とある名医が師匠と呼ぶ女についての述懐3
「……まだ時間かかりそうですか」
深夜の診療室で、黙々と書類仕事をしている師匠に目を向ける。
「まだかかるわ。先に帰りなさい」
「一応女性のあなたを、深夜に一人で残しておくわけにはいかないので」
「あら、私の性別を知ってたのね。驚いたわ」
僕の軽口に付き合うことにしたらしい。師匠は目を書類に落としたまま、いつも通りの淡々とした声で返した。
「いやまぁ僕にとって、師匠は師匠という生き物ですけれど、悪人にとっては普通に腕力だけで押し倒せそうな小柄な女性に過ぎないので」
女性にしては少しは長身の部類だが、鍛錬を積んだ武人ではない師匠は、大半の男が本気になれば易々と組み伏せることができるだろう。まぁ、僕の知る限り、そんなことをしようと思う命知らずはいない。おそらくは、ギリギリ死なない神経毒を盛られてのたうつことになるだろうから。
そんな取り留めのないことを考えていたら、不意に顔を上げた師匠にじろりと睨まれた。
「悪かったわね筋力がなくて」
「体力は弟子たちよりあるから良いのでは?」
「あんたたちは体力じゃなくて、根性が足りないのよ」
「ははっ、なるほど」
ばっさり切り捨てられて、思わず吹き出す。
「まぁ確かに、何時間もご遺族に責め立てられても淡々と同じ説明を繰り返せる師匠の肝の据わり方は、半端じゃないですよね」
今日仕事が長引いている原因に言及して皮肉っぽく揶揄すれば、師匠は不快そうに眉をひそめて吐き捨てた。
「そんな言い方はやめなさい。……真っ当な悲嘆は、苦情とは異なるわ。あの青年は、少し状況が違えば助かった命だった」
今日の重傷患者は、森の中で熊用の罠に引っかかって足を負傷し、そこから感染してしまったという青年だった。数日家で様子を見ている間に感染が悪化したらしく、診療所にやってきた時にはもう、切り落とすしかない状況だった。
だが、四肢切断なんて離れ業をやってのける人間は、今のところ師匠と数人の弟子しかいない。そしてその限られた数人が、今日はたまたま夜まで不在だった。
隣村にいた師匠と僕は、連絡を受けて慌てて駆け戻ったものの、間に合わなかった、というわけだ。
「状況が違えば、って、それを言うなら、己を過信した青二才が、単身で森の中になんか入らなきゃよかったって話では?」
そもそも怪我をしなければよかったのだと嘯けば、師匠はますます苦々しげに顔をしかめる。
「ここに来れば助かる、同じ状況でも助かった人間はいる、なのに何故うちの息子は助からなかった。……家族がそう思うのは、当然でしょう」
「そりゃ本人の運が悪かったからですよ。というか、助かった人間が強運すぎただけで、普通は助からないんです。そういうもんです」
僕にはあまりにも当たり前のことだ。同じ怪我でも、状況が違えば助からない。それが運、いや、運命というものである。
しかし師匠はそうは思えないらしい。書類から顔を上げ、僕を恨めしげに、いや、いっそ羨ましそうに眺めた。
「はぁ……エディは本当に割り切るのが上手いわね。あなたは医者に向いているわ、心底そう思う。さっさと地元に帰ってお医者さんをしなさい」
最近よく言われる台詞をまたも言われるが、僕はフンと鼻で笑った。
「いやですよ、僕は師匠に一生付き纏うと決めているんで」
「は?」
ポカンと口を開けた師匠がまじまじと僕を見る。弟子というのは期間限定だと思っているのだろう。しかし残念ながら、僕は師匠から離れるつもりはない。
「だって、こんな面白い人生はないですもん。毎日とんでもないことばっかり起こる。冒険小説も真っ青ですよ」
「……ったく、本当に嫌な子ね」
どれだけ揶揄っても、煽っても、淡々と言い返すばかり師匠に、僕はため息を押し殺した。
まだダメか。いつもなら、そろそろ感情を露わにするのに。今日は全てを呑み込んだような顔をしたままだ。
「うーん」
降参だ。
真顔のままの師匠を前に、もう策が尽きた僕は、呻きながら諸手を挙げた。
「……ねぇ師匠。もう少し素直に、弱音とか泣き言ってやつを吐いたらどうですか」
今日亡くなった青年は、まだ子供と言っても良いほどに若かった。
僕らが到着した時、治療までの場繋ぎに投与された激痛を緩和する麻薬のために、彼の意識は朦朧としていた。
けれど。
「患者はどこ!?」
凄まじい勢いで馬を駆って診療所に辿り着いた師匠が、転がり込む勢いでベッドまで駆けつけた時。
「あ……ぁ……」
ぼんやりとした目で師匠を捉えて、安堵したように、嬉しそうな掠れ声で言ったのだ。
「よかった、やっと、聖女様が……っ」
と。
これで助かると、聖女様が助けてくれると、信じて疑わない声で。
そして、安らかに目を閉じた。
微笑みと共に吐き出された最後の吐息は、駆け寄った師匠の掌にかかり、そしてもう二度と息を吹き返すことはなかった。
「……っ」
師匠はそっと首元に手を当てた後、静かに口にした。
「……心臓が止まっているわ。残念ながら、お亡くなりです」
青年の死を告げる直前、悔しげに唇を噛み締めた師匠の顔が泣き出しそうに歪んだのは、おそらくすぐ隣にいた僕しか気がついていないだろう。
