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何十年にも渡り睨み合いが続いていた西国との国境が、ついに破られ、西との国境にほど近い我が伯爵領にも戦の火の手が迫っていた。
「メアリー、あなたは王都に残りなさい」
「え?」
旅支度を整えた母が青褪めた顔で告げた言葉に、私は絶句して凍りついた。
父は開戦の報を聞くと同時に、慌ただしく領地へ戻っている。きっと戦闘準備に追われているのだろう。
王都に残り、援軍を送ってもらうための根回しを整えた母も、これから領地へ戻るのだ。前線への後方支援と、そして、万が一の時は伯爵代理として領地を守るために。
「伯爵領のすぐ近くまで、敵軍は迫っていると聞きます。王都に残りなさい」
「そんな!」
生まれてから今まで、父母と離れたことのない私は激しく動揺した。なんの疑いもなく、両親と共にいるのだと思っていた。伯爵領に帰ったところで、私がなんの役にも立てないのだとしても。
「嫌です、お母様!私もともに帰ります!」
戦地となったとしても、父母と一緒にいる方が安心だと思った私は、まるで幼子のように母に縋った。けれど、いつも優しい顔で私を撫でてくれる母が、今回ばかりは厳しい顔で首を振ったのだ。
「なりません、危険です」
母はこれまで見たことがないほど真剣な目で私を見つめ、きっぱりと言い切った。
「我が家の血筋を絶やすわけにはいきません。そしてあなたが伯爵領に戻ったところで何も出来ません……いえ、むしろ、あなたを守るために余計な兵力を割かねばならなくなります」
「お母様……」
「あなたも貴族ならば、呑み込みなさい。あなたは王都で、我が国の勝利を信じ、祈りなさい」
母の強い眼差しに、私は呆然と呟き、そして必死に涙を堪えて頭を下げた。
「はい、分かりました。……どうか、ご無事で」
穏やかに笑っているだけだと思っていた母は、私の想像以上に貴族だった。
こうして両親は二人とも、今にも戦火が届きそうな伯爵領に戻った。二人がいなくなってから、私は必死に祈った。
我が軍の勝利を。
そして、なによりも父母の無事を。
「大丈夫かい?メアリー」
「ロレンス様」
ロレンスは、使用人を除いて、住む者が私一人になった王都の伯爵邸へ、しばしば様子を見に来てくれていた。
女学院も休校となり、引き篭もっていて私にとって、ロレンスの訪問が心の支えだった。
「最終学年なのに、学園生活が楽しめなくて可哀想に」
「……お友達とはまた、会えますから」
そう笑って慰めてくれるロレンスに肩を抱かれながら、私は小さく呟いて肩を落とす。
「あの、……伯爵領は」
「まだ火の手は届いていないらしいよ。辺境伯が踏ん張って下さっているからね」
私の不安に満ちた問いかけに、ロレンスは力強く保証してくれた。
「あぁ、よかった」
細い吐息が漏れる。
十五歳を迎えてデビュタントを終えても、まだ学生である私は、政治の世界には立ち入らない。何も知らず、毎朝新聞を見ながら怯えていることしかできないのだ。
「みんな……大丈夫かしら……」
私の愛する領地は大丈夫なのか、昔からお世話になっている使用人たちや騎士団のみんなは無事なのか、そして父母は。
そんな不安に押し潰されそうになりながら、日々祈るばかりの私を、ロレンスはそっと抱きしめてくれた。
「伯爵家の騎士たちは、とても優秀で勇敢だ。必ず君の領民も、お父上とお母上も守ってくれるさ」
そう囁きながら、情けなく泣く私の髪をロレンスは優しく梳いてくれた。
彼の腕の中の喩えようもない安心感に、私はひどい幸福感と、ときめく高揚を覚えた。
「ロレンス様……」
縋り付けば応えてくれるこの逞しい腕は今、私のものなのだ。
「小さな僕のメアリー、君は何も心配しなくて良い。来年の、僕らの結婚式のことでも考えていればいいのさ」
穏やかに微笑んで私に優しいキスをくれるロレンスにうっとりと見惚れる。ロレンスが大丈夫だと言ってくれるのならば、本当に大丈夫な気がした。
