。
「でも医者志望の若者からしたら、師匠なんか神様みたいなモンでしょうに。一緒にお絵描きなんかしちゃってるじゃないですか。まるで平民みたいですよ」
色とりどりのペンをサイドテーブルに持ち込んでのお絵描きだ。
普通の家庭の、留守番をしている祖母と孫のような微笑ましい光景である。
かたや生きた伝説と畏怖を集める天才医師で、かたや王国きっての影響力を誇る名家のご令嬢たちなのに。
そう口にすれば、師匠はクスクス笑いながら、手元の紙の山からひらりと二、三枚の絵を見せた。
「上の子は先日隣国の大学院から発表された論文を読んだらしくてね、今の生命維持装置に使われている魔力回路図の修正案とやらを考えてきたの。意見が欲しいと言われたから、赤インクでバシバシ指導してあげたわ」
「へ?」
「下の子は解剖図鑑を見ながらお絵描きをしたらしくてね。私に採点して欲しいとか言ってきたから、細かい血管と魔力素の流れまでチェックしてあげたのよ。ふふ、二人とも面白いでしょう?」
「……そりゃ相当変わってますね」
しばらく唖然とした後で僕は乾いた笑いを浮かべた。それはお絵描きどころの話ではない。とことん贅沢な神様からの集中講義である。
あの二人は本当に、色んな意味で相当ズレているというか、変わり者だと思う。
生きながらにしてすでに伝説化している師匠に対して、いくら身内とは言っても気軽すぎる。物怖じせず、初歩的な、それこそお遊びじみた講義や指導を求めるのが凄い。医学を学んだ者ならば、師匠の偉大さ……いや、異常さは恐れを感じてもしかるべきだろうに。
「ま、楽しかったのなら何よりです」
まぁどうでもいいか、と僕は切り替えた。僕はお身内のお嬢さんたちに、師匠に対する態度が無礼だのどうのなんて意見できる立場ではない。そもそも無礼だと思っているわけでもないのだ。凄いなと思っているだけで。
「師匠も寝てるばかりで暇な毎日ですもんね」
「うるさいわねぇ!でも……ふふ」
笑い混じりに首を傾げれば、師匠もわざとらしく顔を顰めてから吐き出す。
「愉快で礼節を保った可愛い見舞客は嬉しいものよ」
「そうですね。最近の訪問客は、厄介ごとを持ち込んでくる鬱陶しい爺いばかりでしたからねぇ」
追い返すにも追い返せないやんごとなきご身分の爺どもを思い出して、眉間に深く刻まれた皺を慌てて揉みほぐす。苛立ちは健康に良くない。こっちの事情も体調もお構いなしに押しかけてくる糞爺のことで不快になって、残量少ない年寄りの体力を浪費してはもったいない。
「本当に、いい子たちですもんねぇ」
なにせ彼女たちは礼儀も節度も弁えているマトモなお嬢さんなので、長居しすぎて師匠を疲れさせるようなことはしない。師匠も面白がっているし、僕もお貴族様とはいえ彼女たちの来訪だけは以前から歓迎しているのだ。
「でもなぁ、師匠とお絵描きかぁ……身内だけあって気軽だなぁ、ほんと。大陸中の医学生からしたら卒倒もんですよ」
「しつこいわねぇ!いいじゃないの。そもそもこれまで、私は誰にも敬えなんて言ったこともないわよ?」
「まぁそりゃね」
確かにその通りだ。
僕らが凡人が、勝手に畏れ敬っているだけで、師匠はどこまでも軽やかに生きている。
どれだけ戦場の聖女として名声が轟いても、疫病を鎮圧して神の使いとまで呼ばれても、大陸中の権力者たちすら膝をつくほどの威光が大陸を貫こうとも、師匠は昔のままだった。体が動くうちは平民として身軽に市井に混じり生活し、旅中は一医者として村の診療所で気軽に包帯を巻いていた。
ただの「おばあちゃん先生」として。
「でもやっぱり知ってたらね、普通は距離とっちゃいますよ。というか、あなたの凄さを知ってる人ほど、ですかね」
