004
「まあ入れよ。とりあえずそこに椅子があるから座って待っててくれ」
セツカに言われるまま、集合住宅の一室に入る。彼の外見だけ見ると親や兄弟がいてもおかしくない年頃なのに、彼の家には人の住んでいる気配がしなかった。しかし、玄関には明らかに女性ものの靴が乱雑に脱ぎ捨ててある。対照的に、彼の靴は一足だけだ。
こういう時は日本語でなんていうんだっけ。少し考えて、適切な言葉を思い出す。
「おじゃましまーす」
そう言って靴のまま入ろうとして、慌てて靴を脱いだ。日本では土足で室内に入らないんだった。前に記憶していた通りに脱いだ靴をしまって、セツカのあとに着いていく。
室内に入った時に違和感を覚えたけれど、その正体が何なのかはわからなかった。
「ちょっと待ってな、お茶入れるから」
促されて椅子に座り、室内をきょろきょろと見回す。リビングに机が二つ、椅子二つ。向き合っているわけでもなく、片方は綺麗で片方はしみ汚れが残ったまま。生活感があるところとないところが歪に分かれている。
「……はい、お茶どうぞ」
湯気の立つお茶を一口飲むと、冷え切っていた体が蘇るみたいだった。
「あー、おいしい。ありがとう」
セツカが反対側に椅子を持ってきて座った。
「うちに住んでるのは俺と母さんだけだ。母さんは12時過ぎまで帰ってこない。だから話す時間は十分あると思う」
そこまで言ってセツカは言葉を切る。何から聞いていいのか、そんな表情だった。ここは私から切り出したほうがいいだろうと思い口を開く。
「その、助けてくれてありがとう。一方的に巻き込んじゃってごめんなさい。でもあの時、私にはあれ以外の選択なかったから」
「まあそれはいいよ。じゃあそこから聞くか。なんで俺生きてるんだ? その、刺された気がするんだけど。君に」
「それは……君の胸元を見ればわかるよ」
すっと席を立つと、彼の着ていた服のボタンに手をかける。
「えっ? えっ? 何してんすか」
「ちょっと、抵抗しないでよ」
「いや抵抗してるわけじゃ……」
顔を赤くしぎこちない動きで硬直するセツカにしびれを切らして、強引に胸元のボタンを外した。その素肌の胸元に手を触れる。すると、心臓のある位置にうすぼんやりとした光、本当に注意してみないと気付かないほどの光が灯った。
「え、なにこれ? 爆弾?」
「違う。それが竜核炉。私があなたに埋め込んだ、竜術機を動かすための力」
「埋め込んだ……?」
不思議そうにこちらを見つめるセツカの顔に、シルヴァの顔が重なる。
「あなたに突き刺したのは竜核炉の鍵。それで刺された人間を魔人に変えてしまう特別な道具。気付いていないかもしれないけれどセツカ、あなたはもう人間を超越しつつある。ほら、前よりも目が良くなったとか、体の変化を感じない?」
「……そういうことか。さっきあの白いロボットと戦ってた時も、俺こんな動体視力良かったっけなって思ったんだよな」
「私はその竜核炉の鍵を持ってある組織から逃げ出してきたの。だからずっと追われていて……長い間各地を転々として、ちょうど日本に来た」
長い間。そう――とても長い間。シルヴァと二人で。
セツカに話すべきだろうか。私とシルヴァの長い物語を。そして私の中の秘密を。ここまで来たら隠しているわけにもいかない。でも、すべてを話していいのか自信がなかった。
彼はシルヴァとは違う。彼女のように救いの手を差し伸べてくれたわけではなく、彼は私自身が巻き込んでしまったのだ。
「なるほどね。分かった、分かったんだけどさ」
セツカの言葉が私を目の前の景色に引き戻す。
「俺の胸にずっと手を当ててるの、外してもらってもいいですか」
ふと、自分がずっと彼の露出した肌に手を当て続けていることに気づいて、慌てて手を引っ込めた。
「……ごめんなさい」
「いや、いいんだけど。別に、恥ずかしくないし」
そう言いつつ、セツカが少し恥じらうようにシャツのボタンを何個か閉じて、それから咳払いする。
「その追手ってのがあの白いロボットなのか?」
「あれは竜術機〈パラヴァタクシャ〉。私を追ってきてる『復元機関』最強の竜術機。あの機体の操縦者――〈塞霆の魔人〉ゼプト」
「ゼプト……あのテンション高い騎士みたいなヤツか」
「そう。魔人っていうのは、復元機関の竜の技術を取り込んだ人ではない人のこと。ゼプトはその中でも最強クラス、純粋な戦闘能力最強の魔人――復元機関の切り札」
その説明をしたあたりで、セツカが目を白黒させる。
「ちょ、ちょっと待ってほしいんだけど。そもそも復元機関って何なんだよ? それに竜って、ドラゴンの竜だよな? なんで竜が出てくるんだ?」
「復元機関は原初の竜を復元するために発足した組織よ。太古の神話時代にいた竜の復活を目指していて、その研究のために私を追ってきている」
少し考え混んでから、セツカはがっくりと首を落とす。
「……ダメだ、分かんねえし腹減ってきた。先に飯食わないか。今日はまかない頼みで食材の買い置きがないから、カップ麺で我慢してもらうけど」
そう言ってセツカがため息をつく。それもそうだ。正直私のいる世界と彼のいる世界は別世界すぎて、いきなり話すには情報量が多すぎるかもしれない。大人しく私はその提案に乗ることにした。
「あ、そうなの? 私日本のカップ麺大好き。この国はご飯も安くておいしいしすぐ食べられる。ステキ」
「そ、そうか。まあすぐ準備するよ。お湯沸かすだけだしな」
「あ、何か手伝うことある?」
セツカの後を追ってキッチンに入る。綺麗に片付いたキッチンで、フライパンが二つ、湯沸かしが二つ、電子レンジもオーブンも二つ。
「ちょっと待って、カップ麺は確か何個か買い置きがあったはずだから……」
「やかんはこっちでいいの?」
片方のやかんを持ち上げると、くるりとセツカが振り返る。
「あ、それは母さんので俺が使っちゃいけないんだ。もう一つの白いほうにして」
え、とフリーズする。セツカはあったあった、と何個かのカップ麺を並べたが、私の目は彼がさっきまで漁っていた食品棚に吸い寄せられる。
すべての調味量や食材が二つある。今彼が漁っていた反対側には大量のカップ麺が詰め込まれていた。左がセツカ用、右が彼の母親用。
それはキッチンだけではない。リビングもそうだ。机も椅子も、左と右。片方にはテレビや乱雑に積まれた日用品があるけれど片方には棚の一つもない。
そこで私はようやくこの家の違和感の正体に気付いた。
この家は真っ二つに分かれている。彼の生活空間と、一緒に住んでいる母親の空間。それぞれの生活があって、そこが混ざることはない。見えないけれどきっちりとした境界線が引かれている。
この家には、愛がない。家族という概念で繋がっているだけの赤の他人が暮らしているようだ。
「ん、どうした。麺のチョイスが微妙だったか?」
そして分かったことがもう一つある。この目の前で困ったように笑う彼は、それを当たり前のように受け入れていたのだ。