きっと我が国は戦いに勝利し、十六歳になった私は幸せな花嫁になるのだと。
「……愛しておりますわ、ロレンス様」
「僕もだよ、可愛いメアリー」
温かな腕の中で、全てを捨て去ってくれた姉に、私は初めて感謝した。
もともと芽吹いていた私の恋心は、不安な日々を癒し、私の心を守ってくれる優しい婚約者に向けて、ぐんぐんと育って行った。
たとえ家族が皆、私を置いて行ったとしても、ロレンスがいれば良い。
ロレンスが私を抱きしめてくれるのならば、どれほど恐ろしい状況でも耐えられると、私はそう感じていたのだ。
けれど、不意に数日間、ロレンスの訪問がない時があった。
心がざわざわと落ち着かず、眠ることもできなかった私は、数日ぶりに現れたロレンスに飛びついた。
「ロレンス様!よかった、どうなさったのかと」
「連絡できなくてごめんね、メアリー」
申し訳なさそうに告げるロレンスは、少しやつれた顔をしている。戦時中で、彼も貴族令息として忙しかったのかもしれない。そんな中でわざわざ来てくれたのだと思うと、なおさら喜びと愛しさが募る。
「いえ、きてくださいましたもの」
私は蕩けるように笑って、ロレンスに抱きついたまま告げた。
「お茶を用意しておりますの。一緒に」
「あぁ、ごめん、時間がないんだ」
「え?」
ロレンスの纏う空気がいつもとは違うことを感じ、私の心臓がドキリと鳴る。嫌な音を立てて速くなる鼓動は、続く言葉を無意識に予期していたのかもしれない。
「命令が下ったよ。明後日、私も王都を出る」
「そんなっ!?」
私は全身が冷たくなったような気持ちだった。
ロレンスは近衛騎士団の一員だった。
もっとも、平和な近年では、貴族令息の箔付けや名誉職のようになっていた近衛騎士だが、今回のことで一気に様相が変わった。
元から名前だけ所属していたような貴族の放蕩息子たちは次々と逃げ出し、また、不真面目であったり能力の足りない者も次々と騎士団から放り出された。
それなのに、真面目に訓練を続けていたロレンスは、戦力に足る要員として認められてしまったのだ。
「指揮官として行くんだ。名誉なことだよ、泣かないで」
「でも、だって……危険ですわ」
ポロポロと涙をこぼしながら、私はロレンスにしがみついた。戦地に近い伯爵領にいる両親のことも心配なのに、私の愛する婚約者は戦地そのものに行くと言うのだ。悲しまずにいられるだろうか。
ロレンスが死ぬかもしれないと思うと、恐怖に体が凍りつくようだった。
「ねぇ、愛しいメアリー」
ロレンスが大きな手で、優しく私の髪を梳りながら子守唄のように囁く。
「僕はね、我が国の民が少しでも守れるように、……ううん、王都で僕を待ってくれている君のために、行こうと思うんだ」
「私のため?」
私のためだと言うのならば、そばにいて欲しい。すぐ隣で悲しい時に肩を抱き、寂しい夜に抱きしめて欲しい。それが幼い私の本音だ。
「愛する人に危険が及ばないために、この身が役に立てるのならば、僕は喜んで向かうよ」
「っ、ロレンスさま……」
「どうか僕のために祈ってくれ、君の優しい祈りがきっと僕を守ってくれるよ」
ポロポロと泣きながら、私は涙に滲む視界でロレンスを見上げた。
「私の想いは、届きます、か?」
「あぁ、もちろん」
幼な子のように泣き続ける私を笑いもせず、ロレンスは愛しくてたまらないと言うように顔中に口付けを落として、涙を吸い取ってくれた。
「可愛いメアリー、泣かないで。大丈夫だよ。近衛騎士団に所属していて、しかも伯爵家の次男で君と結婚が決まっている僕は、現地に出向く貴族の中でもそこそこ上位にあたるからね。後方で指揮をするだけだから、そうそう死ぬことはないさ」
私を慰めるようにそうおどけると、ロレンスは幼子をあやすように、優しく私の額にキスを落とした。
「さぁ、笑って見送っておくれ。僕は君の笑顔を守るために、戦いに行くのだから」
「……静かだわ」
戦場に向かう騎士達を見送るパレードから帰宅した私は、沈痛な空気を湛えた屋敷でポツリと呟く。