先ほど届いた様々な言語で綴られた師匠への書簡の山を思い返す。あの山のほとんどは師匠への助力を願う嘆願だ。
厄介な外向きの仕事は僕が処理することになるから、それぞれへの返事のことを考えると面倒極まりない。
だがまぁ、仕方ないことだ。
「何度も言いますけど、なんせ医者にとっては、師匠は神様ですからねぇ」
そしてそれは、神様の隣にいる僕のお勤めなのだから。
そう思ってしみじみと呟く僕に、師匠はケラケラと笑った。
「あら!ふふふっ、エディったら」
歌鳥の鳴き声のようだった明るい声は、年老いて低くなったけれど。
昔のままのからっとした陽気さで、師匠は剽軽に片目を瞑ってみせた。
「かつて医学の天才と呼ばれた栄光も今は昔。年老いて、手術の腕も聖女の権威も地に落ちたわ」
それを惜しむでも悔やむでもなく、くしゃりと目尻に皺を寄せた師匠は、白くなった髪をかきあげて、あっさりと笑った。
「今の私はもう手術もできない厄介者よ。寝たきりの、ただの老女だもの」
「いやいや」
地位や名声など拘らないという師匠の信念は大変好ましい。だが、師匠の自己評価にはいささか、いや、非常に物申したかった。
「まったく、何を言うやら」
乾いた笑いを浮かべて、僕は首を振った。
「ただの老女はね、大陸中から手紙が届いたりしないし、ほんの半刻の講演会のために大陸中から参加希望者が押し寄せたりしないし、王族が遠路はるばるやって来て御目通り願いたいとか言ってきたりしないんです!」
断言する僕に、師匠はしっくりこないような顔で首を傾げた。
「そうかしらね?」
「そうですよ!」
今ひとつ納得できないらしく、年甲斐もなく口を尖らせている師匠に、僕は冷ややかな笑みを浮かべて詰め寄った。
「あのね、師匠。ひたすらお偉いさんを追い返し、手紙を代筆し続けてる僕の苦労をないことにしないでください」
今日も山のように大陸中から、いや、海を越えた向こうからもお手紙が届いているのに!と僕は本気でイラッとして眉を吊り上げた。
「ごめんごめん、でもねぇ、それは仕方ないのよ」
「何がですか」
ばさりと一掴みの手紙の束を師匠の眼前に突きつければ、師匠は宥めるように僕の手をぽんぽんと叩く。何が仕方ないのかと顔を顰める僕に、師匠は困ったように笑いながら肩をすくめた。
「だってねぇ、エディだけでしょう?」
「はい?」
何が、と問おうと顔を上げれば、柔らかく笑った師匠がこてんと首を傾げる。そして、まるで当たり前のことのように、軽やかに告げた。
「エディ以外に、私の話をきちんと汲み取って書いてくれる人なんて、この世に一人もいないのだもの」
「うっ」
なんだ、それ。
急に酷いことを言うから、息が止まるかと思ったじゃないか。
「……まったくもう」
呻くように呟いて、はぁ、と大きくため息を吐いた。
まったく、もう。
そんな無造作に、最上級の信頼を放り投げてこないで欲しい。
この人はたまにこういう発言をするからいけない。その一言で、僕はこの何十年の、何もかもが報われたような気持ちになってしまうのに。
「……アンタが話を端折りすぎだからですよ」
緩みそうになる心を叱咤して、崩れそうな均衡を取り戻す。
「ったく、気が短い年寄りはこれだから」
「エディは若い頃から小言が多かったたけれど、老人になってもうるさいわねぇ」
力尽くでいつもの言い合いに引き戻して、軽口の応酬で笑い合った。
僕は、僕らは何十年もこうしてやってきたのだ。
信頼も愛情も気づかない振りで丸呑みして、楽しく隣にいた。
だから僕は、どことなくおかしな今日にも気づいた。
気づいてしまったのだ。