その後、恐慌状態の両親や兄弟たちに泣きながら詰め寄られている間は、ずっと冷静な顔をしていた。
いつもの、完全無欠な天才医師の顔を。
「言ったらどうなるの?死んだ人が生き返るの?」
「生き返りませんけど、気が楽になりません?」
「ならないわ」
弱音を吐いたら死んでしまうとでも言うのか、師匠の口から弱音を聞いたことがない。
この人は昔からそうだったのだろうか。それとも、師匠は僕たち弟子を導く存在である以上、僕らの前で弱音は口にできないのだろうか。
「師匠って、家族にもそんなに格好つけ野郎だったんですか?」
「格好つけ野郎って何よ。ご存知の通り、私はレディよ」
「レディは隣村まで歩かないし、着の身着のまま野宿しないし、あとそもそも、『アタシが世界を変えるぜ』とか言って家を飛び出したりしないのでは?」
「ちっ、ああ言えばこう言う」
婚約者がいるようなお貴族様のご令嬢だったくせに、立派なお家と名字を捨てて、大陸一有名な平民医者になった女傑である。わりと意味がわからない。
そんな壮絶に逞しい師匠だが、この質問は鬼門だったのか、随分と難しい顔をしている。
「家族に弱音、ねぇ……言ったことないんじゃないかしら?」
「なんで?」
純粋に疑問で問い掛ければ、師匠からもあっさりと答えが返される。
「だって、私が弱音を吐いたり失敗したりしたら、親は心配するし止めるでしょう?こっちはやめる気なんかないのに、止められたら鬱陶しいじゃない」
「素直じゃないなぁ」
師匠の言葉も真実なのだろうけれど、それだけじゃないだろうに、心配させたくなかったとは言わない師匠に苦笑してしまった。
「例の婚約者さんにも言ったことないんですか?」
「ロレンス?そんなこと言わないわよ。言ってどうするのよ」
「あ、そうなんだ」
試しに聞いてみたら即座に否定された。意外だな、と横目にチラリと見れば、師匠は感情を押し殺した目で手元の書類を睨みつけている。
「同情や憐憫なんかいらないわ。誰に何と言われても、私は進む道を変えるつもりはないのだもの」
「ふぅん……」
厳しい目でどこか先の未来を見据えている師匠を、僕はぼんやりと眺める。
甘ったれた感情は不要だと振り払う様は、どこか危うく見えた。
師匠のこの情熱と信念を支えるものは、一体何なのだろうか。
もたれかかるもののない人生は、苦しくはないのだろうか。
「師匠、意外と家族仲はよかったんでしょ?家にいる間くらい、親身に相談に乗ってもらったり、温かく励ましてもらったり、して貰えば良かったのに」
「無用よ。目指すべき場所があるのならば、そのための対策や改善策を考えて、すぐさま行動に移すべきだもの」
未熟な弟子相手ならともかく、ご家族にくらい甘えれば良いのに。
そう思って尋ねても、師匠は取り付く島もなく切り捨てる。
「すでにやるべきことが分かっているのに、人に相談するのも励ましを求めるのも、時間の無駄だわ」
「まったくもうっ、極端な人だなぁ!」
はぁー、と大袈裟にため息をついて、僕は大きく頭を振った。
「やれやれ……ねぇ、弱い師匠でも、僕は失望したりしませんよ?」
それくらいは信頼してくれても良いのに、と思ってじろりと睨んだら、師匠はキョトンと瞬いてから、くしゃりと破顔した。
「ははっ、それはありがとう。でもね、だめなの」
コトン、とペンを置いて、師匠はじっと手元を見つめる。そして静かに、己の中の弱さを見据えるように、淡々と語った。
「たぶん逆なのよ……私が本当は弱いことを、私は知っているから、だから振り向かず、駆け抜けるしかないの」
「なぜ?」
静かに問い掛ければ師匠はそっと僕から視線を外し、顔を背けて呟いた。
「だって一度止まったら、……もう走り出せないかもしれないじゃない」
「……師匠」
一瞬だけ泣きそうに見えた横顔の儚さに、思わず息を呑む。けれど、僕が言葉を見つけられず戸惑っている間に、師匠はもう立ち直っていた。
「まぁ見てなさい!これからも、この世界の医学の先陣を切って駆け抜けてやるわ!」
「はぁー……」
高らかに拳を突き上げ、強い目で未来を睨みつける師匠の姿に、僕は脱力して笑ってしまった。
「あはは、強がりもここまでくれば見事ですね」
「強くあろうとし続けていれば、強くなれるものでしょう」
偉そうに胸を張って、師匠はニヤリと強気な笑みを浮かべる。
「虚栄も見栄も、続けていれば、いずれはホンモノになるのよ」
「ふふ、そうですか。カッコいいなぁ」
「なによ、皮肉?」
「違います、本音です」
軽口を叩き合い、僕らはそれぞれの作業に戻った。部屋の空気は、最初に比べれば随分と柔らかくなっている。師匠の書類作成速度も上がってきた。この調子なら、そろそろ帰れるだろう。
「まぁ僕は、死ぬほど見栄っ張りで、空元気だとしても強気で生きてる師匠、嫌いじゃありませんよ」
「あ、そう」
ぽつりと呟けば、一瞬だけこちらを見た後で、師匠はさも興味なさそうにぽつりと呟いた。
けれど机に向かう師匠の口元が少しだけ緩んでいたので、僕はわりと満足した。