両親は今、領民を守るために走り回っているのだろう。
婚約者は今、敵と剣を交えているのかもしれない。
けれど私は、守られた王都の安全な屋敷で一人泣き暮らすくらいしかできることがないのだ。
あぁ、情けない。
私は一人きりだ。
戦況を知るためには新聞を読むしかない私は、毎朝配達員が届けてくれるのをじりじりと待っている。
「お嬢様、届きましたよ」
「ありがとう」
侍女が持ってきてくれた新聞を、目を皿のようにして読み進める。
紙面が伝えるところによると、敵国との兵力は五分五分で、今は均衡が保たれ、国境は突破されていないらしい。と言うことは、きっと伯爵領はまだ無事なのだろう。
死者の数は日に日に増えているが、まだ貴族の死者はいないようだ。爵位を持つ家の人間が死んだ時は新聞の一面に載るから、ロレンスもきっと死んではいないはず。
「……よかった。ロレンス様はきっとご無事よね」
自分を言い聞かせるように呟き、私は今一番危険な場所にいる恋しい人を想ってため息をつく。
どうか無事に帰ってきて欲しい。いっそ怪我をして、戦力外になって帰ってきてくれないかしら、とすら思う。命に別状のない、ちょうどいい怪我をしてくれれば良いのだけれど。
「……あぁ、いけない。こんなこと、考えてはいけないわ」
己の身勝手で不謹慎な思考に、苦々しく顔を歪めて首を振る。
私は彼の健闘を信じて、無事を祈っていなければいけないのに。
必死に戦っているロレンスに申し訳がない。
「はぁ……」
己の身勝手さに重いため息を吐きながら、頁をめくると。
「え?……お姉様?」
白衣を纏い、凛々しく指示を飛ばす姉の写真が、大きく掲載されていた。驚いて見出しを読めば。
「『白き女神は王都にあり』……?お姉様、今は王都内にいらっしゃるの?」
記事によると、普段は戦場で傷ついた兵たちを治療している姉だが、今は王都の戦争による傷病者を治療する病院の責任者として働いているらしい。国王からの求めで、一時的に前線から王都に戻ってきているそうだ。
「前線にはお姉様の弟子たちが複数残って、王都に辿り着くまでの応急処置を施し、お姉様が王都の施設で手術や処置をしているのね……」
高度な医療が必要となる者たちを一人でも多く救うため、と書いてあるから、きっと毎日白衣を赤く染めながら、走り回っているのだろう。けれど。
「よかった……戦場よりも、きっとよほど安全だわ」
いつも危険な場所を駆けている姉のことは、考えまいとしても、いつも心配していた。新聞で姉の訃報を知るのではないかと怯えていたのだ。王都にいるのならば、むしろ普段よりも安心だと、私は肩の力を抜いて、久しぶりに笑みをこぼした。
それに王都内に姉がいる、いつでも会いに行けるという安心感は大きかった。
お姉様はいつだって強くて立派で、ほんの五歳しか上ではないのに私にとってはずっと大人だったから。
すぐ近くに庇護してくれる人がいるという安堵は、私の心を随分と慰めたのだ。
私はそれから静かに祈りの日々を送った。
騎士達の無事を祈って毎日刺繍をし、それを伯爵領に送るくらいしかできない。
毎日伝わってくる戦況はよくわからなかった。我が国の騎士団がもう少しで相手を押し返すと、そんなようなことばかり書いてあった。
「戦争なんて、はやく終わらないかしら」
重いため息をつきながら、私は憂鬱に新聞を折りたたむ。両親からは無事を知らせる手紙が来たけれど、一週間も二週間も遅れて届くから安心することは難しい。ロレンスからは余裕がないのか、ちっとも便りがない。
「でも、何かあれば連絡があるでしょうし……」
そう自分を言い聞かせながら、過ごしていた、ある日。
「…………え?国境が突破された?」
白黒の新聞の紙面で大きく主張する恐ろしい文言。伯爵領のすぐそばまで敵軍は迫ってきているという。
「そんな……え」
読み進めていた私は、思わず息を止めた。
だって、次の頁の生死不明者の一覧に。
「ロレンス……さま……」
愛おしい婚約者の名前が載っていたのだから。